妄想少女・妄香 ☆  放課後突入のチャイムが鳴る。  小島妄香はHRが終わるや否や席を立ち、颯爽と出口に向かう。肩までのシ ョートヘアと、カバンに括られた金魚のストラップが同じリズムで揺れた。 「ちょっとちょっとモカ、えー今日あんたまたベルリンなの?」  そそくさと帰ろうとする彼女を、クラスメートが呼び止める。  ベルが鳴ってすぐに帰ろうとする部族をベルリンという。蔑称である。付き 合いが悪いとか、友達がいないとか、部活に入っていないとか、心の交流を拒 むベルリンの壁、といったネガティブなニュアンスが込められている。  その中で言うと、小島妄香――モカは主に付き合いが悪い。友達も多くはな い。一人での行動を好み、遊びの誘いにあまり乗りたがらない。部活動も顧問 の教師がいい加減なのをいいことに、よくサボタージュする。 「あ、うん。ごめんね」 「あんたいつもごめんねじゃん。そのうち友達なくなるよ?」  そんなモカを最も気にかけてくれるのが、同じ美術部員の瀬田さやかだった 。  快活で誰とでも屈託なく話す、みんなの友達である。さやかがいなければ、 モカは昼休みに一緒に弁当を食べる相手も得られなかっただろう。彼女のお節 介に、モカは「ありがた」と「迷惑」を同時に感じていた。  友達がいなくなるのは困るが、自分には自分の世界がある。ただでさえ勉強 と宿題で時間が削られるので、「それ」をするための時間は掻いても集めたり ない。時間が惜しい。かまってくれるのは嬉しいし遊びたくない訳ではないけ ど、それ以上に一人の時間を失いたくない。  ……言い訳の言葉はいろいろと浮かんで来る。が、モカは結局、情報のない 謝罪だけを述べた。 「うん。ごめん」 「あたしが知ってる限りでは、あんた友達を0.5人失ってるよ」 「0.5人?」 「あたし。愛想が尽きかけてるってコト」  さやかは何でもないような顔で、けどこちらをしっかり見て言った。  モカは驚いた。カバンをギュッと握る。 「え……」 「あーもうそんな顔しないでよウソよウソ!」  ぱたぱたと手を振られる。しかしその後、彼女はすぐ真顔にる。 「けど愛想は無限じゃないからね? 無限じゃないからね? こう無愛想ばっ かカマされると、石鹸みたいにぬるぬる小さくなってっちゃうんだから。せめ て事情くらい言ってくれれば少しくらい今夜は焼肉なのに」 「……たいした事情じゃないし」  モカはあくまで話をはぐらかす。  言えないほどの事情ではない。ただの億劫だった。適当な用事でもでっちあ げればいいのにそれもしない。 「ー、」  さやかが何かを言いかけようとした――たぶん「たいした事情じゃないなら 付き合えよ」あたりだろう――が、言っても無駄と悟ったか、一度口を閉じる 。それから一瞬あさっての方向を見て、かなり譲歩してくれた言葉を取り寄せ てきた。 「ま、いいや。去るを追うもホドホドにしとこう。明日は付き合えよ?」 「うん」  モカは一時しのぎの返事をした。 「じゃ、バイ!」  頭を下げて手を振り、さやかはきびすを返して他の友達に当たりに行く。  モカも手を振り、教室を立ち去った。ようやく解放されたという安堵に浸る が、突き放されたような淋しさも感じた。  感情だなあ、とモカは嘆息した。 ☆  モカの人生は一人の時間に真価を発揮する。 (さて――始めますか)  学校が終わったばかりの三時過ぎの時間帯。電車の中はとても空いていて快 適だ。ガラガラの座席にモカは腰を落とし、前傾姿勢で窓を睨みつけていた。 その表情は、破滅に瀕した国の政府の大統領のように深刻で重い。  世界から音が消えるほど――モカは自分の思考に集中していた。 『僕は、未来から来たんだ』  思い描く。  理想。その存在は、美少年でなければならなかった。女性と見まがうほどの 端麗さで。もちろん背も高い。切れ長のセクシーな口で、風のようにさわやか に笑う。不意を突かれ、長い指でこちらの指を絡め取られる。 『君に会うためにね』  吸い込まれそうな瞳に、一瞬、痺れを感じてしまう……が、こんなに唐突す ぎる展開を強いられたなら、彼女はドン引きしていいはずだった。 『きゃあっ!? ……な、なに!? 何なのアンタ!? ちょっと、手、手ぇ 離しなさいよ!! あと近い近い!!』  ぶんぶんと彼女は手を振る。が、ほどけない。少年は涼しい顔だ。 『ははっ、やっぱかーいいなあモカは。