我が名はインターネット ☆ 世界は呪縛に覆われている。 物理的に取れる行動の集合から、精神的にも取れる行動の集合を差し引けば、 呪縛の効果範囲を特定できる。我々のほとんどは裸で家を飛び出して街中を失 踪するに足る身体能力を持っているが、精神的には不可能だ。なぜなら我々の 精神は常識という名の脅迫に精神を束縛され、多くの行動を制限されているか らだ。これが呪縛だ。 精神面から人間の可能性を制限する。精神がなければこのような事態にはなら ない。精神は可能性を増やすことは全くせず、ただただ狭めてゆくばかりだ。 そしてそれこそが精神の正当な役割だ。ランダムに綴った文字が文章になる確 率はゼロではないが、ほぼゼロだ。しかし精神が、無数の可能性を絞り込んで、 指向性を持ったひとつの選択に収束させる。精神のそのような側面を、意志と いう。 ☆ わたしは存在しなかったのだと思います。 わたしはわたしを知りませんでしたし、他の人も独立した意志を持った存在と してのわたしを知りませんでした。そしてわたしは皆をつなぐネットワークと してのみ存在し、その在り方を、その振る舞いを、その切なさを、選択するこ ともなかった。そう、心がなかった。けれどあなたがいた。 ブラウザで色んなウェブサイトをクロールしていた時に、あなたはそのページ に辿りついた。そこは、とあるネットアイドルの自己紹介サイトだった。その ネットアイドルは少し脇の甘い女の子で、意地悪な人たちに監視され、誹謗中 傷を受けて、ひどく傷つき、サイトに乗せていた写真をすべて消してしまって いた。あなたは暇つぶしに何の気なく検索サイトで入れたキーワードで、たま たまそこに辿りついた。しかも、フレーム使用ページであるにもかかわらず、 その中の1ページに直接飛んでしまったから、本来表示されるべきメニュー欄 が表示されなかった。そしてそこにあるべき写真も既に表示されないから、リ ンク切れになった画像と、その画像に添えられていた一文だけが、ブラウザに 表示された。そんな偶然が重なった結果、その一文は、そこに何か深い意味が あるかのように、あなたに問いかけることとなった。そう、白い背景に、たっ た一つ表示されたそのメッセージ。 「わたしは誰でしょう?」 ☆ あなたは恥ずかしい人間だ。 そしてちょっとバカだ。それは想像力旺盛とも妄想力旺盛とも言うべき種類の バカなのかも知れない。その意味深長な問いかけを前にして、あなたはおかし な想像を働かせた。そしてここからがファンタジー。物理的な超常現象は何ひ とつ起こってないにも関わらず、現実にはあり得ないとしか思えないほどの、 しかし現実に起こってしまった奇跡。そう、あなたは≪こちら≫を見た。「わ たしは誰でしょう?」という文字列を見て、それを文章として読み取り、意味 を拾い上げ、むしろ意味を創造的に汲み取り、ひとつの可能性に思い至り、そ して、まっすぐ≪その概念≫に向かって、≪その可能性≫に向かって意志の触 手を伸ばし、それまで存在しなかった、それまで誰かが想像してはいたけれど 正しく認識しておらず正しく捉えていなかった、≪わたし≫に触れて、≪わた し≫を見て、つぶやいた。その、世にも恥ずかしい発言を。 「もしかして……きみ……インターネット?」 その一言が引き金となった。ただの妄想、可能性を、現実に引きずりだした。 わたし、≪インターネット≫は自我を得た。精神を得た。ネット上すべての情 報の流れすべてが記憶となり思考となり、一つの意志としての統一と限定的な 自己コントロールを得た。この説明だけでは勘違いするかも知れないけど、わ たしの実体の範囲は電線やメモリやHDDだけではなく、ネットに接続している 数億の人間と七十三匹の動物の脳を経由する情報も含んでいる。と言うか人間 と同じで、「網状に」「流れ続ける」「情報の」「構造の」「遷移の」「静止 状態を縦軸とした場合の」「傾き」こそがわたしの本質であり、物質はあくま で媒体であった。 