当サイトは CSS を使用しています。

ステッパーズ・ストップ

そのほか

2013年


ハンナ


 「わたし、悪くて。いつもいつも、大事のことをうまくできなくて。人として、大切なこと。分からない。知ってる。でもだめなんです。できないんです。うまく説明できないけど。みんなのようには。このままではだめなんです。だけど、そう思っていても、それは学び損ねた何かなんです。説明や、理解では、取り戻せないんです。だから迷惑をかけてしまう。悪くしてしまう。だから嫌われるは、しょうがないんです。当たり前のことで。ごめんなさい。わたし、ここにいない方がいいんです。分かってるんです。学校は、悪いの場所ではない。でも、寒しい。わたしには寂いんです。自分にとって要ることと、感じられないんです。だから、自分も要らない。そうなる。そう考えてしまう。でもほかの、行くための、行くべきの、ところもなくて。ごめんなさい。わたし、わたし」
 喋っているうちに、水戸繁菜の目に溜まる涙が嵩を増していった。こぼれたそれを自分の袖でごしごしと拭く。
 黒野巌は気づいていた。彼女の不幸を他人事である、として突き放す自分の冷たい眼差しは作りものであると。仮面の背後で、目の奥がきゅっと締まるのを感じていた。認めざるを得なかった。自分は、彼女に同情している。
 弱い人間だ。傷つきやすい。守らなければならないと思った。見捨てられないと思った。沸きあがる保護欲を正しいものとして定めた。ハンカチを差し出す。水戸繁菜は首を振った。拭いてあげようとしたら、うつむいて拒まれた。巌は内心でため息をついた。彼女の怯えは強い。とても。助けを求めるどころか親切も受け取れないほどに。哀れだ。
「チッ」
 露骨に舌打ちをしたのは、市川楓だった。苛立たしげに机を叩き、繁菜を脅かす。
「あんたみたいのが一番嫌い。わたしが悪い悪い悪い悪い。わたしわたしわたしわたし。イライラする。そうよあんたが悪いよ。悪くないとか言ってあげないよ。ごめんなさいごめんなさいごめんなさいって、馬鹿みたいに繰り返すのがあんたの誠意なの? いい加減にしてよ。ごめんなさいって言葉の意味知ってて言ってる? 御免・なさい。許せっていう命令なんだよ? 少しはこっちの身にもなれよ。あんたのせいで文化祭の準備にどれだけ遅れが出てると思ってるの? さんざん迷惑かけられた挙げ句、クソみたいな泣き言延々と聞かされてこっちが許すまで謝罪責め。こうしてる間にも、時間はどんどん過ぎてくのに、」
「楓。やめろ」
 淘々と繁菜をこき下ろす楓を巌が制止した。
「……え」
 楓は固まる。
「え? 何それ。わたしがやめるの?」
 彼女はショックを受けたようだった。いつも何でもしてくれた幼なじみに、自分のやることを咎められるとは思っていなかったようだ。それは巌が楓に一度も向けたことのない、重い否定の言葉だった。
「イワオなによそれ。やめろ? やめろって、わたしに言ってるの? なんでよ。なんでよ! イワオ、まさかこいつの味方なの? ウソでしょ? 取り消してよイワオ!」
「いや、楓も言い過ぎだろ」
 巌もまたショックを受けていた。楓の心ない言葉と、その言葉にいつものように迎合できない自分自身に。彼は利己心について考えていた。利己的なのは当たり前だ。誰でもそういう風に生きてるし、思いやりに見えるものだってその根には利己心がついてまわる。しかし、近距離に弱者がいて、なおかつ自分に余裕があったなら、その時どうするかなんて自動的に決まるものではないのか。水戸繁菜はこんなにも可哀想で助けを必要としているのに、どうしてより傷をさらにえぐるような真似が出来るのか。
「言い過ぎなんかじゃない!」
 楓の絶叫は教室中に響きわたった。ほかの生徒の注目を露骨に引いた。
「だれがどう見ても悪いこいつを、注意して何が悪いのよ。それをかばうって。イワオ。どうして? なにそれ。どうして。何なのその贔屓。何なのよ。なんなのよ!!」
 いつもの楓のわがまま。
 実際、彼女が幼なじみの巌を利用し、道理をねじ曲げて我を通そうしてきたのは一度や二度ではない。その理不尽レベルも、今回が特段に大きいわけでもない。
 変わったのは巌の方だ。楓の望みなら全部叶えてやろうと思っていた彼が、初めて彼女に対して何かを主張する動機を、水戸繁菜が与えた。
 繁菜は自分のスカートを握りしめていた。なぜか少し笑っているのは、この状況を笑ってやり過ごそうという、薄ら寒いずれた努力のためだ。彼女は、自分がなにかおかしいことだけは理解している。ただ、その誤りを正せない。その概念を知ってはいても、血肉を持ったものとして獲得できていないからだ。
「うーうーうー。市川さんが怒ってしまって、とても残念です。悲しいことなんです。でも、どうしてそうなるのか、分からない。教わってなくて。わたしは、ぬくもりから始めなくてはならない。どこにも行きたくない、って、誰でも最初に思うはずなんです。わたしはそれが許されなかった」
 繁菜が語る相手は巌だった。彼女には珍しい饒舌だった。クラスメイトたちも、楓の癇癪には慣れたものだが、いつになくよく喋る繁菜の様子には驚いていた。
 なぜ、繁菜は喋るようになったか。それは聴く者がいるからだ。巌だ。今まで誰も、彼女の言葉にまともに耳を傾けようとはしなかった。彼女の両親たちですら。巌という出口を見つけて、繁菜の言葉は堰を切ったように溢れ出た。
 まずはそこから始めようと、巌は思った。
「鏑、悪いけど準備の段取りは任せていい? 俺は水戸さんの面倒見るから」
「ああ」
 巌はクラスの催し物の準備の指揮を、かぶらと呼んだ男子に引き継がせた。
「水戸さん」
 巌が手を差し出した手を、繁菜は取らなかった。拒絶したのではなく、手の意味が分からなかったためだ。仕方なく「おいで」と言って巌が歩き出すと、それにはついてきてくれた。
 二の句も告げないのが市川楓だ。
「な……」
 クラスメイトたちは大音量のおたけびを覚悟したが、それは無かった。楓は意識は保ったまま、体から力を失い、床にへたり込んでしまった。繁菜を連れていく巌の後ろ姿を眺めながら、顔を蒼白にしていた。

