ニワトリアス 目次 1.ニワトリアス 2.アルキメデス 3.飛翔 1.ニワトリアス  種田さんちの鶏は賢い。  実は賢い。  傍目には、ランダムに歩き回って互いを突付いて、エサを食べて、それから糞をひるだけだ。  が、その精神活動は人間のそれをはるかに超えて高度だ。  トタンのバリケードに囲まれた狭い世界で、その13匹は。  ハーバード大学の医学部研究室もかくやというほどの濃密な思考と情報交換を行っている。  このことは、彼らのオーナーである一人暮らしの種田さん(52歳)も全く気づいていない。  この地球が始まって以来の、生物やヒトの誕生をも超える最大の奇跡は、種田さんちの庭で起こった。  地球全体という規模で大局的に見れば、「まずあり得ないこと」が「たまに起こる」のはべつに不思議なことではない。  その場所がたまたま種田さんちの庭だっただけの話で、話はそこをフォーカスしてるに過ぎない。  きみは確かにそうだと納得した。  オッオッという。  そうすると別の鶏が、オッオッオッと返す。  これが彼らのコミュニケーションだ。  同じことしか言ってないようにも聞こえるが、もちろんそれは人間が聞いたらの話だ。  彼らは自らの主張と意志、大量の情報を込めてオッと発音し、別のニワトリはそれを正しく受け取る。  返事はオッと返されて、かくしてコミュニケーションが成立する。  彼らは独自の言語を用いていた。  だが彼らには記憶力がほとんどない。  鶏だからではない。  確かに普通の鶏の大脳にはほとんどシワがない。  従って記憶力も皆無に等しい。  だが彼らは普通の鶏とは違って、大脳の表面積は一坪ほどの広さがあり、びっしりとシワが寄っている。  ものの記憶には十分なスペックがあるはずだった。  でもなぜか記憶力がない。  三歩も歩けば、さっき起こった出来事や考えたことや聞いたこともほとんど忘れてしまう。  なぜか、だ。  彼らもその理由は知らない。  分からない。  彼らには記憶力がない。  にも関わらず、言語によるコミュニケーションは成立している。  文法を記憶する能力も皆無であるのに、だ。  それはなぜか。  それは、彼らの交わす言語は、その言語を知らなくても理解できるという特殊な言語だからだ。  より正確に説明すると、その言語では、その発音に含まれる膨大な情報の中に、言語を理解するのに必要な文法も含まれる。  だから何も知らなくてもその「文法」を理解すれば、その言語を理解することが出来る。  もちろん、何の予備知識もないゼロベースからその「文法」を理解するのは並大抵のことではない。  しかし、彼らの超越的な思考能力・類推能力が、並の暗号解読よりも困難なその「文法」の解釈を可能にしている。  文法知識を必要としない、自己翻訳する言語。  これを無障壁言語という。  彼らなら理論上は、地球外の知的生命体とも会話を交わすことは可能であろう。  彼らは記憶を全体で共有し、多重バックアップシステムを用いて維持する。  オッオッオッオッ。  彼らの無障壁言語の情報圧縮効率は凄まじい。  4回もオッを言えば彼らの数年分の思考の要点を伝えきれる。  そのデータベースは常に互いにコピーされ続ける。  誰かが歩いて記憶を失っても、別の誰かが覚えている。  だからコピーを繰り返していれば、全員が同時に歩かない限り、全体的に見て記憶はずっと維持され続ける。  とんでもない話だ。  4グラム足らずの脳髄で、これだけの知的活動をやってのけている。(ちなみに人間の脳は1400グラムぐらい。)  種田さんちにいる13匹の鶏は、八世代前の突然変異の形質が遺伝してこうなった。  彼らは生物学的にはニワトリだ。  ニワトリの範疇に収まってはいる。  が、これだけ高度な振る舞いをする生物を前にして生物学的にしか見ないのも融通の効かない話だ。  彼らには敬意を払うべきだろう。  彼らをニワトリと区別し、ニワトリアスと呼ぶことにしよう。 2.アルキメデス  ニワトリアスのなかに一匹、長く垂れた尾が自慢の老鶏がいた。  名をアルキメデスという。  もちろん実際にアルキメデスという発音で呼ばれている訳ではない。  彼らの発音はもっと短い。  ただ、似ているのだ。  