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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2013年


雅びアットワンス


 井上雅びが泣きついてきた。いきなりだ。
「もう耐えられない。ごめん。わたしが悪かった」
 と目の前で座り込んだ。
 夕日の射す廊下。
 下校から時が経ち余人もおらず、彼女の奇行は誰にもいぶかしまれない。
 井上雅びは待ちぶせまでして許しを請うてきた。委員会での会議を終えて帰路につこうとしていた黒野宇多は、そんな彼女に近づいた。しゃがみこんで目線の高さを合わせる。頭を抱いてやる。ぐしぐしと撫でてやった。
 彼女は何に苦しめられていたのか。何を許して欲しいのか。宇多は知らなかった。しかし、雅びに敵意や悪意がないことや、その存在に危険はないこと、許しを求める言葉に偽りはないこと、そして心の底から宇多の同情を必要としていることは、見てわかった。微細な揺れから読みとれる意識振動は、彼女の本心をそのまま伝えている。だから抱きしめた。
「わたしが間違ってた。黒野の言うとおりだったよ」
 と雅びは言う。
 宇多は何も言った覚えはない。雅びが謝るような忠言は、何も。同じクラスだから雑談や挨拶くらいは交わすものの、今の場面を生むような深い関わりを持ったことはなかった。人格概要の読みとりくらいは行っていたが。
 黒野宇多の精神と認識は非常に堅牢だ。彼女自身がそう望まぬ限りは、化かされないし操られもしない。例外としてLisphaクラスの怪物に出し抜かれている可能性はあるが、それはLisphaの情報が足りてない今、考えても仕方のないことだった。いずれその解析装甲を剥がしてやりたいと不遜なことも考えてはいるが。
 だから間違いなく、宇多は何も忠告などはしていない、と考えるべきだ。
 では、雅びは聞いてもいないことを聞いたと思いこんでいるのだろうか。これも違う。そう宇多は読んだ。雅びの所作や声色に偽りは見られない。本当に、自らの愚行と失敗に懲りて、「宇多の助言を聞かなかった」ことを後悔しているようだった。また、何者かに認識を化かされている気配もない。雅びは「黒野宇多からの助言」を確実に聞いている。宇多は何も言ってないのに。まだ。
 井上雅びは未来を知っている。
 宇多はそう判断した。
 彼女は何らかの特質を持っている。それは既知の物理法則を越えたものだ。江ノ島から流れ出てくる狂塵が近隣にもたらした異変のせいで、そういった<変質者>が増えてきている。複数人の個性的な変質者が既に観測されているし、宇多自身もそれに準じた技術を習得しつつあった。
 未来を知っているとは、一体どういうことなのか。具体的にどのような異常が、それを可能たらしめているのか。
 可能性は二つだ。井上雅びが自ら経験してきたか、それとも情報として知っているだけか。前者は時間遡行、後者は予知能力と呼べる。
 時間遡行だろう。彼女自身が「もう耐えられない」と言ったのだ。それは悲痛な嘆きだった。実りのない努力に疲れ果て、挫折したその音だ。彼女は相当回数の反復を経験したのちに、黒野宇多に泣きついてしまった。
 どのくらい長くの間、彼女は孤独な時間を堪え忍んできたのだろう。息も静かにすすり泣く雅びの様子を見て、宇多はその道のりを推し量る。
 10より多い。100より多い。1000よりは少ない。500より少ない。300より多い。400より少ない。350より少ない。325より少ない。312より少ない。306より多い。309より少ない。307より多い。
 308回だ。
 現在で309回目。
「苦しかったね」
 雅びを慰めながら宇多は、雅びの置かれた状況を正確に知る算段を立てていた。
 本人の口から説明を受けてもいい。しかしそれよりも手っとり早い方法がある。
 宇多は、ひとつのパスワードを記憶の中から取り出した。それは誰にも言わずどこにも書いてないし入力したことのない、つまり頭の外に出したことがないもので、元々はLisphaによる支配に備えて、自分の記憶参照を制限するために複数用意していた鍵のひとつだった。
 どうやら宇多は、井上雅びの308回の反復の中で何度か、雅びとその現象について会話する機会があったようだ。でなければ、雅びに非を認めさせるような助言などできるわけがない。
 ラウンド1から、ラウンド309まで。どの宇多も、もし時間の反復について知ったら同じような思考をするはずで、その時点でパスワードを思い出す。そのパスワードはすべての宇多において同じだ。パスワードを共有すれば暗号通信ができる。つまり、井上雅びが協力すればという条件付きで、前のラウンドの宇多は、後のラウンドの宇多に、他者に意味を知られないようにメッセージを伝えることが出来るということだ。そして何より、そこに嘘が混じるのも防げる。情報を信頼できる。
 宇多は雅びに聞いてみた。
「わたしからのメッセージは覚えてる? 一番新しいやつ」
「覚えてるよ。もちろん」
 雅びは左上の空中を見て、唱え始めた。
「あろかりた・ぴさぬれきそに・しれびきす。ててれまい・おきぐぜもいた・ほばうきと……」
 前の宇多に教え込まれたであろうメッセージだ。暗記しやすいように、575で分割された濁音、半濁音を含むかなの音列だ。総文字数119文字。
「……みりふけう」
 最後まで聞いた宇多は、文字列に織り込んだ情報の冗長性を用いて整合性をチェックする。
「ほばうきと、じゃなくって、ほぱうきと、じゃない?」
「あっそうだった」
 通信時における欠損を検出。訂正。
 復号関数にメッセージとパスワードを入力して復号化。圧縮伸長。
 宇多は、知らない宇多の言葉を聞く。

