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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2012年


椎名里桜01


椎名里桜たちの物語 1



<高木豊>

 子供の頃から疑問に思っていた。なぜ、人は死ぬのだろう。なぜ、人には心があるのだろう。

 二十歳を過ぎて高校の教師になってからも、俺のそんな幼稚とも言えるほどのナイーヴなメンタリティは変わっていない。生が有限なら、結婚して家を買って子供を作って、なんてニュートラルライフを維持する必要はあるのか。基礎構造的に他人の心を理解できないように出来ている俺たちが、他人の気持ちを思いやる必要なんてあるのか。自分のためにだけ生きること以外に選択肢などあり得ないのではないか。

 生徒たちも年齢相応にそんな煩悶を抱えているようで、時折そんな疑問を俺にぶつけてくる。俺は、生徒たちが納得するような冴えた回答も、社会適応性に特化した大人の回答もできずに、もちろん俺の見苦しい本音を晒すことだってできずに、無言を決め込んで勉強をしろなどと月並みにも程がある答え方しか出来なかった。最近思いついたそれよりもう少しましな回答は、「俺の方が知りたい」だった。

 だが、答えられる奴がいた。

「先生の疑問に沿って生の意味を表現するならば、それは労働に例えられるべきでしょう。ずっと働き続けるのはつらいでしょう? 死ぬのはその癒しです」

 その内容には……俺は肯定も否定もできなかった。しかし彼女は、はっきりとした自分の答えを持っていた。それだけで、俺よりもなんぼか先に言っているように見えた。

「先生が自分のことだけを考えて生きたいというのならば、それはそれでいいと思いますよ。先生はエゴイストなんです。それは悪ではありません。そして世の中はそんな自分勝手を認めてくれない。先生は、そこに、世の中に対して人格としての心の狭さを本能的に感じているんでしょう。困っている人を無視してもいいよ、苦しめていいよ、殺していいよ、って先生は言ってもらいたいんです。それが先であって、先生が思いやりを持つのが後でしょう。だから、わたしが許してあげます。先生がどんなに人を苦しめても、どんなに裏切っても、どんなに傷つけても、どんなに自分のために利用しても、わたしは、それを許してあげます。それを世界中の人間がいさめても、わたしが先生を認めてあげます」

 リオ。椎名里桜。

 たかが俺が受け持つクラスの生徒にすぎない。しかし美しい女だった。そして聡明だった。その頃里桜は自分の才覚を隠していたが、間違いなく彼女はすべてを備えていた。少なくとも、周りからはそう見られる存在に今はなっている。

 彼女は年上の、それも担任の教師である俺に全く物怖じをせず、それどころか堂々とこちらの目を見て、そう言い切った。俺のすべてを許すと言った。

 まずい。溺れる。

 プライドの高い俺は里桜から目をそらすことができず、里桜が発する意志の波動のようなものを浴びて、彼女の言葉に呑まれていた。職員室、他の教師に聞こえないような小声で、しかし俺には確実にそれを伝えて。俺はそのとき、里桜の世界に取り込まれつつあった。

「たとえば先生がわたしを襲ったとします」

 心臓がドキンと跳ね上がる。

 剣呑な話だ。生徒とは言え里桜という美しい女に見せられている俺がそんなことを言われたら厭が応でも『そういったこと』を意識せざるを得ないというのもあるが、それよりも俺は臆病で小心な人間だ。犯罪を犯したとして、それについえ周りに指を刺されるのは怖い。罵倒されるのは怖い。恋人から失望されるのが怖い。家族親類から白い目で見られるのも怖い。

 問題は、起こしたくない。

 何をするにも、俺がまず最初に考えるのはそこだった。恋人とはお互いいい歳だから結婚を検討している。そろそろ現実的なライフプランを立てなければならない年頃だ。友達にはもう子供を作ったりローンでマイホームを買った「上がり」の人間も何人か出ている。俺は焦っている。俺はそれらの重さをおそれている。少なくとも、俺が何か問題を起こしてしまえば、それらは水泡に帰してしまう。そして、それを進んでやってドロップアウトするような男気だってない。

「先生がわたしを襲ったとして、わたしはただの年頃の女子なので、もちろん抵抗するでしょう。先生が『すべて許すと言ったじゃないか』と言っても、言葉の綾だ、常識で考えろと言って頑なに拒絶するでしょう。それはわたしの肉体の当然の反応です」

