スカイサーキット  一目惚れをした。  正確には容姿だけではなく、その立ち振る舞いと、「あまりにヘッタクソな ため見てて逆に和めてしまう」という理由で首から提げていた作者が意図して いない異様さを醸し出しているネコのペンダントのチョイスの好ましさ、が合 わさって彼を感動させた。それぞれの特徴の組み合わせは考慮されず独立して 好ましさが計られ、そののちに足し算された総合的な良さが、彼の内なるボー ダーを上回って恋愛堤防を崩した。  数日後、告白した。  数ヶ月後、結婚した。  自分が正常であることを証明できるシステムは有り得ない。  自分が正気であることを証明できる人間はいない。  人間は直接的な目視であれ間接的な伝聞であれ、自分が知覚し得ることしか 知り得ない。人類は科学的な観測域より外のことは知り得ないし、明日のこと はおおまかにしか分かり得ないし、道具を使わなければ背中のことも分からな い。  もうひとつ、人がその知覚の触手をどうしても届かせられない、不可知の聖 域が存在する。  無意識だ。  自分自身の精神、頭脳の活動には、自分ですら理解し得ない領域が確かにあ る。これは「背中の方向にも空間が広がっていること」よりも忘れられやすい 。精神世界の死角である無意識に形は無いからだ。少なくとも目には見えない 。そのため、無意識で行われている処理がどれほどの規模のものか、本人達で すら見誤ることになる。その個人ごとのスケール、圧倒的な格差についても。  飛びぬけて高度に発達した頭脳は、素粒子をも下回る微細なレヴェルの振動 さえ、思考処理のシステムに組み込む。ゆえに脳の外見のサイズは思考能力の 上限を意味しない。可能性は無限ではないが、無限と見まがうほど底が見えな い。少なくともその天井を、人間は計ることが出来ない。  男は天才だった。そして魔法使いの素養があった。  しかし彼自身には、その自覚がなかった。  話は長い。  彼は計算機械の発明家として、自分の才能を過大評価してはいた。実際、学 業は驚くべき速度でこなし、古今の文献も人の十倍以上を読めた。彼は発明家 が自分の天職だと判断した。学校での輝かしい成績がそれを裏打ちしていたし 、何より≪予感≫があったからだ。彼が鉄で出来た計算機械を動かすとき、そ の構造を想うとき、また、その無骨な金属の表面を油まみれの手でさするとき 、確かにその≪声≫が聞こえていた。それを人間の言語に翻訳してここで表現 することは残念ながら出来ない。なぜならその声はデジタル過ぎたから。しか し彼はその声の意味を理解し、対話できていた。少なくとも、犬と意志疎通で きる愛犬家以上には。  だが彼は発明家として優れた業績を残すことは出来なかった。それどころか 、彼より資質に劣ると見えた同輩の方が、次々と輝かしい成果を残していく。 彼は歯噛みした。  彼は頭が固かった。計算機械の既存の発明や、その構造を理解し吸収するこ とは誰よりも得意であったが、新しいものを創造する能力は皆無だった。発明 家たちの成果ではなく、『どうやってそれを思いついたのか?』ということに 今まで注目していなかったことに、彼はそれから初めて気がついた。そしてそ れについて考察してみた。何やら、過去の発明家たちは、計算機械以外の分野 ……たとえば化学だったり心理学だったり、そういった別の畑から根っこを引 っ張ってきて機械に接続したり、そうでなければ、それまで常識として通るあ まり意識すらしなかったことを破壊したり、といったことにより技術を進歩さ せていったようだ。しかし、彼は資質上の問題で、それがまったく真似できな かった。  彼は絶望した。  生涯を賭してきた発明家の道を、断念しなければならないことを自覚したか らだ。  家に帰って妻にこのことを報告した。  妻は彼を慰めるために、ピクニックに連れていった。  高い山に登った。  空を見た。  雲を見た。  風が、荒んだ彼の心身に心地よく染み渡った。  彼はその瞬間、すべてを忘れられた。  それから彼は機械の声が聞こえなくなった。  