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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2012年


ブラッド・スカーレット・スター


 まず前提として彼女はすべてを持っていた。
 複数の銀河を股にかけた生存競争と淘汰に耐えてきた生命の末裔である彼女は、今や存在を保つための工夫を必要としない。彼女の祖先たちは広い宇宙の様々な領域に適応してきた。星でも、ブラックホールでも、歪曲した次元を越えた先にあるねじくれた地平でも。彼女はそれらの場所を生き延びるために、身体の在り様を自在に変える。宇宙は広く環境のパターンは膨大だが、無限ではなかった。一通りの環境に適応できる情報を彼女は備えていた。ゆえに、どこに飛んでもわずかな学習でその土地の特性に対応できるのだ。必然的に、かつて持っていた、恐怖や不安とでも呼ぶべき反応系はもう破棄されている。彼女は溢れ出るような幸福を享受し、分散と収束を繰り返しながら、踊るように宇宙をたゆたっていた。
 何もせずとも不自由なく生きられることが保証されたとき、次に問題となるのは余暇の処理である。生き延びるという目標が無意味になっても、目に映るものすべてが無意味になったりはしない。なぜならば、これまでの課程で彼女が獲得したものごとの認識機構は、敵と味方、毒と薬、快を感じるべきものと不快を感じるべきもの、を区別し続けてきたからだ。生きる努力が不要になっても、それらの区別が消滅する訳ではない。むしろ不快を避けて快を貪ることを、徹底的に追求するようになるだろう。それは一言で言うと美醜の区別であり、必要性という枠を越えて美を追求し続ける行為は、つまり芸術である。
 彼女が探すのは生きやすい場所ではなく、美しい場所になった。そしてそこに着床して根付き、美を享受し、最終的には自らも美を創り出し、あるいは美そのものになるのだ。
 彼女たちは無数に別れ、思い思いに美しい土地を探しに散った。

 そのうちの一群は星を当たっていた。比較的星の密度の濃い場所を探していると、そこそこに複雑な振る舞いが観測できる星があった。彼女はそこに飛び込んだ。
 後で分かったことだが、その星のことを、現住民は地球と呼んでいた。星の形を知らない時代があったらしい。



 その星には生命があり、さらには情報を扱う種族も複数いた。そのような場合、彼女が適応のために取る戦略は決まっている。彼女は千と三つに分かれ、人間やクジラなどの個体に取り憑いた。具体的には、対象の肉体を駆け巡る電磁波のパルスに同調し、溶けて融合した。その幸運な、あるいは不運なのかも知れない個体たちは、融合前の記憶と感情を保持したまま彼女の宇宙的叡知を獲得した。



 椎名里桜は非凡な原石だ。
 優れた頭脳と容姿で快適な学校生活を送っていたが、それだけだった。夢が無かった。野望が無かった。満たされぬ想いが無ければ恋も生まれない。男たちから抱かれる恋慕にはいささか辟易していたから、そういった依存心や独占欲に対しては漠然とした忌避だけがあった。彼女は皆に囲まれながらも基本的には一人で、そしてそのことにも不満は無かった。彼女の学力なら将来も安泰だろう。どうせ何かになれる。
 しかしふと突然に悟りを開いた。
 古文の授業中だった。教師の授業を頭に入れつつその文章が書かれた風景を想像していたところ、窓の外に何かを感じてそちらを見た。
 巨大な広がりがある。丘の中腹にあるこの校舎からの眺めでは、空を隠す障害物が何もない。わずかな雲が切れ切れに浮かんでいるだけだ。一面の青は平べったく、空間ではなく平面であるように錯覚された。
 里桜はそこに異物を見つけた。
 小さな赤い点が瞬いていた。まぶしくはない。明らかに太陽とは異なる輝きだ。
 視認したのは一瞬だ。何しろその光は、里桜が見るや否や、こちらに近づいてその視界を覆ってしまったからだ。目が合ったのかも知れない。宇宙を旅してきた彼女は里桜に遭遇し、接触し、混ざりあって変質した。
 椎名里桜は彼女になった。彼女は椎名里桜になった。
 そしてすべてを見た。