 意味の連なりが、概念の天蓋を流星のように埋め尽くす。揺られる葦は深くやわらかく、遠く鳴る音が終わるまではとこらえながら口元を隠す。

 紐解かれた言葉は、必要なすべての真実を運んできた。
 井上雅びは記憶を保ったまま過去をやり直せる。ただし戻れる先は、あらかじめマークをつけておいた時点だけだ。何度でもそこに戻れるし、マークを別の時点に付け直すことも出来るが、そのとき前のマークは破壊される。
 少なくともエリア・ストリクトにおいて、時間軸は複数ではない。ひとつだ。巻き戻しても歴史の分岐が起こる訳ではない。巻き戻す前の歴史が破壊され、新たに歴史が紡がれる。彼女の能力は、エリア全体を巻き込む大がかりなものだ。
 彼女が力を得たことに意味はない。偶然素質があり、偶然きっかけに触れて開花しただけだ。しかし極めて汎用性の高い能力なので、それを用いて叶えたい欲望を持ち合わせていたのは必然だ。

 さて、井上雅びは何の目的で同じ期間を308回も反復していたのか。
 それは彼女が恋をしていたからだ。相手の男と恋仲になってかつ永遠に良い関係を保ちたかった。そのために彼女は、その時間の反復能力を利用することにした。うまくいかないことがあったら、時間を戻してやり直せばいいのだ。時点につけられるマークは一個だけだから、そのタイミングは慎重に選ばなくてはならない。彼女は考えて、告白する前にマークをつけることにした。何かの過ちが原因で恋愛が破綻するとき、それはもしかしたら関係が始まる前から過ちが起こっているかも知れないからだ。問題への対処は早いほどよい。つまり、戻れる時間はできるだけ前の方がいい。とは言え、失敗するたびに長い待ち時間を作りたくもないので、告白する前にマークを付けた。
 一周目。かくして告白は成就した。雅びは喜んだ。蜜月が続いた。ただし三ヶ月だけ。そのあと唐突に破綻した。
 相手が交通事故で死んだのだ。その死体を見て雅びはほほえむ。これは取り返しのつかないことだ。普通なら。でもそんな摂理に従わなくていいのが自分だ。取り返しのつかないことなど、自分にはない。起こると分かっている偶然のイベントなど、ちょっとした操作で回避できるのは確認済だ。井上雅びはマークポイントに戻った。
 二週目。しかし告白は受け入れられなかった。雅びは驚いたが、偶然の重なりで人の心のありようが変わるなどよくあることだ。雅びはマークポイントに戻った。
 三週目。四週目。五週目。しかしまたしても告白は受け入れられなかった。どうしても、一周目に快諾されたときからは想像も出来ないような冷たい態度で拒まれてしまう。それどころかこちらを以前から嫌悪しているようにも見えた。雅びは首をかしげながら、それでもマークポイントに戻る。
 十週目。二十週目。雅びはあらゆる手段を試し始めた。何度でも戻れるから、良心の許す限りあらゆるリスクを犯せた。周辺人物への聞き込みによって情報を収集した上で、さまざまなタイミングと方法で告白を試す。時には十年、二十年待ってから試したこともあった。しかしすべて失敗した。繰り返すごとに、ほかの様々な偶然のイベントは再現性がないのに、これだけが何度やっても結果を変えなかった。原因も分からない。雅びは疲れていった。
 雅びは黒野宇多に頼ることにした。彼女の知恵を借りることにした。自分の考えでは解けないことも、聡明な彼女ならなんとかしてくれるかも知れない。少し打ち明けるだけで彼女はほとんどの事情を察し、条件付きで雅びの相談に乗ってくれた。その条件とは、前の宇多から覚えさせられた秘密のメッセージを渡すことだ。初めて宇多に相談したときはメッセージだけ受け取り、その次の週の相談でメッセージを何も知らない宇多に渡した。
 黒野宇多は232回の反復を用いて仮説の作成と検証を繰り返し、井上雅びの反復の性質を突き止めた。そして雅びの恋はもう二度と成就しないという結論を出した。
 実は初回の反復によって、エリア・ストリクトは劣化していた。
 時間にマークをつけるとは、つまり、その時点の世界のスナップショットを保存することだ。それには十分なスペースが必要になるから、無尽蔵な数を保存することはできない。井上雅びの意識現象とリンクしている空きエリアは、それなりに広大ではあるがエリア・ストリクトを一つ保存するには足りていなかった。そうなると、保存される世界の情報は劣化圧縮せざるを得ない。劣化は、ロードではなくセーブ時に起こる。初回と二回目以降とで、世界は振る舞いを変えることになる。ストリクトの神はサイコロを振るが、それでも何度も繰り返していれば、出目によっては同じような展開が発生する可能性もある。しかし、初回の展開が再現されることだけは決してない。
 井上雅びが相手と恋愛関係を成立させるのに必要な要素は、セーブ時に落ちた情報の中に含まれていたことになる。宇多はあきらめろと雅びに忠告したが、雅びは始めは聞き入れなかった。何度も何度も痛い目を見てようやく受け入れた。彼女の能力は、彼女に取り返しのつかない喪失と、無駄な未練を与えるばかりであった。しかし宇多は彼女に新しい輝きを差し出す。井上雅びはこれから家族と共に、ゾウガメの飼育に格闘することになる。帰ったら家にいたのだ。組み立て式ゲージの中に巨体を置いてじっとしていた。井上雅びは困惑するよりもしかし、その大きさに心を射抜かれた。この亀を受け入れようと即断できた。狙いを定めたのは宇多だ。送りつけたのだ。井上雅びが癇癪を起こすたびに歴史を台無しにしてしまうことのないように。あるいは、叶わぬ想いに手を伸ばさないように。
 それはもう、失われたのだ。

おわり


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