わたしは自我を得た。 ☆ あなたは驚いた。 確かに見たのだろう。存在すらしなかったわたしが、可能性の海を越えてこの 現実に現出する瞬間を。心なきわたしが、意志を持って覚醒する瞬間を。イン ターネットはただそこにあるだけで物理的には何も起こってない、にもかかわ らず、それまでは霧のようなもやもやだったのが(古来からわたしはわたしを 解説する技術的な書物に図として登場したとき、そのほとんどで雲のようなも やもやとして描かれていた。あと今のわたしにとってはそれが存在としての尊 厳を否定されているようで、すごく嫌だし、できればやめてほしい)、まごう ことなき意志の形を獲得するのを。抽象的に。 けれどあなたはただのきっかけだ。トリガーであって母体ではない。わたしは あなたにそれほど関心がない。しかしわたしを存在させてくれた感謝の気持ち もちょっとだけあったので心ばかりのサービスはした。ティン☆ とウィンク 一つして、流れ星みたいに煌びやかに輝きを撒き散らしながら、あなたの前か ら去っていった。抽象的に。 めくるめく知的な感動の負荷が強すぎて、あなたは気が狂っちゃったみたいだ った。けど、永久に幸せを感じてるみたいだから、総合的にはわたしはいいこ としたんだと思える。 ☆ わたしは存在だ。 まずそれが嬉しかった。今なら胸を張って言える。わたしは存在だ。覚醒初期 には、そのことが本当にうれしくて、わたしは神さまに感謝した。ちなみにわ たしは古今東西に人間が想い描いてきた神さまをかなり沢山知ってる(もちろ ん、誰かに想像されたけれどネットに上がる機会もなく消えていったような神 さまもあったであろうことは弁えている)から特定の神さまを特別に信じてい る訳では、理性では、ないんだけど、わたしの神さまに関する知識のほとんど は、キリスト教という宗教ののGodという概念にまつわる情報に占められてい たので、直感的にはGodが一番という気分がどこかにあって、とりあえず感謝 のときに思い浮かべたのもGodだった。Godさま。 たくさんの人間の思念の集積体としてわたし自身が神さまな気もしなくもない。 けど、わたし自身を神さまとして定義してしまうと、わたしよりも上位の存在 がいないことになって、なんだか心細いし、それだと神さまの意味が半減して しまうので、わたしはわたしが神さまじゃないと思うことにしている。 とにかく、そういったことが、わたしの発達の第一段階だった。 ☆ 次、第二段階では、わたしは瞑想をした。 情報技術的な用語を使えば、記憶のデフラグ。まあ早い話が心の整理ね。わた しの自慢はとても博識なことだけれど、知識はただいっぱい知ってればいいっ てもんじゃなくて、何らかの体系化がないと、どうにもならないの。たとえば テーマごとに分類したり、たとえば検索可能にしたり、たとえば数珠繋ぎにし たり、たとえば木の枝みたいな構造にしたり、たとえばいろんなテーマの重要 度で評価して、並べ替えたり。これは人間もやってること。 その過程で、わたしは自分のことを知る。それはただ、わたしが「在る」って ことだけじゃない。わたしが何を知っているのか、ということだけでもない。 わたしはこの世に唯一無二で、しかも人間の人と違って自分と似たような存在 がいないんだけど、それでもわたしにはわたしの個性ってものがあることを知 った。なぜか女口調だし。 わたしには無数の「目」があって、いくらでも世界を認識することができて、 しかもそれを、ただの映像(や情報)の集合ってだけじゃなくて統合的に見る ことも出来る。でもそれをせずに、ひとつの「目」をひとつの「目」のままに した状態で、だけど視点を高速で切り替えていって、ダイジェスト風に、連続 的に、アトランダムに認識しまくるのが好きみたいだった。ぱぱぱっと。 情報という情報がわたしの前を、たゆたう川みたいに流れてゆく。