ワタナヴシュタイン (【】内の文章は読み飛ばし可) 【渡辺は吸血鬼だ。何千年も生き、いくつもの文化と国家の衰退を見てきた。 】  渡辺が山中深くに隠遁し、自給自足の暮らしを始めてから十年が過ぎた。  都市に住む利便性を放棄して孤独な暮らしを営んでいるのは、人付き合いに よって生じる面倒事を避けるためだった。数え切れないほどの罪にその手を染 めてきた彼は、自分の過去を偽らなければならない事情がある。彼は何度も世 間を騒がせた連続殺人事件の犯人であり、日本に暮らす者なら誰もが記憶して いる。その秘密は露ほども漏らせないし、仄めかすことも出来ない。いざ見つ かりそうになれば顔を変えられるし、当局の追走を振り切ることも彼なら出来 る。が、緊張に神経をすり減らすことを進んで行いたいとは思わなかった。海 を渡って日本から出るのも難しい。  何より、逃走を繰り返すたびに、当地で作った友人と別れなければならない のがつらい。一箇所にとどまり続ければいずれ彼の正体はばれてしまう。  住処を何度も変えるのにも疲れた。彼は、彼を彼と認識されることのないま ま、他者と交流したかった。インターネットはそれを可能にした。  その日も彼は、日が暮れるまで畑の手入れに精を出していた。  鍬を納戸にしまい、外の水道で手を洗った。山の冷たい水が、石畳の上に広 がって排水溝に収束する。一時的にできた水溜りは、揺れる水面に夕日を映し た。  またお前か、と彼は声に出さずに思った。歳を取りすぎたせいか、いつしか 太陽が見せる顔に人格を感じるようになっていた。長い人生を共に歩む友人も 伴侶も得られなかった根源的な孤独に、心を蝕まれているのだ。彼はそれを認 めている。そして毎日、抗っている。絶望に身を委ねる気はまったく無かった 。 「デボラ! レヴェル! グレネード!」  家の中に戻る前に、金網の中のニワトリたちに声をかけた。三匹とも、綿菓 子のように真っ白で、ヒヨコと見まがうほど羽毛をふわつかせている。烏骨鶏 だ。微生物や蚊やハエなどを除けば、彼が触れられる唯一の生物だ。ニワトリ は元気に唸っていた。異常が無いようなので、彼は縁側で長靴を脱いで、畳敷 きの床に上がった。  渡辺は風呂と夕飯を手早く済ませた。  ギシギシと鳴る階段を上がる。旧友から譲り受けたこの家は立て付けも良く 過ごしやすかったが、この階段だけは不満だった。段が見て分かるほど傾いて いる上に滑りやすく、上る時に何度か油断して転んでしまったことがある。そ れから彼は冬でも靴下を履かなくなった。  彼は二階の部屋にパソコンを置いている。生活用品が置かれ、縁側の戸を開 けると畑に直結している一階にいると、現世から抜け出せていない感じがする からだ。彼は夜は二階にいるのが好きだった。月が近いし、少し手を伸ばせば 彼方の世界に届くような気がする。彼は孤独を嫌うくせに、現世を恐れていた 。かつての仲間が恋しい。  彼は電源を入れた。モニターとマシンは、先月に街の電気屋で新しいのを買 ってきたばかりだ。視覚効果ばかりが進化したように見える最新のOSの操作 感にはすぐ生れた。彼はブラウザを開き、ニュースをチェックした。  殺人事件、政治、テクノロジーのトピックを見る。彼が十年前に起こした事 件については今日も触れられていなかった。時効になるまでは油断できない。 また、民間の非営利企業が、日本の政策についての議論を目的とするSNSを 立ち上げたという話が気になった。政治家の参加も促し、ここで有効な議論が 出来るアピールをしないと選挙で不利になるだろうと社長が語っていた。マス コットキャラのイラストは普遍的な視点で見て不細工だった。  階下から振動音が聞こえた。誰かが玄関の戸を叩く音だった。 「渡辺さーん」  危険な階段を慎重に下り、渡辺は玄関の明かりをつけ、鍵を外してガラスの 引き戸を開けた。 「あ、こんばんは。すいません夜分遅くに」  ペコリとお辞儀をしてきたのは、歳の頃は二十に達したかどうかの、若い女 性だった。渡辺は彼女に見覚えが無い。  Tシャツにジーンズ、スニーカーというラフな格好で山を登ってきたらしい 。この家は麓からそう遠くないので無理なことでもない。しかし女性が一人で 来たというのは、無防備にも程があるように思えた。  突然の訪問者に何と声をかけようかと渡辺が迷っていると、女性は気まずそ うに笑いつつ言葉を続ける。 「あーの、突然なんだと思いますよね。えっと実はですね、あ、いや、本題に 入ってびっくりされる前に、これ、おみやげです」  彼女は手にしていたビニール袋を持ち上げてきた。 「はあ」  言われるまま受け取ってみる。ずっしりと重かった。中を覗いてみると、5 〜6本の缶が入っていた。白地に、大きくトマトがプリントされている。 「これは……トマトジュースですか」 「はい。渡辺さんのお口に合うかなと思って」  渡辺は閉口した。彼女は自分のことを何だと思っているんだろうか。  立ち話で済みそうな用件ではなさそうだったし、わざわざ山を登ってきた客 人であるのだからという常識も働いて、渡辺は彼女を茶の間に案内する。滅多 に使わない二個目の座布団を敷いて勧めると、彼女は正座で座った。  