けどそれを堪能してる暇はなくってね 』 『だったら離しなさいそして離れなさいよ! あとなんであたしの部屋に勝手 に上がってるワケ!? 警察よ!?』  美少年は彼女の部屋に突然現れた設定だった。すると、彼女には被害者ヅラ を被って騒ぎ立てる権利が生じる。 『――それはやめた方がいい』  少年は声のトーンを落とす。 『……は?』  モカは、がらりと豹変した雰囲気に思わず押されてしまう。それを見計らい 、少年の口から状況説明がすべり出てくる。 『電話を含めたあらゆるネットワークは簡単に盗聴されてしまうからだ。今後 二十年の間に、暗号理論の大きなブレイクスルーが三回起こる。この時代の暗 号防御なんて、僕らにしてみれば紙みたいなものだからね。僕が君と接触した ことを知れば――敵は攻撃のスケジュールを早めるだろう』 『何……言ってるの?』  少年の言っていることは分からない。しかし、それは悪ふざけでも妄想でも なく、事態は本当に深刻なのだ、という気がなぜかした。 『その三度のブレイクスルー……起こすのは、すべて君なんだ。世界中の数学 者が解けなかった問題を、君が解いてしまう。そしてオンライン極まった社会 は混乱に陥る。想像しづらいかも知れないけどね、情報の壁がなくなった世界 は地獄だよ。その歴史をキャンセルするために、世界を救うために、使命を追 った複数人の暗殺者が君を殺しに来る』 『は!?』  少年は真顔だったが、話は荒唐無稽だ。モカは疑問を口にする。 『何それ……数学者が出来ないようなこと、あたしに出来るわけないじゃない 。言っとくけどわたし、数学の成績は……ちょっと低め何だよ?』 『知ってるよ。えっと今なら、高校二年の時の中間テストの結果が出てるはず か……』  少年は一瞬だけ目を閉じた。 『28点だね』 『s/</</g!?』  モカの口が開き、意味不明の奇音が漏れた。 『な……んで知っ……!?』 『言っただろ、未来から来たって。それから期末テストでは18点というハイ スコアを叩き出してお小遣いが半額になるよ。これは決定です。時空の石碑に 刻み込まれた歴史です。このことを知った上でどんなに努力しても怠けても1 8点になります。絶対に覆りません』 『18点……』  希望のない未来に膝を折りそうになるが、話の矛盾に気づいてはっと顔をあ げる。 『アレ? 歴史は変えられないの? さっきは歴史を変えるために暗殺者が来 るとか言ってたのに』 『それを僕が阻止するからさ。絶対に君を守るよ。絶対だ。防衛に成功するま で、何度でも何度でも……』 『?』  少年の言葉の後半は、小さくフェードアウトしていった上に早口だったため 、よく聞き取れなかった。 『いや、何でもない。とにかく、歴史は僕が変えさせない。安心していい』 『いや期末テストの歴史は変えたいんですけど』 『18点ごときの話なんかしてる場合じゃないんだよ。それより君は、僕と一 緒に暗殺者に備えなければならない』  少年がモカ(ベッドに座っていた)の隣に座り、なぜか肩に腕を回してくる 。 『やーだ』  モカは拒否した。彼の話も、にわかには信じられない。 『だいたい、その暗号の何とか? わたしに出来るわけないじゃない。世界中 の数学者でも無理だったことなんでしょ?』 『そう。それを君が突破したっていうんだから君の成績くらい僕らは調べたさ 。でも、数学の成績は本質には関係なかったんだ。わずか18点の君が発明す るのは、石占いを応用した無計算式素因数分解法なんだから』 『石占い? ……確かに、最近凝り始めたけど』 『災厄を回避するには、君にそれをやめさせればいいだけだ、というのが僕ら 穏健派の考えだ。けど、確実がいい、人間一人の命なんて大災厄の回避に比べ たら遥かにコスト安でお買い得だ、なんて考える奴らもいるんだ。怖いよ。涙 目で、尊い犠牲に感謝とか言いながら拳銃を向けてくる連中なんてのは。かな り頭が幸せなんだろうよ』 『なにそれ……人の……わたしの命を何だと思ってるのよ!』 『本当にな』  少年は立ち上がった。 『モカ。僕を、きみのそばに置いてくれ。僕はきみを守りたい。破滅も回避す る。暗殺者も説得する。18点も取らせる。全部丸く収める。全部やるから』  こちらを見下ろし、大仰なしぐさで手を差し伸べてくる。  モカはその手を見つめて、ぽつりと言った。 『あなた誰よ?』 ☆ 続くや、続かざるや