 壊れた言葉は正しく機能しなくても、そこからどう壊れているのかを推測することは出来る。
 黒野巌は、水戸繁菜の分析を試みていた。彼女は助けを必要としており、しかも助けの求め方を知らない。自分が何をしてもらえたらいいのかも分からない。だから他者がそれを汲み取ってやる必要がある。
 ハンナ。水戸繁菜。彼女が振り撒く情報の断片から、イメージを作り上げていく。
 始めに部屋が見えた。乱雑な部屋。水戸繁菜の自室だ。彼女の部屋はおそらく、捨てたくないもので溢れている。小学校の頃からの教科書や、弁当箱。幼稚園のスモッグ。そんなものが見える。捨てないのは決断をしないからだ。何も決められないのではなく、どんな自分の判断にも彼女は満足できない。まとまりのない断片思考の数々は、ものごとの白黒を定めようとしない。脅威に追い立てられてさえ。
「校舎裏に行くよ。いい?」
 巌が振り返ると、繁菜は目をそらして「たぶんいいです」と言った。それまで巌のことを見つめていて、それを後ろめたく思っていたようだ。彼女は絶えず周囲の様子を伺い、神経を使っている。自分がここにそぐわないと、言い渡されるのを恐れているから。彼女は自分がそこにいていい「条件」探し続けている。これからも続けるだろう。くたくたになってしまうまで。疲れ果ててしまうまで。
 実際、彼女は普通ではない。混乱している。意図的に自分の思考をかき乱している節さえある。なぜ? 確固とした自分を持てないから。なぜ? 他者との関係性を築いて来れなかったから。共感を知らないから。なぜ? 学び損ねたから。なぜ? 子供であり損ねたから。幼児期から既に感性を閉鎖していたから。だから常識も人との接し方も、本来あるべき感覚ではなく意識思考で補わざるを得ない。しかしながら秩序化を拒絶する思考の断片は意味のある答えを出すことができず、彼女を不条理の坩堝に叩き込んで苦しめる。
 生きているだけで、延々と根拠のない苦しみを味わい続ける装置。
 それを救いたいと思うと同時に、巌は幼なじみのことを思い出し、自分の感情の変化を見つめていた。
(ぼくは、楓を憎悪しつつある)
 楓はこちらを見てへたり込んでいた。巌に捨てられたと思ったからだろう。生かすも殺すも、その主導権は今や巌にある。巌は楓を、その憎悪に任せていくらでも苦しめるこことが出来る。しかし、それは嫌だと彼は思った。
 巌は、自分に憎悪されているからと言って、楓が苦しまなければならないのは可哀想だと思った。
 繁菜に害を為さない限りにおいて、今まで通りに接してやろう、と思った。
 可哀想な女の子たち。そう考えるのは失礼であるかとも思ったが、相手がこちらに依存せざるを得ない限りにおいては、それを考える必要もないと判断した。

