ガスター9999 ☆ 「深山さん、それ、私がやりましょうか?」  協力会社への什器貸し出し書類の枚数をしかめっ面でカウントしていた同僚 に、浦田芳郎は声をかけた。 「エッ」  深山は顔を上げ、口をタコのように丸めた。中年脂肪をふんだんにしつらえ た腹が揺れる。 「やってくれるの? いや是非とも押しつけたいけどさ、浦田こそお前早く帰 りたいだろ」  深山のデスクには本や書類が乱雑に積み重なってバヴェルの塔が築かれてい る。ちょっとでも衝撃を受ければ崩落は免れそうにない。製品の発表が近く、 激務に追われる彼にとっては浦田の申し出は願ってもない助け舟だったが、す ぐ飛びつくのも気まずい理由があった。 「いや、私はラストまで帰らないですよ」 「エーッ、新婚さん早く帰っておきなよ。嫁さん待ってるんだろ?」  浦田は、茶色く染めた髪を曖昧に傾けた。 「いや……ちょっと帰りたくないんですよ」 「ナニソレ? 喧嘩でもしたの?」 「や、そういう訳じゃないんですが……なんですかね、倦怠期ですかね」 「おっホォイ倦怠期ですかねってオマエ、籍入れて二週間で倦怠期って聞いた ことねえぞ。なんだ。鬱?」  しまった、と浦田は思った。仕事を増やしたいならメーリングリストの議論 にでもちょっかいを出せば良かったのだ。変に目立った挙動をして、同僚に余 計な好奇心を持たれてしまった。 「いや、なんか……よく分からないです。ハハハ」  浦田はしらじらしく笑った。誤魔化しというよりは、『うまい言い訳が出来 ないですけどほっといてくれ』というメッセージだ。深山は「なんだなあ」と 言いながら追及をやめて、書類を浦田に渡した。 ☆  浦田は今、同じコンビニの前を二度通り過ぎた。  彼は会社からの帰り道、わざと同じところをぐるぐる回っていたのだ。尾行 されていてそれを撒こうとしているのではない。家に帰りたくなかったのだ。 (泊まりがけで働ければな……)  残業ですら規制が厳しくなっているのに、そんなことはよほどの事情がない 限り出来るはずはない。ちょっと前まではそれは彼にも都合が良かったが、今 はそうでもない。 「じゃあもう今日はネット難民だ」  浦田はとことん逃避を決め込んだ。胸の中に、罪悪感がじわりと広がった。 ☆  浦田は二週間前に結婚したばかりだ。相手は、就職活動時に、今勤めている 会社の入社試験で知り合った女だった。席が隣になっただけの赤の他人だった が、筆記や面接の攻略談話という共通項があったので声をかけるのは簡単だっ た。試験には彼だけが受かり彼女は落ちてしまったが、交際は続いた。順当に 親睦を深め、互いの両親とも見合い、三年間共働きして貯めた資金で式を挙げ た。披露宴では二人の人生が華々しく映像化され、二次会では最初のデートス ポットに選んだ映画のマニアックさを突っ込まれ、同居するマンションに家具 をそろえて計画当初に思い描いた愛の巣を造り上げ、心豊かなうきうき新婚ラ イフを送っていた。  先週までは。 (なんだろうな……)  都心のネット喫茶の個室を取り、今週発売とシールの貼られた雑誌を適当に 持ち込んでぱらぱらとめくる。トレンドになったワープロについて、作成者が インタビューに答えていた。太字だけを拾って概要を撫でる。 (悲しいな……)  深山に勘ぐられたような特殊な事情が有るわけではなかった。喧嘩もしてい ない。むしろ円満退社を果たした妻の美和子は、幸せいっぱいで浦田を待って いるだろう。浦田は果報者だ。少なくとも今は。これからの長い人生で七難八 苦はあろうが、美人で気だてもいい妻を得た彼は勝ち組と言っていいはずだ。  だが、自分でも理由の分からない、不安のような恐怖のような気持ちが彼を 悩ませる。 『籍入れて二週間で倦怠期って聞いたことねえぞ。なんだ。鬱?』  おそらくは何も考えずに言ったのだろう、深山の言葉を思い出した。あなが ち間違ってないのかも知れない。真因を追及しなくていいなら、とりあえずの 理由をつけられる鬱という言葉は便利だった。 (鬱……鬱だなあ)  そのとき、隣のブースから物音が聞こえてきた。 「ぁ……っ。ゃっ、ゃっ、ゃぁん」  音声と効果音はひとつの事実を如実に伝えていた。  