夢は捨てても日銭は稼がなければならない。  彼は畑で野菜を作り始めた。彼は過去から遠いところで働きたかった。彼は 彼にとっての大いなる人生の失敗を相対的に小さくするために、大きな変化を 必要とした。  素朴な生活は大当たりだった。彼は満たされない功名心や同輩への嫉妬心に よって生み出されていたストレスから解放され、さらに家族と向き合う時間も 増え、健やかに幸福に暮らせた。  特にピクニックは良かった。どんなにつらいことがあっても、空と雲と風は 、彼を快くもてなした。  彼に変化が生じる。  空を流れる雲を見ているうちに、そこに何かが見えるような気がした。目を 凝らしても分からなかった。が、視覚としてただ認識するだけではなく、心を 落ち着けて耳を澄ましてみると、空と雲から声が聞こえるような気がした。そ れは、かつて彼が機械から聞いていた声とは別種の声だ。しかし、同質の現象 だった。彼は新しい何かに覚醒しつつあった。  それから彼は毎日、山に出掛け、空と雲ばかりを見るようになる。そこから 何かを見出せると思えて。実際、大いなる天空は彼に多くのことを伝えた。空 の流れ。横切る鳥は、どこから来てどこへ行くのか。明日の天気。今日、誰が 死んだか。それはどんな人間だったか。  それらの情報が、本当に正しいかどうかを彼はわざわざ確かめようとはしな かった。天気の予想は必ず当り、彼の幻視の正しさを裏打ちしていた。ただ見 知らぬ人たちの死については、わざわざそれを確かめには行かなかった。  ある日、空に彼の妻が見えた。彼ははっとした。  帰宅したら息子が泣いており、階段から足を滑らせて死んだ彼の妻がそこに いた。  過労だった。  彼が空を見ることに呆けてあまりに働かないので、彼女が仕事の全てを請け 負っていたのだ。  彼は激しく自責した。息子からも責められた。  明日からまた働こう。  そう思って、彼は妻の顔を見るためにもう一度、空を仰いだ。  また声が聞こえた。妻の声ではなく、空そのものかもしくは自分自身の無意 識の声であるようだった。今までにないほど明瞭な声だった。  声は彼にすべてを説明した。彼の中で何が起こっているのかを。  彼の無意識は、他に類を見ないほど単純な構造をしていたが、サイズは恐ろ しく莫大だった。そして、単純な構造の莫大な蓄積は、複雑な組み合わせと計 算を可能にした。そう、小さなロジックの集積体である計算機械と同じように 。彼の無意識は膨大な計算機械に酷似していた。彼が計算機械に惹かれていた とき、その性質はどんどん強められていったのだ。彼は計算機械と、耳や肌で 対話していたのではない。その機械とほぼ同じものを、無意識のフィールド内 に複製し稼動させていたのだ。だから彼が誰よりも計算機械の構造を理解でき るのは当然の話だった。そしてその頭脳がエミュレーションに特化し過ぎるあ まり、新しいものの創造を不可能としていたことも。彼は計算の天才だったが 、創造の天才ではなかった。あるいはもしかしたら、『計算機械になりたい』 と願えば上手くいっていたのかも知れない。  しかし自分自身に対する誤解は、彼を別の位置に導いた。  計算機械に絶望して計算機械から離れようとしていた彼が、高所から都市を 見下ろしていたら都市と同期していたのかも知れない。犬を撫でていたら犬と 同期していたのかも知れない。しかし偶然は空を選んだ。彼は空を見て、その 雲や空気の流れも含めた三次元空間としての場を、脳内に転写していた。空が どんなに大きくても、脳がそれに比べてどんなに小さくても関係ない。彼の天 才的な無意識はそれを可能にした。  彼は空の流れを理解したし、そこからの類推で、空の下の世の中で何が起こ っているかも、ある程度は間接的に理解できた。そのすべてを認識しようとす ると、あまりに情報が多くて混乱してしまう。膨大な情報の中で、『人の死』 はシグナルが特に大きく、意識上に頻繁にピックアップされた。  そして彼は妻の死を知った。  それが最後の鍵となった。最愛の者の死は彼の脳を強くキックした。  彼は自分を理解した。