「たくさん、たくさん話をさせてくれて、それを理解してくれて、ありがとうございました。いろいろ、大切なこと、順序立てて考えること、良いことと悪いことを分けること、教えてくれて、ありがとうございました。わたし、うまくやれないです。そのやり方が、分からないです。でもそのわかり方を、黒野くんは教えてくれます。それはぬくもりのことです。うれしいことです。明日も、教えてくれますか? いろいろ、教えてくれますか?」
「もちろん」
 そう答えたときの繁菜の満面の笑みを見て、巌は、どれだけの労力と時間を費やしてでも手に入れたい財宝を、その在処を見た気がした。

 黒野巌にはいとこの姉がいる。黒野宇多だ。優しくて頼りがいがある彼女が、昔から巌は大好きだった。可愛がってもらったり、いろいろな相談に乗ってもらったりもした。ものの考え方、問題との向き合い方についても、彼女から受けた影響は大きい。
 しかし、彼女に対して引け目もあった。彼女はつねづね、黒野大地の自分勝手な生き方を非難していた。大事なものを溝に捨ててることも理解できていないクソ馬鹿野郎だ、とも。
 巌は、現実は勝てば官軍の理論で回っていると考えている。あれだけ悪辣に振る舞ってもソーシャルフィールドで沈まない彼の幼なじみはその象徴だ。人はエゴイストで当たり前。だから自分も好き勝手に生きる。かわいい彼女の心をつなぐためなら、別にどれだけ他の人間を傷つけてもいい。誰にもばれなければ、何をしたっていい。それ以外に倣うべき行動基準などない。
 だから宇多の大地への非難は、自分にも当てはまるように聞こえた。大地への非難を聴くたびに、落ち着かなかった。宇多は聡い人だ。巌のエゴイズムなんて、既に見抜かれていてもおかしくない。もし巌が、他人がどうなろうが自分は困らない、と考えを表明すれば、冷ややかな眼差しを向けられるだろう。にも関わらず彼女は、大地に対してするような非難の矛先を巌に向けることはない。宇多は、巌を読み違えているのだろうか。それとも、単に生理的好悪でものを言っているだけなのだろうか。その矛盾が彼女の中でどう扱われているのか、巌には分からず、ぼんやりとした引け目としてそのままだった。
 巌は今回の顛末をメールで彼女に報告した。その引け目も、自分の利益より弱者の味方をした今回の選択で、帳消しになりそうな気がして気分は穏やかだった。褒めてもらえるかも知れない、と期待した。それに、引き替えとして冷たくしてしまった楓のことについても相談を持ちかけた。正直嫌気が差している楓に対し、どう接するべきなのかを。
 宇多からの返信は、しかし巌への賞賛でも、楓との接し方についてでもなかった。
「イワオ、まずいよそれ。それだと繁菜ちゃん死んじゃうよ。自殺してしまう」
 え、なんで。
 巌は、宇多のメールの意味をすぐには理解できなかった。繁菜と意志疎通をし、思考の歪みを、無理なく、少しずつ癒しているだけなのに、どうして死んでしまうことになるのだろうか。聞き返せば宇多は丁寧に教えてくれるだろう。けど最初の返事でそれをしないということは、自分で考えてみろということだ。宇多はよく、巌に問いかけた。それも、彼の認識を一歩だけ拡大させるような問いを。今回の説明省略もその一環だろう。巌はまず、考えてみることにした。
 繁菜が自殺する?
 あり得ないとも言い切れなかった。もう大丈夫、これからちゃんとやっていけますと微笑んで帰宅した彼女がふっと死を選び、その訃報を翌日に聞かされる、というのはなんだか想像できる光景だ。巌はものを深く考えるとき、まず場面や会話のイメージを入り口にする。
 イメージに向かって巌は問いかける。なんで? どうして死ぬの? もう大丈夫って、ちゃんとやっていけるって言ったのに。想像上の水戸繁菜は答える。
「もういいんです。分かったんです。すべてつながって、ちゃんと答えが出たんです」
 答え? 何が分かったの?
「わたしには、もう生きることは要らないって。なぜなら、日々の営みから得られる喜びの源を、決して得られないと分かったからです。自分が存在する理由を」
 巌の中の繁菜小ルーチンは、現実よりもずっと流暢に言葉を紡ぐ。
「誰かとの関わりの中で得られるそれは、わたしは絶対に得られない。今から人と関わっても、もう遅いんです。固まってしまったわたしは、その輝きを得ることは出来ても、すぐに忘れてしまう。輝きを収めるべき器を、作り損ねたんです。さようなら」
 いや、ちょっとちょっと待って。
 巌の制止を聞かず、彼女のビジョンは奈落にぴょんと飛び降りた。

