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椎名里桜たちの物語 2
☆
<山本高次>つづき
ひとつは、周囲の視線が怖いこと。だってぼくだよ。それを椎名さんがお声かけしてくるんだよ。ぼくはとても恥ずかしい人間なので、女の子に声をかけられると、この子はぼくに気があったりして……なんて妄想を抱いてしまう。とは言え、まさか、まさか天下の椎名様がぼくなんかに懸想するなんてそんな大それた可能性、毛の先ほどもある訳はないんだけど、彼女のような高嶺の花が、じゃあ一体何の理由があってぼくなんかに構うのか、みんなと同じでぼく自身にも見当がつかない。
『なんであいつなんかが?』そんな嫉妬が当然出る。当たり前の話だ。椎名さんは人目もはばからず毎日のようにそんなことをするもんだからぼくはすっかり、悪い意味での時の人だ。どうせ声をかけるなら、秀才でスポーツ万能の神野くんにでも声をかければいいだろうに。ぼくは恐れ多くて、椎名さんから声をかけられて少しもいい気にもなれない。
それからもうひとつは……これは言葉にするのがはばかれるような失礼で身の程知らずな物言いなんだけど……ぼくは、椎名さんが怖い。男よりも体力がなくて温厚で安全な存在であるはずの女の子が怖いなんて、変だよね。けど、彼女の、物腰柔らかいけど隙のない所作は、どこかとりつく島の無さを感じさせるし、世界が違いすぎて近寄りがたいってのもある。そう、オーラが違うと思う。相手は女の子だけど、なんだか例えば殺し合いなんかをしたら、余裕で向こうが勝っちゃうんじゃないか、とか……相手があまりに優れていすぎることからくる、劣等感にも似た感情と印象を抱かされてしまうんだ。
で、椎名さんがぼくと一緒に帰ってどうするのかと言うと、どうもしない。しかも、ぼくと椎名さんは帰る方向がぜんぜん違うんだけど、椎名さんはぼくを家まで送ってくれるという。どっちかと言うと、男であるぼくの方がむしろ女の子である椎名さんを送らなきゃいけと思うんだけど、彼女に押し切られてそれもままならない。
ぼくの家は商店街にあって、パン屋や八百屋さんの人たちはみんな顔見知りだ。その彼らに女の子と一緒に見られるので、周囲は当然ぼくとの仲を疑う。本当はぜんぜんそんなんじゃないんだけど(いやぼくは椎名さんが、そりゃ好きと思えるけど、向こうはそうな訳ない)、高校生の男女が毎日連れだって歩くなんて解釈がしやす過ぎる構図、みんなが何も思わない訳ない。さすがにぼくとの仲が疑われるなんて椎名さんに悪すぎるので、ぼくは否定するのに一苦労だ。ただ人は、真偽の分からないことは大抵おもしろい方に倒す。退屈だからね。だからぼくが弁解しても誰も信じてくれない。
そんな視線の中でも、椎名さんは平気そうだ。不名誉極まりない誤解の中でも胸を張り続ける彼女を見ていると、ぼくの心配も取り越し苦労なのかなと思う。
ぼくは当然疑問に思うことがある。だから聞いた。
「椎名さんは、一体なんでぼくなんかに構ってくれるの? 毎日一緒に帰るなんて酔狂、なんでするの?」
近所のパン屋の前で椎名さんは、事も無げにこう答えた。
「それはね、高次くんが面白い人だからよ。誰もが見落としてるし高次くん自身すら気づいてないけど、高次くんはそれはもうとても素敵な人なんだよ」
顔が熱くなる。赤くなっていやしないかと、ぼくは自分が痴態を晒していないか心配になった。マンガだったら、きっとボンと煙を出して爆発していただろう。
「そ、そんなことないよ。ぼくなんか、目立った長所もない、つまらない人間じゃないか」
「そんなことあるよ」
椎名さんはあの、人の心臓を射抜くようなまっすぐな眼差しで、断言する。
「一番の特徴は、その謙虚さね。ほんの、ほんのちょっとだけ自虐に寄ってはいるけど、他の人ではあり得ないほど高いバランス感覚で自分を見ている」
パン屋の前で、あまりに突拍子もない出来事に硬直してしまうぼくに、椎名さんは容赦なくお褒めの言葉を投げかけてくる。
「自分が優れていてほしいという願望、自分が劣っていたらどうしようという恐怖、このふたつに振り回されずに自分を平静な心で見るってのは、先生にだって、わたしにだって出来ないことなのよ」