彼を識別する名前をニワトリアスの誰かが聞いたときに感じる印象と。  人間がアルキメデスという名前を聞いたときに感じる印象と、が。  彼はほかの鶏に輪をかけて賢い。  ニワトリアスとは、何なのか。  人間が問うところの、「人間とは何だろう」に相当するその問いの解の。  最も近くにいるのが、彼だった。  名を、アルキメデスという。  鶏の平均寿命は5〜6年程度だという。  ニワトリアスたちはおしなべて生命力が強く、種田さんの世話もマメで丁寧なのもあって、彼らは8〜10年生きる。  アルキメデスは今年で11歳だった。  ニワトリアスは、一歩歩くだけで百分の一しか残らないほどに、記憶を失う。  それだけで、考えていたことのほとんどは忘れてしまう。  運が良ければ、要点と結論ぐらいは記憶に残るのかも知れない。  よって二歩歩けば、一万分の一しか残らない。  三歩歩けば、百万分の一。  ここまでくれば、記憶はほとんど意味をなさない。  なぜ忘れてしまうのかは謎だった。  アルキメデスが2歳のころ。  ニワトリアスの子どもたちが四世代前のころ。  ユダというニワトリアスがいた。  ユダは反抗心の旺盛な無政府主義者で、公然と食糞の罪を犯した。  ニワトリアスたちは知性者としての品格を重んじ、食糞行為はそれを貶めるものとして最大の禁忌とされていた。  ユダは裁判にかけられ、ランキング最下位に落とされた上に死刑となった。  処刑方法はガッ殺だった。  全員がユダをガッと突付く。  ユダは一日中ガッと突付かれまくって衰弱して死んだ。  彼の肉体は埋葬されることになった。  だが、その前に有効利用しようということになった。  ニワトリアスのなかでも軒並み好奇心の強い玄白というニワトリアスがいた。  彼はユダの死体をクチバシで割き開いて解剖し、その肉体をすみずみまで観察した。  自らの体がどのような構成になっているかはアイデンティティにも関わる情報だ。  ほかのニワトリアスたちも、興味を持って玄白の解剖を傍観した。  玄白の観察は微に入り細を穿っていた。  骨や内臓などの基本的な構造から。  脳の構成、大脳や小脳、間脳といった各部位の能力に至るまで、多くのことが明らかにされ、データベースを潤した。  だが謎は残った。  大脳の構造から見れば記憶がそう簡単に失われる必要も原因も見当たらなかったのだ。  改めて考えてみれば不思議な話ではあった。  ニワトリアスたちは、自分たちの記憶の性質を当たり前に思っていた。  三歩歩けば忘れてしまい、それをフォローするためのバックアップシステム。  記憶はこのようにして、全員で共有するのが当然だと思っていた。  まるで天道説のような思い込み。  彼らの全員が、自分たちの活動の重大な前提条件に何の疑問も抱かなかったことを恥じた。  恥じたあと、しかしさらに考えても答えは出なかった。  歩くと、必ず記憶を失う。  分かっているのはこれだけで、この性質についてだけは確かだと言えた。  だがその理由が分からない。  謎だけが残った。  だが、アルキメデスは閃いた。  ひとつの仮説に辿りつき。  そしてそれが正しいことを確信することが出来た。  ランキングがある。  種田さんの庭にいるすべてのニワトリアスが、自分たちで序列をつけたランキングだ。  ランキングは知性と体力を数値化し、それぞれ二乗した値の和を比較して決まる。  そして高位者は低位者に対して自由にガッと突付いていいことになっている。  アルキメデスは体力は衰えてはいたが、ほかのニワトリアスに比べて知性の桁が違うので、依然1位を保っていた。  ランキングの内訳すべて並べると、このようになっていた。  1位:アルキメデス  2位:チェルシー  3位:レヴェル  4位:デボラ  5位:グリシュナック  6位:シアヌーク  7位:パスカル  8位:ウナレフ  9位:東天紅 10位:グレネード 11位:声 12位:バルバロッサ 13位:メヌホフ  チェルシーはニワトリアス一の美人だ。  雄のニワトリアスはみんなチェルシーのことをガッと突付きたがっている。  だがチェルシーはランキング2位なので、ほとんどの者が彼女をガッと突付くことは出来なかった。  