 つまりはこうだ。
 水戸繁菜の思考の歪みは、単なるエラーではない。自殺を先延ばしにする防御の役割も持っている。なぜなら彼女は本来、深くて暗い絶望の中にある。それも、一筋の光も差さない無明の牢獄だ。何も必要としない冷たい完成者でもなければ、柔らかな肉と心を持った普通の人間には、それは絶対に耐えられない地獄の世界だ。水戸繁菜の精神は、これを麻痺させ、直視しないことによって破綻を逃れていた。しかし思考の麻痺は知性の敵である。実際彼女はまともにものを考えられなくなっていた。しかしその向こうに死が待ち構えている開かずの扉を、彼女は開ける訳にはいかなかったのだ。理性的思考の獲得は、その扉の解放を意味する。
 巌の行為は、それを後押しするものだったのだ。
「うわこれじゃ駄目だ!」
 巌は宇多に礼を送った。
 方針を切り替えなければならない。
 理性思考の矯正は後だ。彼女には、もっと先に獲得すべき別のものがある。
 それから、楓も必要だ。

 楓が矛を引き、ついに繁菜に対して妥協したのは、実に数週間後になった。楓の抵抗は長かった。巌は根気良く粘らなければならなかったが、いずれどうにかなるとの楽観はあった。楓は巌から離れられないから、交渉のテーブルから降りられないのだ。
 そのきっかけ自体は、数日後のこと。楓と繁菜が、二人で話していた時だ。
「あんたさ。いい加減、イワオにまとわりつくの、やめてよね。あんたいつも、何も出来なくて迷惑かけてごめんなさいーうわーんとか言ってるけどさ、まず人の男にちょっかい出すのがとんでもなく迷惑。迷惑なの。だから、それだけやめてくんない? イワオに近づかないで。そんだけでいいの。何もしないことくらい、いくらあんただって出来るでしょ? お願いだから、近づかないで」
 と詰め寄る楓に、繁菜は言う。
「ちょっかい、かけてないです。違うんです。わたしは、わたしの考えてること、知って欲しいといつも考えているんです。すべて、ずっと寒いんです。見ている風景の何もかもが。人として生きるのに必要な、基本的なこと、暖かさを、欲しいんです。それで、黒野くんは、わたしが話しても嫌な顔しないから、黒野くんが良くて」
「それがちょっかいじゃなくて何なのよ? だって巌があたしの彼氏なのは知ってるでしょ? 優しい巌の同情心につけこんですり寄って、」
 そこで楓の罵声が止まった。左手を捕まれたからだ。繁菜の両手によって。
「違うんです」
「ちょ、離しなさいよ。殺すわよ」
「違うんです。黒野くんと市川さん、見てて、いいなあって。わたしも、こんなのが良かったなあって」
「嫉妬? 見苦しい上に図々しいのよ。だから離しなさいよ。なんなのこの馬鹿力!」
「違うんです。市川さんに嫌な思いを与えることは、わたしは、そんなことは望みません。それどころか、もっと必要としている」
「機嫌とろうとしてんの? いい顔すりゃ許してもらえるとでも思ってんの? クリンチ? ほんっと、だったら汚い手を早く離せよ」
 楓は捕まれた腕を振り回すが、繁菜は決して離さない。
「違うんです。違うんです。わたしは市川さんから何かのことがらを奪おうとはしていません。黒野くんにも、市川さんにも、欲しいことがあるんです。でもそれは、違うんです。奪うことではありません。恋愛は、わたしは、しません。できません。まだそんなに成熟していない。わたしは」
 楓が力尽きる。彼女は体力が無かった。はあはあと肩を上下させる。ぐったりとしながら繁菜の告白を聞く。
「黒野くんと、市川さんに、お父さんと、お母さんに、なって欲しいんです」
 楓の整った顔は、世にも奇っ怪に引きつった。

おしまい


© Pawn