ボフボフボフ。
ぼくが誉められている。椎名さんに誉められている。ぼくはそのことに有頂天になって、頭が回らなくなる。
しかも、なんだって……? 『わたしにだって出来ないこと』? そんなことをぼくが出来ているだって? 椎名さんは本気でそんなことを言ってるのか? ぼくは自分の耳を疑わざるを得ない。
「そ、それって、そ、そんなにすごいことなのかな? いや、椎名さんとか神野くんみたいに、勉強やスポーツが出来たりする方が、すごいことなんじゃないの?」
椎名さんはくすりと笑った。
「そういう見方なら、そうなるわね。なるほど神野くんねえ……」
と、ぼくは自分が失言をしてしまったかも知れないことに気がついた。椎名さんと神野くんを同列に扱う……いくら両方ともトップレベルな人物とは言え、椎名さんは二回りも三回りも上の次元にいる存在だ。けど、『神野くんと一緒にしてごめんね』なんて神野くんに失礼な物言いもできなくて、ぼくは曖昧に謝罪だけした。
「ごめん。変なこと言ったかも。……あ、着いちゃったね」
ぼくらはぼくの家の前に着いてしまった。ああもう、椎名さんと今日もお別れしなければならない。ぼくは心から残念に思った。
そしたら椎名さんの方から延長申請を出してくれた。
「あとちょっとだけ話させてもらっていい?」
もちろんぼくは大喜びで承諾する。
「山本くんは、好きな人っている?」
ガゴン。
椎名さんの目、空、雲、椎名さんの耳、椎名さんの口。冗談じゃなく視界が揺れた。そのくらい彼女が発した質問は、ぼくにとって衝撃的だった。
椎名さんからそんな話題を振ってくるなんて、それ自体がもう驚きだ。
「……い、いるよ」
「誰?」
「それは……」
椎名さんである。もちろんそんなことは言えない。椎名さんにそんなこと見透かされてない訳はないんだけど、言葉にしてしまうのとそうでないのとでは大違いだ。ぼくが椎名さんに告白? あり得ない。だから、いるとだけしか言えない。
「ごめん、言いたくない」
「わたしもね、いるよ」
まただ。またぼくの目を見ていう。椎名さんの意味深すぎる言動に、ぼくの精神は悲鳴をあげている。そんなことは絶対にありえないが、これじゃあまるで、椎名さんが、椎名さんがぼくのことを……
「人をスペックで好きになるなんて、つまらないと思わない?」
「え?」
椎名さんは唐突にそんなことを言った。
「神野くんだってさ、そりゃあ知能高いしスポーツもできる優等生だけど、それって、でも、それだけのことでしょ?」
「え……うーんと、そういう見方もあるのかな……」
教科書にでも出てきそうな正論を言う椎名さん。ぼくは彼女の言いたいことを察することができない。
「そうは言っても、何かに優れてる人ってのは魅力的だよ。もちろん容姿がいい人もね。人柄だって、そうだ」
「ねえ、高次くん。わたしは、一体どんな人を好きになると思う?」
「えっと……」
最初に思い浮かぶのはやはり、神野くんだった。神野くん神野くん神野くん、ぼくは馬鹿のひとつ覚えみたいに神野くんを優れた人の代表たる存在として取り上げる。
けど、分からない。正直、椎名さんが好きになれる人なんていないんじゃないかって思える。だって、彼女の前には神野くんですら霞まざるを得ない。
「わたしは今、わたしについて正確な話をしたいから……ちょっと嫌みな言い方になるけど、わたしって、ほら、何でも持ってるでしょう?」
「うん」
ぼくは即答する。ルックス、頭脳、成績、運動神経、人格、魅力、人気。彼女はすべてを備えていると言っていいだろう。だからあんなに心酔者が出るのだ。
「そのわたしは、じゃあどんな人を好きになりえると思う? 他の人が持ってるもの、何だって持っているようなものなのに、この上何を求めればいいと思う? わたしってどんなことにときめくと思う?」
単純なように見えて――難しい質問だった。言われてみると、彼女がどんな人を好きになったら自然なのか、想像もつかない。そう、彼女はたった一人ですでに完成され過ぎてしまっている節がある。