意識が無意識を覗けるようになったのではなく、無意 識が意識化した。声という形でなされていた理解は、やがて手に取って見える ようなものに変わった。  それらが妄想である可能性を検討する必要はなかった。彼が認識している世 界は、無矛盾でありながらそれまでの認識より遥かに広大だったからだ。超常 現象を目撃したり、無情報な幻覚を見るのとは訳が違う。たとえもし彼の外界 から閉ざされた脳が見せる幻の世界だとしても、大きさと緻密さで勝るなら、 そちらの方がより深く現実だ。  しかし、彼は空に妻を見ることが出来なかった。  ときどき死者の影が、雲の中に見え隠れすることがある。死によって物理的 な形でエンコードされた意志と記憶は、劣化を伴いつつもある程度は保存され ているようだった。彼は妻と会いたいと思ったが、アトランダムに現れる死者 が、たまたま妻になるという天文学的な奇跡に出会うことは出来なかった。  彼は空について、見るだけに留めるのではなく、こちらからのアクセスを試 みた。彼の手は空気と風に触れられる。それは空と繋がっている。彼の脳の膨 大な計算能力を利用し、指先のわずかな力で空をコントロールすることが出来 るはずだ。彼はそれを試みた。  妨害された!  この世界のどこかで、同じように空を操作している別の手が既にあった。天 空を通じて、彼は確かにその手に触れた。そして、つまみ食いを咎めでもする かのように、ぺし、とはたかれたのだ。  何度試みても同じだった。手を出そうとしても妨害を回避できない。  数百度の失敗ののちに、彼は悟った。彼は、空と雲の巨大で複雑な流れ自体 の中に、骨のようなものがあるのを見た。どんなにぐにゃぐにゃと揺れていて も、一定の構造を保ち続ける骨子だ。それは、世界に君臨する組織が、天候に よって世界を間接的にコントロールするための凪だった。天空は手垢がつき、 独占されている。  彼はそれが許せなかった。  空という広大なフィールドを、既に操作している手と衝突せずに利用する方 法があった。電気だ。自らの肉体に帯電している静電気で、空の電界を操作し 、膨大なだけではなく高速な処理を可能とする。彼にそれを思いつく創造的な 頭脳はなかったが、空への激しい渇望が、破れかぶれの動きと偶然によってそ れを可能にした。  天空回路。  彼が支配する電界は、視界内の空のみではなく、星を覆う球面上すべてに広 がった。その異常な大きさと異常な速度は、球面電界を巨大な脳にした。しか も速い。その天の脳はしかし人間のような感覚器官を持たず、完全に閉じてい る。他者を知らないので自分自身を知ることもなかったが、その前提のまま哲 学的な思索が進んだ。思索は数秒で完成し、天空回路は答えを知った。悟りを 開いた。意味の意味を理解した。  その悟りは、世界そのものの基礎システムへのアクセスを可能にした。  天候の覇者はその狼藉に気づき、偶然を装って彼を殺そうとする。彼は高所 から落ちて死んだ。しかし遅かった。  魔王キルヒホッフ。  彼は、天空回路を通じて基礎システムに介入し、彼自身を「魔王」と呼ばれ る特殊な存在に変えていた。魔王は理を越えられる。無法力。それはルールの 無い能力。物理的に有り得ないことを為せるだけではない。論理的に有り得な いことすら、世界を歪ませてでも実現する。(後に世界はこの無法力を、魔王 が常時発現させている特性ではなく、任意のタイミングで使用可能な能力/ア イテムとして魔王から切り出すことで、世界に生じる矛盾を低減させ、安定度 を増した。)魔王という怪物は過去にも存在したが、人間が魔王となって無法 力を得るのは、これが初めてだった。  死殺し。デスキャン。彼が得た無法力は、彼に訪れた死そのものを無理やり 捻じ殺した。  キルヒホッフと天候の覇者は「制空権」を争い続けたが、最終的には天候の 覇者が情報勝ちした。キルヒホッフが空に拘る理由が彼の妻の霊魂であること を知り、それを人質に取ったのだ。取引によりキルヒホッフは妻と再邂逅を果 たし、敗北と死を受け入れた。 End.