ガラスのコップを二つ、ちゃぶ台に置く。麦茶を入れた。容器が空になった ので、席を外してさっと水洗いをした。麦茶の新しいパックを出し、薬缶に放 り込む。  コンロに火をつけてから、女性のいる茶の間に戻る。 「どなたさんなんですかね?」  自分も座布団に座りながら尋ねる。無愛想な印象にならないようにしたかっ たが、しばらく人と対面で喋っていなかったので失敗したかも知れない。 「私は、山下里美と言います。大学生です」 「学生さんですか。はあはあ」  とりあえず適当に頷いておく。自然な流れで相手の顔を見るが、やはり記憶 から引っ張り出すことは出来なかった。会ったことがあるとしても十年以上前 になるはずなので、幼い彼女に会ったことがあるのかも知れない。あとは、線 の細い美人だなという印象を持った。  麦茶を一杯飲んだあと、彼女はようやく本題を切り出した。 「まず確認させていただきたいんですけど……渡辺さんって、昔、法燐舎と… …」  法燐舎。  その単語を聞いた瞬間、渡辺の脳が揺れた。血流が早くなるのを、はっきり と感じた。  木の根を掘り起こすように、ずるずると記憶が引き出される。  山下夫妻。  彼が何人も殺した、そのうちの二人。  法燐舎。  熱狂的で攻撃的な新興宗教団体。  教義は出鱈目だが一片の真実も含まれていた。  人生に関する抽象論と、邪悪な人間の見分け方。  山下夫妻は、道で通りかかっただけの渡辺を捕まえて、悪魔であると断定し た。悪くない推測だった。看破されたと言ってもいい。もっともあの夫妻はそ の疑念の目を渡辺よりも前に自分たち自身に向けるべきであったと思うが。  トラブルの果てに、渡辺は彼らの自宅で彼らを殺した。  目撃の回避には最新の注意を払った。  しかし、引き出せば記憶は細部まで鮮明に蘇る。高精度な映像記憶が彼に真 実を伝える。  六畳間の狭いアパート部屋に転がる死体。二つ。嘗めた血の味。貧しさゆえ に物の少ない部屋。いくつもの穴の開いた襖。一番左上の、ぽつんと離れた穴 。  当時の彼はその穴に一瞥もくれなかった。視界の端に入っていただけだ。  彼は記憶を覗き込み、そこに注視する。そこはただ真っ暗なだけ。しかし闇 には濃淡がある。凝視すれば中が見える。その奥で……  目が合った。  虹彩のパターンを確認。  その目は、いま目の前正座してこちらを見ている女のものと、同じものだっ た。 (この娘が……隠れていたのか!)  確信した。  すべては一瞬の思索。  時間が再起動し、女の言葉が続く。 「……と関わり合いになったことはありますか?」  真実はYESだ。  真実を知った者は始末しなくてはならない。 「……法燐舎?」  しかし彼は首を傾げる。とりあえずしらばっくれることにした。  彼女には十年前に一度姿を見られているのに、ここで嘘をついて、果たして 騙せるものだろうか?  騙せないと見るべきだ。  だが、そうであれば一人で犯人の前に無防備に現れる理由がない。何か特別 な意図があると思えた。まずはそれを知るべきだった。 「今はもうない宗教団体です。私の両親が入っていました。両親はその法燐舎 経由である人物とトラブルを起こし、その人に殺されたんです」 「……そりゃまた」 「一ヶ月前、駅前の家電量販店で私はあなたの姿を見ました。あなたはその人 物と酷似していました」 「……」 「調べに調べてこの場所を突き止めました」 「うう……」 「犯人が渡辺さんであるという私の予測が正しかったとして、私がなぜたった 一人でその殺人犯に会いに来るという危険を冒しているのか、疑問ですよね? 」 「うおお……」 「私は渡辺さんを訴えたり警察に引き渡したりしようという考えは全くありま せん。恨みつらみもないではありませんが、私もいい大人ですから。嘘です。 私は私の体験に敗北したくないと考えました。感情を超越したいと思ったので す」 「うっくく……」 「正直腹も立ちます。しかし事態はそういうレベルの話でもなさそうです。渡 辺さんが私の両親の血をあまりにも美味しそうに啜る様子を見て、私は渡辺さ んが吸血鬼なのではないかと考えました。うろ覚えですが……うる覚えでした っけ……どっちが正しい言葉遣いか忘れてそれこそうる覚えですが、とにかく うる覚えで、私は渡辺さんの口に牙を見た気がしています。犬歯なのかも知れ ませんが、それにしては長く鋭すぎるように思えました。もちろん、子供の妄 想かも知れません」 「あがが……」 「私のメンタリティはたいへんなあまのじゃくです。両親が聖性と道徳を説く 宗教団体に入っていた反動で、ダークサイドとモラルフリーな世界に惹かれる ようになりました」 「んー……」 「もしも渡辺さんが吸血鬼であるならば、つまりここに、私がダークサイドに 染まり、人間の倫理も常識も感情もすべて超越できるチャンスがある、という ことになります。つまり、」「はあ、はあ、はあ……」  だが渡辺は途中から女の話を聞いていなかった。聞こえていなかったという 方が正しい。  女のうなじを見て、彼は激しい劣情を催していたのだ。彼は良心と、平穏を 望む心と、そして欲望との間で葛藤していた。 おわり