「そうする価値」 (Why to do) ☆  原文:"Why to do" http://xxx.xxx/xxx/xxx.htm  著者:Crowd Barclish  邦訳:lage  誤訳の検出にご協力くださったUgine様、_throw様、韮崎雄一様に感謝の意 を表します。  ☆  今朝、一人の男がプラットホームから身を投げて自殺したのを知った。文明 にブロードキャストが生まれてからこっち、自殺なんて珍しい話じゃない。け どその話のソースは、ニュースサイトじゃなく友達からのメールでの伝聞だ。 そう、自殺した男も、僕の友達だったんだ。  この話を書こうと決めたのはついさっきだ。これは僕が、いつか言っておき たいと思ってsay.txtに放り込んでおいたことのひとつだ。今朝友達の死につ いて考えていたら、それと関連付いた語り方が自然に浮かび上がってきた。そ れは今が、この話を書くのに人生で最高の時かも知れないことを意味する。( もちろん、君たちはこれを、僕が書き終わってオンラインに放流した後ならい つでも読めるし、読んでいい。)死人をダシにしてものを語るなんて不謹慎だ って? ふうん、君はアルバート・アインシュタインやアドルフ・ヒトラーの 話なんて一度もしたことがないんだね。  友達は小説家だった。彼は社交家としては不器用だったけど、単純な内面の 持ち主ではなかった。彼の作品には世間に対する彼独特の鋭い洞察が散りばめ られていて、僕は自分が自分の立ち位置や在り方について迷ったときに、その 小説を羅針盤として利用しているくらいだ。僕が無人島に生活に必要なもの以 外でひとつだけ持っていくものを選ぶなら、彼の小説にするだろう。これを身 内贔屓だと思うかい? 別れゆく死者に捧げるお決まりのお追従だと思うかい ? なら彼に不利な証言をひとつしてやろう。彼の小説ではときどき、彼の世 間に対するルサンチマンが見え隠れしていた。上司や家族に対する遠回りな愚 痴だ。世の中馬鹿が多いという意見には僕も同意するけれど、それを多くの人 が見る作品の中で、ユーモアもなしに呪詛として吐き出すのはお世辞にもクー ルとは言えない。僕は彼のそういう部分には同調してあげられず、反面教師と してしか見られないなと思った。  ただ、自殺したとなると僕は自分の思慮不足に気づかざるを得なかった。僕 は彼を客観的な視点で評価しようとする前に、友達として気を遣ってあげるべ きだったんだってね。  小説家が自殺したと言うとセンシティヴな印象も受けるが、彼が死んだのは 、彼の内面からひねり出された高尚な動機などのためではないと思う。彼は観 念世界の耽溺に誘惑されるには歳を食いすぎていた。それよりは、もっと俗っ ぽい、生活や仕事でもたらされた重責に耐えかねて、という線の方があり得そ うだ。彼はよく不満を言うとき、自分のストレスを数値に喩えて嘆いていた。 ただ彼はその数値の上限がいくつなのかは教えてくれなかったから、僕はそれ がどのくらい酷いものなのかを判断することは出来なかった。  死ぬか生きるか、二つの選択肢を天秤にかけたとして、人が死を選ぶのはど ういう場合だろうか。また、どういう基準で検討を進めれば、それは賢明な判 断だと言えるだろうか。  はっきり分かるのは、人は疲れたときほどその疑問を発しやすいということ だ。  普通に生きている人に対して、「なんで生きてるの?」と聞くほど愚かな問 いはないだろう。生物が誕生する先カンブリア時代ならともかく、今や生きて いる生物が生を継続することは特別な状態じゃないからだ。むしろ自ら死を選 ぶことの方が、現状維持に対してコストのかかるアクションとなる。「なんで あなたは今踏み台昇降運動をしていないの?」答えは簡単、そうする理由が特 に無いからだ。  ただしそれは、心の力がその人に十分に充填されていれば、に限っての話だ 。心の力は、ものを考える力だ。電車の切符を買うにしても、過疎地の土地を 買い占めて都市計画を立てるにしても、僕らは脳を使って大小の無数の判断を 下さなければならない。食べ物を食べ過ぎて胃腸が具合を悪くしたら、我らが 胃腸様はそれ以上の食べ物を拒否なされる。それと同じで、いつまで経っても 解決できないどころかむしろ悪化し続けるような悩みに長期間苛まれ続ければ 、心はやがて考えるのをやめたがってしまうだろう。とは言っても頭は勝手に 回り続けるし、借金取りからのいじめに対して何も感じないようにするなんて 出来ない。生きている限りはね。すると心は生きることそのものを、労力のか かる苦行だと感じるようになってしまう。かくして生と死の立場は逆転する。 死がデフォルトになり、生きることにこそ特別な理由が必要になるんだ。  