「ぼくには分からない心境だけど、椎名さんは……自分と同格な人間がいなくって、孤独だ、ってこと?」
「ところがそうではないし、わたしはそこまで自惚れ屋でもない」
「ちがうの?」
「人をランク付けしたり、そのてっぺんあたりにわたしを置いちゃったりしているのは、みんなであってわたしではないわ。本当はわたしだって、みんなと同じ、一人では何もできないただの人間だってこと、わたし自身が一番よく分かってるしね。女神様なんて冗談みたいな呼ばれ方が、笑えないんだから始末が悪い。ここは、みんなが本気になりすぎて怖いところだよね」
椎名さんもまた、みんなと同じ一人の人間。言葉で言えばそうだ。だけど、それは……椎名さんだからこそ言えることなんじゃないのか。ほかの人が言ったら、どう転んだってやっかみにしかならないんじゃないのか。
「わたしはね、見るよ。人を、丁寧に見るよ。さっきも言ったスペックなんてのは、外面的な、誰にでも一瞬で分かるものでしょ? だから人気に反映されるんだってだけのことでしょ? だけど真実の宝石は、いつだって奥底に隠されている」
そんなことを言う。
「高次くん」
ぽつりと呼ばれて、気づく。椎名さんは、ぼくを名前で呼んでいる。たっぷりと間を置いた後、椎名さんは、珍しいことに一度だけ目をそらして、そして――
「高次くん、わたしはね。きみのことが――」
ソノ先ニ進ンダラ、モウ二度と引キカエセナイ――
わああああああああああああああ!!
「ごめんぼくもう帰るから!」
ぼくは……逃げた。椎名さんから逃げた。臆面もなく、逃げた。
ぼくの家の前で、ぼくに向かって何かを言い出そうとした彼女を置いて、ぼくはあろうことか、そのまま玄関に飛び込んで、階段を駆け上がり、自分の部屋に籠もってしまった。
どうにもならない。
どうにもできない。
勘違いじゃない。あの流れはさすがにもう確定だ。とんでもない。どうしようもない。あれは、あれは。椎名さんは、ぼくを、ぼくのことを……
食オウトシテイタ。
違和感。何? 食べる? 何のこと? 比喩? けどそれが、確かにぼくにとって一番しっくりくる表現だ。
愛の告白? 「きみのことが、好きです?」
馬鹿な。そんな生やさしいものじゃない。あれはもっと、恐ろしいものだ。ぼくには大きすぎるものだ。椎名さんは、そんなことを言う人なんかじゃない。何も、椎名さんに対して幻想があって言ってるんじゃない。彼女が他人を心から求め訳がないんだ。
なぜ?
ぼくにはなぜそれが、「分かってる」の?
分からない。しかし朝に太陽が必ず昇ってくることを、まだ新しい朝を見てもいないのに確信できるのと同様に、ぼくは、彼女が、とてつもない何かであると確信していた。
窓。そのカーテン。
怖くて開けられない。もしかしたら、まだ椎名さんがそこに待っているかも知れないと思うと。外を覗いたぼくと、目が合ってしまうかと思うと――
ぼくはそのカーテンを開ける気にはなれなかった。
椎名さんは聞くだろうか。
なんで?
ねえ、なんで?
ぼくだって分からない。
なんで?
なんで、あんな素敵な人が、もしかしたらぼくに、とても大切なことを伝えてくれようとしているのかも知れなかったというのに、なんで、ぼくは……
なんで、逃げたの?
☆
<椎名里桜>
すべて見抜かれている。
高次くんの直感だけは、騙し仰せることが出来ない。
それしかあり得ない。
「ちっ…………………………くしょう」
失敗。
成功を当然の自負としてきた自分には、あまりにも希な体験。
思わず、逃がした魚のいる位置、すなわち、山本高次のいる部屋の窓を見つめてしまう。彼が今、そこから顔を出すことは決してないと分かっていながら。
わたしは、三十分ほど立ち尽くして、ようやく自分のコントロールをわずかだけ取り戻して、ゾンビのようにふらふらと帰る。
しくじった。取り逃した。
その失意が胸を支配して、どうにも思考がまとまらない。我知らず握りしめた手が、その指の先にのばした爪が、手のひらに食い込んで血をにじませる。
ちくしょう。
クソったれ。地獄に墜ちろ。苦しめ。死ね。根絶やしになれ。消し炭になれ。物言わぬ屍になれ。
呪詛を繰り返してわたしは自分を諫める。
☆
つづく