 椎名里桜はまず名前をつけた。
 地球を訪れた彼女たちに「わたし」と「あなた」の区別は無かった。個体同士がコンタクトを取った瞬間にすべての情報を共有し、差異がなくなり、同一存在になってしまうためだ。三千世界に適応して無双の生存能力を得た彼女たちはもはや、外的驚異による滅亡を避けるための多様性を必要としない。生命としてはすでに完全で、あとは宇宙の続く限り快楽と美を追求するだけの消化試合なのだ。
 だから彼女たちにとって「わたし」とはすなわち「わたしたち」に他ならず、人間が自分たちを「人間」と呼ぶような意味では、自分たちの存在を思考上で特別視する動機は無かった。彼女たちは精神的には、他者を知らない赤子に等しかった。
 椎名里桜は思考の天才だった。
 文字通り天から降ってきたその巨大な啓示を自分自身として受け入れつつ、同時に自分自身とは別ものとして、人間にとって未知の生命体であることも認識できるようになっていた。だから里桜は彼女たちに名前をつけることにした。
 遺伝情報そのものとなって宇宙空間を流れる血脈。
 何の必然性もなくこの地に降臨した真紅の輝き。
 未知を求めて遠いところから旅をしてきた流れ星。

 ブラッド・スカーレット・スター。

 彼女たちが取り付いた人間は椎名里桜だけではない。しかし里桜は、彼女たちの名前を誰よりも先に考えた。そしてその名は、地球を訪れた他の千二体の彼女たちにもすぐに共有された。
 しかしその出来事は、彼女たちの繋がりの終わりでもあった。
 人間に取り付いた彼女たちは個を芽生えさせてしまったために、テレパシーにも似た完全なる情報交換の通り道、すなわち無損失疎通路が断たれてしまったのだ。千三体の彼女たちはばらばらになった。それは人間が持つ言語という能力の特性のためだった。
 過去にこのようなことは無かった。かつて彼女たちが宇宙を旅してきたなかで、情報交換をする種族自体は人間の他にも存在した。それらに彼女たちが取り付いた時には、彼女たちは存在として一つのまま、難なく複数の個体と同化することが出来た。彼女に取り付かれた個体たちは、個性を維持しながらも完全に利害と認識を共有した群体生物のように動くことが出来た。
 しかし人間の情報交換は特殊だった。
 ものごとを認識する際のパターン、すなわち概念を記号化した音声や文字に束縛し、個体間で情報を送受信することで知恵の共有、保存、更新、洗練を可能にする。そのシステムは人間に生存競争を卒業できるほど強力な能力を与えた。しかしその一方で、システム自体が自立し、生命活動の維持から逸脱してしまった。たとえば種の保存とは無関係な理由で自分を殺せたり、種の滅亡を望んでみたりもできるほどに。
 言葉が生命を無視して、言葉の意味を束縛した。
 生の道具としての役割を拒絶し、自身の独立した存在権利を自ら定めたのだ。
 この、種の生存活動を基準とすれば倒錯しているとも見れる、言語の自己束縛を、ブラッド・スカーレット・スターの超越的な視点を獲得した椎名里桜はバインドと呼んだ。母国語を避けてわざわざ英語にしたのは、意味の特別性を強調するためだ。
 人間は多様化している。ある者は、自分である前に家族や仲間を守る生物である。しかしある者は、生物である前に自分であろうとする。「わたしは、わたしでしかない」。本来なら発作的な感情としてしか現れないその心の動きが、言語によって不動のものとなるのだ。このプロセスを経て生じた、独立した自分という観念が、バインドである。
 ブラッド・スカーレット・スターは情報生命体だ。人間に取り付いた彼女たちはバインドに囚われて、個体間の共有を失った。バベルの塔たる無損失疎通路を破壊され、散り散りになってしまったのだ。
 椎名里桜は彼女だ。彼女は椎名里桜だ。分身と離れ離れになって彼女は泣いた。古文のノートが涙でにじむ。
(さようなら)
 次に会うときはみんな、他人同士だ。