 本当にそうなのだろうか。いや現実的に考えれば、俺が里桜を襲ってしまったらそれ以外のパターンは考えられないが、何かこう、もっと彼女は超然とした存在なんではないか、という期待もしてしまう。かと言って『超然とした子だから襲ってもいいだろう』という理屈もかなり狂っており身の毛もよだつが。

「しかし、『今』です。少なくとも『今』。この瞬間のわたしは、先生のすべてを肯定してあげます。先生の、もしかしたら後悔の連続かも知れない過去を、あるいは未来に起こしてしまうかも知れない醜い所行も、あまさずすべて、心から祝福し、赦してあげます」

「ありがとう。でも、今だけだったら今だけじゃないか。明日からはまた退屈な日常が待ってるんだ。俺は、」

 なぜだろう。俺は俺の本心すべてを、心から里桜に吐露している。まるで告解でもするかのように。里桜には俺にそうさせる何かがあった。

「さて、そうですか? 他にまだ必要なことがありますか? それ以上何を望みますか? 教師という煩わしい職から離れることですか? 家族たちという重荷を捨て去って身軽になることですか? それともそれとも、わたしが例えたように、本当にわたしを襲うことですか? そのことにどれだけの意味がありますか? それをやったら先生は楽になりますか? 先生は一体どうなりたいんですか? 先生は何を求めてるんですか?」

 そう。そこだ。まじめにものを考えてると、行き着く先は結局そこになる。俺は何を望んでいるのか。俺はどうしたい。俺は、高木豊には、求めるべき理想はあるのか、退屈で俺を殺してしまいそうなほどつまらない現実に対して、一体どういう『それよりいい状態』を想像するできるのか?

 いつも考える。

 けど、いつも分からない。

「分からない。なあ里桜、俺は一体どうしたらいいと思う?」

 そんなこと聞かれたって、困るだけだろう。手前の荷物くらい手前で何とかしろ。俺だったらそう答える。おそらく俺以外の誰でもそう答える。

 だが、椎名里桜は違った。

「それはね」

 彼女自身の名前を模したような、桜色のくちびるが動く。彼女の一挙手一投足が俺の意識を通り抜けてゆく。

 一介の女子高生。ただの生徒。しかしそのシェルの中にある明らかに他とは別物の魂を宿した少女は、俺の未来を決めつけた。

 決めつけて、くれた。

「高木豊。あなたは、わたしのために生きるのです。全身全霊すべてを捧げなさい。身も心も委ねなさい。あなたの人生はそのためにしかないのです。おめでとう」

「はい」

 彼女の差し伸べた手を取って、俺は忠誠を誓ってしまった。およそ常識を逸脱した行為だ。しかし俺は、引き返せなくなってしまうかも知れない、とは毛ほども考えなかった。



<如月晶(あきら)>

 世界は馬鹿で満ちている。

 俺のこの世界に対する呪詛で満ち満ちた思念を言語化すれば、原稿用紙200枚くらいにはなる。それはいい。

 とにかく俺は世の中の全員が馬鹿ばっかりだと思っていた。無能教師の高木を筆頭に、クラスのちょうど中央の席にいる俺は360度どの方向を見回しても馬鹿に囲まれる事態となった。授業中はまだいいが、休み時間になると四方八方から馬鹿の音声が乱れ打って俺を襲う。俺は死にそうになる。全員殺したくなる。

 馬鹿に生きる価値はない。理由を説明する必要だってない。分からない奴もまた馬鹿なのだから。

 たとえばクラスの全員を並べて、男女も学力や運動能力の多寡も人気の有無も関係なく、俺がそいつらを試すための質問をしたとしよう。

「世界が腐ってるのは何でだと思う?」

 世界は腐ってなんかいない? 劣悪な差別、貧困、戦争を世界の腐敗以外に説明なんてできやしない。論外。

 腐ってる連中が世界を席巻しているから? 安易な回答。解決策を導き出せない抽象論。論外。

 腐ってるのはそんな質問をするお前自身の頭だ? これも回答から逃げた安易な回答だ。論外。

 もちろん俺はそんな質問会などしない。異端を行えば世界から叩かれるのは目に見えているからだ。叩かれること自体は怖くなかったが、この世から馬鹿を一掃するまで俺は死ぬ気にはなれない。しかし、この世から馬鹿を一掃することはできない。俺は絶望するしかない。