彼女をガッと突付けるのはアルキメデスだけだ。  彼は自分の地位の恩恵を惜しみなく享受し、暇さえあればチェルシーの肛門をガッと突付いた。  お陰でチェルシーは痔になった。  チェルシーを夢中でガッと突付きまくっているときのことだった。  普通、ガッと突付くと、相手は逃げる。  だから突付く者は、相手を追いかける。  従って二匹とも歩くことになるので、そのとき記憶は失われてしまう。  しかし、ある日アルキメデスは、チェルシーを追いかけてコーナーに追い詰めた。  チェルシーは逃げ場がなくなり、アルキメデスはいよいよガッと突付き放題になった。  アルキメデスは嬉しさのあまり、高らかに鳴いた。  そのとき誰かがオッオッオッオッと言った。  データベースのバックアップだ。  アルキメデスはデータベースを受け取り、共有記憶を復元させた。  そして彼は今、チェルシーをコーナーに追い詰めたのでもう歩かなくてもいい。  だから記憶を保ったまま、ガッと突付ける。  これは普通にガッと突付いてたらあり得ないことだった。  そこでアルキメデスはひとつ思き、せっかくだからガッと突付く回数をカウントしようと思った。  それで、きっちり千回チェルシーをガッと突付くのだ。  アルキメデスは自分の思いつきにますます嬉しくなった。  きっかり千回ガッと突付く。  震えるチェルシーにそう宣言して、アルキメデスは最初の一回のガッ行為を行った。  ガッ。  不思議なことが起こった。  忘れてしまった。  ガッと突付いた回数を忘れてしまったのだ。  それどころか、他の記憶もほとんどない。  思い出せない。  「歩くと記憶を失ってしまうこと」  「回数をカウントしてチェルシーをガッと突付くこと」  あたりはかろうじて覚えていたのだが、もう何回ガッと突付いたのかは思い出せなくなっている。(実際はまだ1回。)  まるで、歩いたときのようだ。  そのときだった!  アルキメデスが動きを停止した。  まるで雷に打たれたように。  チェルシーが彼の横をすりぬけて逃げるのも構わない。  アルキメデスは大きく鳴いた。  積年の謎が、今解けたのだった。  ニワトリアスが記憶を失うのは、歩いたときではない。  そうではなく、「頭を振ったとき」なのではないか?  それが歩行とガッ行為の唯一の共通点だ。  鶏は歩くと、ヌッヌッと頭を振ってしまう。  ガッと突付く時も、頭は前方にゴッと動いている。  これらの激しいシェイクが、ニワトリアスの小さい頭脳から記憶を吹き飛ばしてしまっているのではないか。  そうとしか考えられなかった。  そのときからアルキメデスは、頭を振って歩くのをやめた。  チェルシーをガッと突付くのも、我慢した。 3.飛翔  アルキメデスはまともに歩けなくなった。  ほとんど一箇所にとどまっており、エサを食べるためにたまにゆっくり歩くくらいだった。  糞はその場で垂れ流した。  そして空ばかりを見るようになった。  口もきかなくなった。  アルキメデスはみんなからはボケてしまったと思われて、ランキングがどんどん下がっていった。  さらにさんざん突付かれまくったが、それでも動こうとしなかった。  特にチェルシーには仕返しとばかりに執拗に肛門を突付かれたが、じっと堪えた。  すべては自らの選択だ。  アルキメデスは、考えていた。  彼の仮説は正しかった。  頭を振らなければ、記憶は維持されたまま。  失われない。  記憶を他人と共有する必要がなくなり、彼は誰にも知られないパーソナルスペースを獲得した。  それどころか、動きさえしなければ、維持できる記憶の量は、これまでのデータベースの比ではないことも分かった。  彼は秘密のことを考えた。  誰にも知られない秘密の思考。  その無尽蔵の記憶領域に、思考の成果を膨大に積み上げていく。  彼の中に世界ができる。  この物理世界とは基本法則の異なる、全く新しい世界。  法則を決めて自走させる。  何度も何度も繰り返していると、やがてその中で生物や知性体が容易に生まれ、さまざまなレベルの循環系を築いていった。  その間にもチェルシーには肛門をガッと突付かれている。  アルキメデスは痔になり、そして神になった。 Endia