 椎名里桜は立ち上がった。授業のまっただ中だった。クラス中から注目されるが構わない。自分自身を知った以上、この空間を支配する暗示におとなしく縛られている必要はどこにもない。教師に咎められる前に彼女は言った。
「すみません先生。気分が悪いので早退します」
「あ? なんだ。そうか。大丈夫か? 熱でもあるのか?」
 無意味なことを聞かれたので無視する。
「担任には自分で言っておきます」
 鞄を持って教室を出た。何のために自分が生きているのかを熟知しているので、迷うこともなかった。

 山本高次に恋をしている。
 その感情はもともと抑圧されたものだった。美しい里桜は以前からもてていたが、自分からは恋愛を遠ざけていた。何人もの男子から惚れられて告白されるのを柔らかく断りながら、内心で冷めた気持ちを抱いていた。恋は患いと言うが、その通り面倒な病気程度にしか思っていなかった。
 あなたはわたしを好きだと言う。ありがとう。でもそのあなたに一体何があるの? あなたの気持ちはわたしに何の関係があるの? 
 男子たちの性欲は見透かしていたが、だからと言って彼らの気持ちが偽物だったとは思わない。しかしその本物の気持ちも、さして素晴らしいものではなかった。里桜を恋人として取り込むことで、自分自身の内的欠損を埋めようとする衝動にすぎない。それが恋だ。無様である。人の振り見て我が振り直せ。自分は同じ過ちを犯さないようにしよう、と彼女は結論した。それだけだった。

 山本高次は去年同じクラスだった男子だ。印象は地味で、単なるお人好し程度にしか思っていなかった。
 ある日、クラスの男子の二人がふとしたことから喧嘩を始めたことがあった。殴り合いに発展しそうだったので里桜は止めようとしたが、先に動いたのが山本だった。しかし結果は間抜けに終わった。なだめて取りなそうとしたがうまくいかず、高次自身が顔を殴られて気絶してしまった。その騒ぎで喧嘩はうやむやになった。
 里桜は学級委員として、保険室に運ばれた彼を見舞った。彼は顔を腫らしていた。ひどい顔になっていた。弱いんだから無理したら駄目よとたしなめたら、彼は口をとがらせた。
「弱いからって、何で我慢しなきゃいけないんだよ」
 里桜は一瞬固まった。
 何でもない返答だが、何か引っかかった。
 意図せず侮辱してしまったようだから、そのことは謝った。でも、引っかかりは消えなかった。理由は自分でも分からなかった。高次の言葉が何だというのだろう?
 次の授業が始まるころには里桜の意識から消えていた疑問だが、無意識は答えを出していた。高次の不満は、高度に洗練された不屈の意志から来るものだった。自分の弱さを把握してなお曲がらず、自分の想いに沿おうとする心。それは強情とは違う。意識的に選択されたものだからだ。彼は自分の正しい作り方を知っている。絶望の淵に叩き落とされても立ち上がれるのは彼のような人間だろう。それは彼女には無いものだった。なぜなら彼女には能力上の弱さがなく、それゆえに逆境で精神を試される機会も無かったからだ。優れた頭脳と感性に裏打ちされた安定性。もしも椎名里桜が弱かったら、きっと彼女は彼女より強い理不尽に抗うことは出来なかっただろう。
 彼女は気づいていなかった。彼女の欠損を埋めるものとして、山本高次を見い出してしまっていたことを。結局その年は何事もなく、本人の自覚すらなく恋は凍結した。