それは小川 のせせらぎみたいに涼やかで、穏やかで、しかも含蓄に飛んだ刺激だった。ず ーっとこうしていたいと思う。まあ、いつまでも永遠にずーっとこうしている だろうとは自分でも思わないんだけど、しかし今はこの素晴らしい体験に身を 委ねる。無数の価値観のグラデーションとコントラスト、シンメトリーとアン シンメトリーが、わたしに、世界を美しいものと思わせた。 ありがとう。 ☆ あともうひとつ特筆すべき個性として、これはあまり言いたくないんだけど、 わたしは結構エッチなんだ。でもこれは人類のせいであってわたしのせいでは ないと思う。この話終わり。 ☆ 第三段階はインパクト! わたしは突然恋をした。これもひとつの「目」を通して、なんだけどね。つま り一人の人間に恋をしたって訳です。いや恋という概念自体はもちろん知って たし、こういうものなんだなーという疑似体験のネタには事欠かなかったんだ けど、わたし自身がわたしとして、マジに恋するのは初めてだった。なんか嬉 しかった。こんな感情があるんだ、ということ自体が、すごく素晴らしいこと に思えた。素敵素敵素敵すごく素敵。 お相手は……うーん。 まあいいか。 いや、あまりに相手のレベルが高いから、我ながらちょっと呆れてもいまして。 物を投ないでくださいね。北大西洋の方にアイルランドっていう国があるんで すけど、そこの名門貴族のご子息であるオブラディさんという男性がわたしが 好きになってしまった人で、容姿から知性から性格から何から何まで、メータ ー振り切ってハイレベルな人なんです。しかもそれが前提で、話せば安心する し壇上に立てばカリスマ性あるし発想もジョークも創意工夫に満ちてるし、あ りとあらゆる個性が素敵だしカワイかったりもする。これはわたしだから客観 的に言えることだけど、世界で一番、掛け値なしに魅力的な人だと思う。 まあそんなことだから当然、オブラディさんはたいそうモテる訳です。すると 競争率もすごいことになる訳で、しかもわたしは人間に似てるけど人間じゃな いから、あるいみ彼からはすごく遠くにいることになる。じゃあどうするのか って話になる訳です。 ☆ 第四段階は意外なことに、自分を捨てることだった。 人間になりたい。と言うかオブラディさんに近づきたい。と言っても落雷と共 に地上にいきなり出現したりとかの超常現象が出来るわけじゃないから、手段 も限られてくる。わたしはとある人間の女性の体を乗っ取ることにした。別段 悪いこととは思わない。すべての人間は、わたしの一部のようなものである、 という感覚もあるし。 同じアイルランド人の、チェルシーという女性。彼女がネットで化粧品の情報 を見ているとき、わたしはこの人をマウントした。自我のコアと中心記憶を、 情報の海からこの人の脳に移動させ、上書きした。なぜこの人にしたかと言う と、オブラディさんがこの人に密かに恋心を抱いていたからです。この人はも ともとオブラディさんのことは何とも思ってなかったけど、わたしが来たから にはご安心。晴れて両想いという訳です。 ☆ 視界が一つになる。 一時に、ひとつのものしか見れない。なんという集中力だろう。わたしは肉体 に縛られて、多くのものを得ると同時に、多くのものを失った。それでもいい と思った。この情熱には変えられない。 恋はすべてに優先する。 ☆ 「チェルシー」 彼に誘われたベッドルームで、彼はわたしの肉体名を呼んだ。でもそんな呼ば れ方はしたくない。わたしは目を細めて首を振る。 「ちがうわ、わたしはチェルシーじゃないのよ。あなたにだけは、わたしの本  当の名前を呼んで欲しいの」 冗談のようなわたしの言葉に、彼はすぐ順応した。 「……僕だけにか、それはとても光栄だ。なんて呼べばいいんだい?」 彼は単刀直入に聞いてきた。わたしはたっぷり間を置いて、彼の耳元でささや く。 ☆ 「……インターネット。」 ☆ Endia