セックスが行われている。それか、それに類するエロ行為だ。 (うるっせんだよ! 殺すぞ!)  浦田は激しい殺意にかられた。本当に殺してやろうかとまで思った。相手が どんな強面だろうが関係ない。後を考えなければ二人くらいなら余裕で殺せる 。ここにあるPCで男の脳天を執拗に殴りつけてやる。何か言ってきたらキレて ブチのめす。女が騒いだらキレてブチのめす。店員がきたらキレてぶちのめす 。殺して殺して殺して殺す。世間に向けて殺意を叫び、新聞とニュースで小さ く言及され、刑務所で愚行を一生後悔する。 (……)  理性がなくなった訳ではない。想像は想像だけで簡単に止まった。実行の兆 しはぴくりとも起こらなかった。自暴自棄な妄想を通過して、心は少し落ち着 いていた。だが、ひどい倦怠と自己嫌悪に陥った。初めてのオナニーで十三年 間の疲れを出した時の数倍はぐったりしていた。 (どうしたんだ、オレ……)  どうかしている。いつもの彼なら(そもそもいつもならネット喫茶など利用 しないが)、隣でセックスする男女がいても、『うぉっほい、おいおいまじか よ』くらいの気持ちで笑いを噛み殺していたはずだ。張り紙の注意書きにはセ ックス禁止の旨も罰金付きで含まれているはずだったが、それも彼には関係の ないことだ。下手打たない自信があるんだね、としか思わない。  嫉妬だろうか? そんな筈もない。家に帰れば世界一かわいい彼女が彼の帰 りを待っていて、こんな薄暗くて空気の悪いネット喫茶とは比較にならないほ どのやわらか快適空間でにゃんにゃんごろごろし放題だ。その点は彼は無敵の はずだ。誰にも負けない自信はあった。その気になれば竜だって殺せる。  それなのに、今の彼はせまいリクライニングチェアで腰を痛めている。 (うう……)  みじめだった。涙が出てくる。 「ぅぅ……っぅ……」  押し殺しても嗚咽が漏れる。 「きしょう……ちきしょう……ちきしょう……ちきしょう……ちきしょう…… ちきしょう……ちきしょう……ちきしょう……ちきしょうぉおおおおぉぉぉぅ おぅお……」  胸の底、根元から沸いてくる呪詛を、そっと口からぶちまける。自分だけに 聞こえるように。周囲に気付かれないように。隣のセックスらに聞こえないよ うに。  雑誌の文字が濡れてにじむ。ボタ、ボタ、と水滴が続けて落ちる。理由もな く流れてくる涙を、彼は止められなかった。 「なんなんだよ……なんなんだよ……なんだってんだよおおおお!!」  彼は何も分からなかった。ただひたすらに、すべてのことに対して殺意を覚 えていた。 ☆  ピリリリリ、という電子音で彼は顔を上げた。鞄を開ける。彼の電話が振動 しながらネオンを発光させていた。  マイダーリン  090-XXXX-XXXX  妻からだ。彼は迷った。電話に出たくなかった。妻の声を聞きたくなかった 。帰りの遅さを無邪気に心配する妻の声は、彼を安堵させるだろう。ごめんす ぐ帰るから、と言ってこのネット喫茶という桎梏を今すぐ脱出すれば、彼自身 の捻れた心情もほどけるだろう。そして帰ってもふもふすりすりの嵐だ。彼は 楽園を所持している。  だが――  プッ  彼は着信を切った。そして迷わず電源もオフにし、妻が何度か繰り返すであ ろうコールも拒絶する。そして恐怖の源に封印をかけるように、鞄の奥に携帯 を押し込める。逃げることしか考えられなかった。 ☆  それから彼はネット難民を続ける。下着は百均で買い回し汚れ物は捨てて、 ネット喫茶に備え付けてあるシャワーを利用し、同じスーツを来て会社に通う 。先日のミスを反省し、会社ではプライベートの問題などおくびにも出さず、 むしろすべてがうまくいっているかのような口振りで誤魔化した。一度その気 になったら、口から出任せで『ごちそうさま』と煙たがれるラブラブエピソー ドをポンポンまき散らせた。彼に一時の安堵が訪れた。  トイレに五分ほど篭もり、「大丈夫……大丈夫」と自分に言い聞かせた。 ☆  会社に妻から電話が来た。 「浦田ぁー、奥さんからだぞ? 会社にまで電話してきてすげえなあオイ」  取り次いでくれた深山が、冷やかすように笑った。浦田は、いやースンマセ ンと頭をかきながら受話器を受け取った。 「もしもし?」 