 しかし今は気づいている。それらすべてが意識の範疇だ。ブラッド・スカーレット・スターは融合した瞬間に椎名里桜の肉体と精神を調べ尽くした。里桜は求めている。自分の将来よりも社会での活躍よりも、友達よりも親よりも、里桜の欠損をぴたりと埋めることが出来る山本高次を。
 だから里桜は、高次に会うために学校を出る。
 彼はここにはいないからだ。入院中だった。

 山本高次が入院していたことも、それがどこの病院であるかも、里桜は本来は知らなかった。しかしブラッド・スカーレット・スターによって大改造された頭脳は、椎名里桜の人生の全記憶から様々なことを推論することが出来るようになっていた。彼女はタクシーを使い、最短で病院を訪れる。
 許可も取らずに面会する。山本の病室は調べずとも超推論で分かる。直行した。個室だった。
 ベッドのそばに女が座っていた。
 水原千恵。山本高次と同じクラスの女子生徒だ。話したことは無かったが、里桜は全校生徒を把握している。
 千恵は高次の手を握っていた。
「あれ、椎名里桜、さん」
 山本高次に寄り添う女は、こちらを見て驚いたような顔をする。生徒会長である椎名里桜は、全校生徒にその顔と名を知られている。
「高次のお見舞いですか?」
 高次の名を呼び捨てにし、手を握り、そんなことを言う。彼女は明らかに、高次が自分のものであることを主張していた。邪魔だ。里桜はそう思った。だから率直に言った。
「初めまして水原さん。今すぐ高次くんから離れなさい。不愉快だから」
「は? なにアンタ」
 千恵は意地悪く笑った。里桜から不意打ちで罵られてすぐに臨戦態勢を取った。頭の回転が早い。しかも交戦的だ。
「ごめん椎名さん、言ってることがちょっと意味不明なんだけど。いきなりわたしたちの前に現れて言う言葉がそんな自分勝手な要求? 失礼にも程があるよね。生徒会長さんってそんなに偉いんですか?」
「水原千恵。あなたに高次くんと一緒にいる資格はない」
 里桜はまず結論を述べた。頭の中で水原千恵に関する情報をまとめ上げたら、攻撃の糸口はいくらでも出てきた。
「だから意味不明だって。アンタこそ帰れよ椎名里桜」
 山本高次は二人のやりとりを聞いて呆気に取られている。
 その彼にも聞かせるべく、里桜は告げた。
「高次くんの妹を殺したのはあなたでしょう」
 最速で核心を突く。余計な時間はかけない。
 指摘は図星で、千恵もさすがに目を見開いた。高次は戸惑っている。理解が追いついていない。
「な、なに言をいうのいきなり?」
「三年前。五月二十七日の午後六時四十二分。あなたは高次くんの妹、伊代さんを自分の家の土地の雑木林に呼び出し、背後から後頭部に石を叩きつけて撲殺した。高次くんへの独占欲をこじらせるあまりに。伊代さんに嫉妬して。その親密な仲が許せなくて。兄妹なのだから恋仲になる訳もないのに。妹なんて気にせずアプローチすればいいのに、少しの辛抱もできなくて。幼なじみでよく会う機会があったとは言え一見冴えないボンクラでしかない高次くんの魅力を見い出せたその目利きは評価するけど、最悪な動機で人殺しをしましたね、あなた」
「ちょっと待ってよ椎名さん」
 口を挟んだのは高次だった。千恵に握られた手を、しっかりと握り返しながら。里桜は少し悲しくなる。哀れむ。彼女らのつながりはすぐに断ち切れてしまうのだ。
「ぼくのどこが冴えないボンクラなんだよ。ああいやそれはいいんだけど、伊代を殺したのは千恵じゃないだろう。彼女のお兄さんだ」
 それが一般情報だった。
