爪を噛んでいる。  心の底で輝きを発していた、根拠も由来もない無名の創造性発生源を失った織原七重は、それから学校に行っていない。一切誰とも話していない。  生ける屍となって夜の住宅街を徘徊し、ぽっかりと浮かぶ月を見ながら言葉を漏らす。なにもない、ナナエにはいっさいなにもない。哀れなにもできなくなったナナエは、他でもないナナエに見放されてしまった。自分で自分を肯定することが、無限ではなく空虚としか思えなくなった。死にたいとは思わない。消え去りたいとも思わない。ただただ今は生きたくない、ほんとうに何も生きたくない。泥になって流れてしまいたい。  歩き疲れて自室に戻って、毛布にくるまって動画を見ながら爪を噛んでいる。  音楽も映画も良い。本当に美しくてセンスのある人たちの綺羅びやかなパレード。そこにナナエはいない。  泣く。  涙は不随意に流れ出す。唐突に、自分でも理解できないタイミングで。感情に振り回されている。嗚咽に体を震わされてあーあーと呻く自己憐憫に一抹の快楽はあるけれど、そんな見すぼらしい感情に縋っている自分がほんとうにみじめでさらに悲しくなる。  ひたり。  彼女の左腕がつかまれた。部屋には誰もいないのに。人が入る隙間などないベッドの下から伸びる二次元の黒い手。冷たい。 「わあああああ!?」  本物の手ではない。明らかに物理的な現象ではなかった。幻視だ。  感性が霊的なレベルにまで発達している彼女にとって幻視は決して珍しいものではなかった。しかし、いま見ているものはひどく陰鬱だ。以前に見ていたような風景を美しく彩る夢とは違う。  冷たい手はワイヤーのように腕に食い込み、織原七重をベッドの下の隙間――ろくでもないどこかに連れ込もうとしてくる。 「やだ、いやだこれ! ちがう! こんなのナナエは見ない!」  否認する。  それに物理的実在がないとしても、彼女の認知にとっては紛れもない現実だ。腐敗してゆく自身の感性が生み出した悪夢。それに飲まれて帰れなくなることは十分にあり得る。外からは単純に発狂したように見えるだろう。辻褄は合う。  論理的にそういったことを考えたわけではないが、彼女には自明のことだった。  自意識の亡霊。自分を否定する自分。  恐ろしい腕は口もないまま音声を発する。理解してはならない異音の連なりを。  七重の呼吸が荒くなり、ひきつけを起こしそうになる。限界が近い。ああ、今に自分の体中から指が生えてくるだろう。 「た……す……」  けて、と口にするのを彼女は思いとどまった。以前の自分なら絶対に言わなかった言葉だ。失われたものに手を伸ばすのは無意味だけれど、すべてを失ってからじつに様々な醜態に手を染めたけれど、それを言ってしまえば決定的な喪失を認めてしまうことになる。認めたくない。言いたくなかった。でも苦しい。  それに、助けてもらうって、一体誰に?  織原七重はこれまで、あらゆる人間を見下し続けてきた。それでばつが悪くなるような羞恥心はないにしても、便りに出来る人間を自分以外に知らなかった彼女には、助けて、の後に連ねる名前の持ち合わせがない。  親友? あんなのはただのきれいな思い出だ。懐かしむ以外に価値はない。ファンたち? あれはナナエと奪い合うばかりでナナエを助ける力はない。ナナエにはもう奪う力がないから、一方的に奪われてしまうだけだ。ナナエの商品価値を買っていたヤクザ屋たちも同じ。両親? 論外。  さしもの七重も自分を偽ることはできない。ひとつひとつ可能性を否定させられて、彼女の体から本格的に力が抜けていく。  疲れた。  心の底から疲れた。気分良くなりたいとか、何かを良くしたいとか、最悪を否認したい、とか願い続ける虚しい心の動きに疲れた。これからは自分を呪って生きよう――  そして意志を失った七重の口から、機会的に、反射的にその言葉がこぼれる。 「たすけて……」 「ほい」  七重の視界に、新しい腕が出現した。  七重の腕を掴む黒い腕を、さらにその新しい腕が掴んだ。そして握りつぶす。黒い腕は霧散してしまう。  それは現実の腕だ。ここにいる七重ではない人間の! 「ごめーんね待たせて。あなたに構える時間をようやく作れたよ。嬉しくない?」  意志が結晶化したような瞳が、七重の見ていた幻覚をしっかりと視認していた。そして七重に目を移す。見る。 (あ……いた。このひとがいた)  この社会にある巨大な承認のサークルから断絶している織原七重を、助けられる人間なんて存在しない。その例外。 「つらかったよね。あなたに失わせたものは全世界ゴミクズフェノメノンだから絶対に戻してあげることはないけど、代わりにわたしがヨシヨシしてあげる。それで十分じゃない?」 「ぁ……」  彼女は七重を見ている。七重の幻覚も見るし、本質も見る。なにもかもを見尽くして取りこぼさない。強さによって束ねられた優しいまなざし。セレスティアル。存在がご褒美。どうもありがとう!  彼女は七重の感情もクオリアも直視しているから、七重が望むことも、願ってもいないことも分かっている。膝をついて七重の顎に指を当てる。ほんのわずかにだけ動かす。コントロールを代行するように。 「ちょっと考えられないくらいに素晴らしかったものを永久に失って、にもかかわらず人生が続いてしまうのは本当にお気の毒。だけどわたしが寄り添ってあげる。あなたが必要としなくなるまで。そんなの本当かなって思うよね。ほんとだよ」  織原七重の二番目の願いを、それが求められるよりも早く請け合ってしまう。軽やかに。  かつては好敵手だった人。そして今でも七重に残った、この世で唯一の意味の持ち主。精神の解呪、根本的な救済に長けた万能の解決者。名は、 「くろのうた!」  奇跡に再会して感じ入っている織原七重の顔を見て、黒野宇多は思う。とってもかわいい。やっぱりこの子すごいわ。  でももうそこに毒はない。人様の心を狂わせたりはしない。子供のように無垢。 「ナナエ、やだよ。嫌だよぉ……! ふぐうぅぅ!」  寝間着の七重は力いっぱい宇多に抱きつき、ゴスリゴスリと顔をすりつける。これまで他者が不在すぎて行き場のなかった、でろりと噴き出す感情をひたすらぶつける。 「うたちゃんんんんん! うう! うう!」 「いいよ。そうだよ。うん。やだよね。そうだね。うん」  全部受け止めるよ、とは言わない。七重がそこで遠慮しないのは分かっている。  絹糸のような頭髪を匂いながら宇多は意識を全振りして、言葉にならない声に耳を傾ける。かつてこの世ならざる境地にいたものの咆哮を。  大きな目的に反する感情は必ず抑制する宇多にとっても、感情が目的に沿うこの時間は安らかだ。  世界を呪う別ベクトルの災厄が発生するのを防ぐために、そして同時に七重自身のために、黒野宇多は七重の甘えをどこまでも受け入れる。  どこまでも。 「うたちゃん……」 「いいよ」  七重の指が宇多を求めて動き、二人の触れ合いはいよいよ、描写に課金とゾーニングを要する領域に入っていった。  かつて確かにそれはあった。  失ったものを思い出せなくなって、楽しさだけでなくどんな苦しみをもうつくしく解釈していた感覚を麻痺させていって、織原七重は人間になってゆく。  おしまセレナーデ