『ヨッくん? 会社にはいるのね? ねえ、ねえ、何で帰って来ないの? す ごく心配したんだからっ!』 「あーごめん。うん、今日は大丈夫だよ」  浦田は『今日は帰るよ』とは言わなかった。何日も家に帰っていないことを 、同僚に悟られたくなかったからだ。 『本当に? 本当に帰ってくる?』 「うん」 『絶対帰ってくるのね? 騙さない?』 「うん。大丈夫だって。早めに帰るようにするから」 『ねえ、何で帰って来なかったの? 浮気してんの? それにしても連絡すら 入れないって、何かあったの? ねえ、ちゃんと説明して。わたし何にも分か んないの』  それは無理な話だった。浦田にも分からないのだから。 「ごめんね。ちょっと今……仕事中だし、帰ってからでいいかな?」 『ん、でも、じゃあ、これだけ教えて。私、待ってたらいいのね? ヨッくん 、危ない目にあったはりしてないのね?』  彼女は浦田の安否を最も気にかけているようだった。 「うん。大丈夫だよ」 『……』  沈黙が十秒ほど続いた。それから一応の納得はしたらしく、彼女は折れた。 『……後でちゃんと説明してね? じゃあ、待ってるからね。今夜はヨッくん の好きなトンカツにするからね』 「やった! 楽しみにしてるよ」 『じゃーね』 「じゃーねー」  浦田は彼女が電話を切るのを待った。切れたのを確認してから、彼も笑顔で 受話器を置いた。 「ふう、さて、がんばるか!」  肩を回してデスクにつく。モニターを見つめていつもと変わらないペースで キーボードを叩きながら、彼の中で何かが冷えて結晶化する。  とうとう彼女をも欺いてしまった。もう引き返せない。 ☆  それから、本当に彼は迷った。  このまま樹海にでも外国にでも失踪して、すべてに別れを告げてしまいたい 誘惑にかられたが、これはやめた。  都心の横断歩道で無差別殺人するビジョンも浮かんだが、これもしなかった 。  中央線のプラットフォームに身を投げる。これも我慢した。  そして――これが一番現実的で、まともで、あり得る可能性だった――心配 させた妻に謝罪し、何とか言い訳を繕って納得してもらい、それから何事もな かったように幸せな生活を再会する……これも選ばなかった。この決意をした とき、彼はまた泣いた。耐えられず、帰りの夜道で啜り泣いた。 ☆ 「おかえりーーーーーヨッくんヨッくんヨッくんヨッくんヨッくんヨッくんヨ ッくん、遅いんだからもうこらああああああああああ!!!!」  玄関先で、甘えっ気全開で飛びついてきた彼女の顔を、彼はおもむろに殴り つけた。 「いたあっ!」  そんな彼女を特に観察もせず、彼は冷静にドアを閉め、鍵をかけた。 「ヨッくん……?」  彼女の表情は、何が何やら分からない、という様子  それはさておき殴った。二度、三度と、憎しみを込めて思いっきり。 「いた、う、、やっ……!!」 「死ねよお前」  殴るのをやめて、今度は罵声を浴びせる。彼女は何とか喋れるようになり、 浦田に困惑をぶつけた。 「ヨッくんどうして? どうしてこんなことするの? なんで? 私何か悪い ことしたの? 嫌われるようなこと……何かしたの?」 「ヨッくんとか呼ぶな。気持ち悪いんだよ」  なじりながら、彼女の可愛らしい顔に平手打ちを見舞わせる。バチンと高い 音が鳴り、彼女は床にくずおれた。 ☆  ひとしきり虐待を続け、彼女が泣きだし、何もしゃべらなくなったあたりで 、浦田は彼女を抱きしめた。そっと、慈しむように。 「……ごめん」 「……?」 「ごめんね。もうしないよ」 「ヨ……フォオッ……くん?」  彼女は発音もままならないほど震えていた。 「ごはんの準備、してもらってもいいかな」  縮こまっていた彼女は、おそるおそる顔を上げた。頬は涙に濡れ、目の周り が赤くなっていた。鼻水も出ていた。「あうあう」と口がわななき、それでも 浦田を見ている。 「今日、トンカツだよね。楽しみにしてたんだ」 「……うん」  彼女はこくりと頷いた。まるで無垢な子供だった。彼は、彼女を慈しむ気持 ちが自分の中に溢れてくるのを感じた。  彼女が台所に歩いていくのを見送ると、彼はネクタイをほどいて洗濯かごに 入れ、リラックスモードに入った。 ☆ おわり