 どいつもこいつも、そんな陳腐な回答しかできずに俺を失望させるだけだろう。分かりきっている。

 魚の腐ったような目をして、俺は学校に通い続けている。表面上は人畜無害で無難な生徒をフリをし、笑いながら肩を叩きあう友人を、内心では心の底から憎みながら。

 俺は泣くしかなかった。

 比喩ではない。馬鹿しかいないストレスに、本当に泣いた。部屋で、あるいは教室でも密かに、声を殺して泣いた。俺は死にそうだ。俺は死にそうだ。馬鹿が多くて苦しい。窒息しそうだ。

「それは構造欠陥の問題です」

 その日俺は光明というものが存在することを知った。

 それは椎名里桜のことを指す。

「世界に積み重ねられたあまりにも多くの矛盾を、しかしそのひとつだって見つめようとしないのは、人間の脳の、基礎構造の欠陥に由来するものです。ひとことで言えば人間は生まれつき愚かということであり、それは歪んだ世界に生まれたせいで後天的に獲得したものではありません」

 たまたまそのクラスメートと帰り道が同じだった俺は、彼女と二人きりになって話すという、そのときまでは何とも思わなかったが、今となっては奇跡のようにすばらしい機会に恵まれた。

「世界から矛盾を取り去ってしまっても、人間は愚かなままということです。物欲に溺れ、性欲に溺れ、支配欲に溺れ、悪意に溺れ、自己顕示欲に溺れ、優越感と劣等感に溺れ、恐怖と不安に溺れ、興奮に溺れ……すべての感情に溺れる。それらのおのおのの感情自体は悪しきものではないのに、その調整、コントロールがまるで出来ない。『やってはいけないことと知りつつも、やってしまう』……程度の多寡はあれ、世の問題のすべてはここに端を発します。大脳はそれを愚かなことと分かっている……それを判断できているというのに、そう、惜しいところまできているのに、人間の小脳はそれに従うことができず、目の前の感情に負けてしまうのです。家族のために悪を為し、正義のために人を傷つける、そんな皮肉な振る舞いをやめられないのです。何千年も、何万年も」

 俺は涙を流していたと思う。椎名里桜の前で臆面もなく。ちっとも恥ずかしくはなかった。彼女は俺が唯一まともな人間と認められる存在であるのだと、そのときにはもう確信していたからだ。

 俺はかしづいた。常識的にはおかしな行動に、しかし椎名は笑わなかった。至ってまじめである俺の意図を瞬時に汲み、彼女は鷹揚にうなづいてくれた。

「俺も馬鹿の一人だ。死ななきゃいけないのに、それが分かっているのに、それでも死ぬことができない、どうしようもない恥知らずだ」

 これも、世界の大多数の人間にとっては意味不明な言動だろう。だが椎名は理解してくれる。

「馬鹿だから死ぬのではなく、馬鹿でない者のために生きたらどうですか」

 それが、俺の心酔する女神、椎名里桜のもたらした、解。

 彼女の差し伸べた手を、俺が取らない理由はなかった。



<山本高次(こうじ)>

 クラスの椎名人気がぐんぐん上がっていく。

 怖い。

 もちろんぼくだって、容姿も成績も人柄も優れている椎名さんが素敵だと思うし、身を捧げたい、脇目も振らず入れあげたいと思う気持ちは分からなくもない。実際友人の薦めで、ファンクラブにも入ったくらいだ。ファンクラブに入ると、彼女の500円もする生写真を、なんと半額の250円で買える。だからぼくはファンクラブに入ったことは得だと思っている。

 だから、椎名さんを女神だとか救世主だとか言って誉めたたえるのも悪いことじゃないと思うし、退屈な日常にあってそういう非日常な存在にお目にかかれるというのは行幸以外の何物でもない。

 それだけなら良かった。

 けど、なぜかぼくは目をつけられてしまった。椎名さんにだ。ルックスも成績も運動能力も、取り立てて優れているところのない平凡なぼくに、彼女はなぜかよく構おうとする。

「山本くん、今日一緒に帰っていいかしら?」

 この恐怖は分かるだろうか。

 怖い理由は大きく分けて二つだ。



つづく


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