ここで、人が生そのものに消極的になってしまう原因を、心の力の不足に限 ったのは、他のケースでは話の次元が変わってしまうからだ。砂漠を放浪して 水不足に陥れば確かに生は困難になるけど、心は逆に生を渇望する。そこに自 分の意志で生死を選択する余地はない。オアシスを見つけて見事生きながらえ るか、状況に不本意な死を強いられるか、だけだ。  生きることに意味はあるのだろうか? その問いが、人が生を選択するに足 る理由の有無を指しているのなら、論理的に言えば、答えはノーだ。心の力が 尽きた人に生の価値を説いても馬耳東風に終わる。生きている人が生きている のは、生きることそのものに客観的な価値があるからではないし、家族を守り 続けるため、会社に迷惑をかけないため、といった理由も、感性が鈍摩するほ ど疲弊しきった人には、やはり通じない。たとえその人が、際だったエゴイス トでなくてもね。  そういった人に僕らが出来るのは、優しくすることだけだ。それはその人の 愚痴に付き合ってあげることかも知れないし、あるいはもしかしたら、現状を 乗り切れるだけのお金をくれてあげることかも知れない。それらは、もしかし たらうまく行くかも知れない。その危険な状態が、瞬間風速的なものでしかな いなら。でも、そうじゃないかも知れない。  ただ僕が言いたいのは、「生きよ!」ということではない。「考えるのは、 死にたくなってからでは遅すぎる」ということだ。これには二つの意味がある 。疲れた心ではまともな思考なんて出来ないということと、問題には早いうち に気づいた方がいいということだ。僕の友達がもしタイムスリップをして過去 に戻ったら、彼はどこかの分岐点で、死んでしまわない方の道を選択するだろ う。  人が絶望するのに、絶対に不可欠なものがある。時間だ。人の心を作るのは たくさんの記憶だ。そして記憶は静的なテーブルデータではなく、互いに関連 し合うことで強度を保つネットワークの形をしている。もしあなたが、いつも 頭から離れない悩みを抱えているなら、普段から見ているものすべてがその悩 みと関連付くし、それが長く続けば、その憂鬱は心の中の多くのものと絡み合 い、いつしか支配的なものになる。  あなたが長期間に渡って強いストレスを感じていて、かつそのストレスの原 因が取り除かれる気配が一向にないのなら、それは狂気に片足を突っ込んでい るということだ。たとえばそのストレスがこれから一年間ずっと続くとしたら どうだろうか。五年続くとしたら。十年、二十年続くとしたら? そうならな い保証はある? 継続は力なり、はネガティブな方向にも適用できる。大いな る過ちは、コツコツとした小さな積み重ねの果てに築き上げられるんだ。  答えがノーだとしたら、あなたは現状を変えた方がいいのかも知れない。そ れはちょっと考えてみる価値のある問題だ。十年、二十年の失敗を回避できる チャンスかも知れないからね。  もし、自分で現状を変えることが出来ず、しかも環境の方も一向に変わるこ とがなく、それがずっと続いたらどうなるか。僕の友達のように、生きるため のリソースに底をつかして死んでしまうのはレアケースだ。結末のパターンは 他にもいくつかある。  最もあり得る悪いパターンは、その状態に適応してしまうことだ。これは静 かな発狂状態と言える。なにしろ、不快なものを不快と感じる感覚が、いくら か壊れてしまうわけだからね。それは、良い結果を求めるために心に自制を課 す強さ、忍耐とは全く別のものだ。そうは言ってもこの現実、どうしても嫌な ものを嫌なまま享受し続けるのが正しい大人のあり方だと思うかい? 僕はそ の主張を言い表す別の言葉を知っている。「希望のない世界へようこそ」だ。  現状の変え方にこれといったパターンはない。それは新しい何かを始めるこ とかも知れないし、住み慣れた地を離れて引っ越すことかも知れないし、通っ ている学校や会社を変えることかも知れないし、新しい出会いを求めることか も知れないし、近しい人と縁を切ることかも知れないし、もしかしたら長年抱 いていた夢をあきらめることかも知れない。または、死ぬこと、でないとも言 い切れない。「本当はこうすべきなのになあ」と思っていることの逆こそが真 の出口かも知れない。どの方向が正解なのかを考えずに知ることが出来るなら 、頭は要らない。  一番気にとめてもらいたいのは、そういう状況にある場合、あなたが状況を 変えようとしないのは、それがデフォルトになっているからであって、あなた が賢明だからではないということだ。「こんなこともう嫌なのに」と言いなが らマヨネーズを飲み続ける人を見たらどう思うだろうか。そう、イカれている 。  そうする価値があることは、きっかけがなくてもそうするべきだ。 ☆  おわり