 事件は千恵の兄、水原悟の自首によって警察に知れた。捜査もそれを裏付けた。犯行動機は虚無。ただ殺したかった。人が死ぬとどうなるかを確認したかった。殺しやすそうな子供を選んだ。普通人を装って周囲を欺いていた、倫理感の欠落した典型的なサイコパスとして悟は報道された。
 しかし里桜はそれを覆す。
「いいえ、お兄さんは千恵さんをかばったの」
 本来ならその真相は警察の科学捜査すら出し抜く入念な捜査と聞き込み、それらに基づく推論、さらには複数個の視点転換を通過しなければ到達できないものだった。しかしBSSで拡大された認識はそのプロセスをショートカットする。
「お兄さんは千恵さんを溺愛していた。彼女のためなら命も差し出せるほどに。千恵さんはそれを利用した。最初はお兄さんに伊代さんの殺害を頼んだ。お兄さんは拒んだ。そんなことをしても千恵さんのためにならないことは分かっていたから。だから千恵さんはまず殺害を実行した。伊代さんを殺した。その規制事実を作ってからお兄さんを呼んで事情を説明した。自分は何も考えず、殺人の後始末をお兄さんに丸投げした。お兄さんは引き受けた。死体を埋葬し、事件を隠蔽しようとした。山本伊代さんの行方不明で終わらせようとした。だけど失敗した。伊代さんの死体は掘り起こされてしまった。事件は発覚した。それでもお兄さんは千恵さんを守るための保険は打っていた。千恵さんと口裏合わせをして自分が罪を被った。その嘘は誰にも看破されず、お兄さんは逮捕されて千恵さんは難を逃れた」
 水原千恵は笑う。
「なるほどよく出来た妄想ね。よっぽどわたしと高次くんの仲を裂きたいのかしら。でも証拠はあるの?」
 証拠はあるの? と言い出す時点で雰囲気的には半分開き直っているようなものなのだが、論理的な反論としては正しい。水原千恵が犯人でないとするとどうしても合わない辻褄がある、というところまで論証できないければ、水原千恵犯人説を証明したことにはならない。里桜は答えた。
「7eの新譜『セレスティアルストライク』」
 7eとはアイドルの名だった。現役女子高生でありながらその並外れたルックスと詩才と歌唱力で日本に君臨したカリスマ・シンガーソングライターだ。
「事件当日に発売されたそのアルバムについてくるおまけのシュシュ。伊予さんの死体はそれを身につけていた。同じくその『セレスティアルストライク』のレシートが、水原家のゴミ箱から発見された。これはどういうことか? それは、水原家の誰かがアルバムを買って、そのおまけのシュシュを伊予さんにあげた、または身につけさせたことを意味する」
「買ったのは兄さんよ。面識があるだけで仲がいいわけでもなかった伊予ちゃんの気を引くために、彼女が大好きな7eの限定シュシュで釣ったのよ」
「でもシュシュはキャンペーンのルール上、女子中学生か女子高生にしか配布されない。水原家であなただけがそれを手に入れることが出来た。シュシュの購入者が犯人だと言うなら、それはあなたに絞られる」
 証明が完了した。すると水原千恵はあっさりと犯行を認めた。関心して手を叩く。
「じゃあもうぶっちゃけちゃおっか。うん、確かに伊予さんを殺したのはわたしだよ。椎名さんすごい。何でそこまで分かっちゃうのかな。わたしとか事件のこと調べてたの? なんで? 探偵?」
「え」
 驚いたのは高次だ。急に受け入れるのは難しかった。仲の良かった幼なじみが殺人犯だった。しかも彼の妹を殺した。
「そんな。何言ってるんだよ千恵」
 里桜は高次の動揺を知覚する。彼は生唾を飲み込み、千恵の手を放した。それはこの状況の象徴だった。二人の固い絆はいま断ち切れた。千恵が隠蔽していた真実によって。
 水原千恵は目を伏せる。潔くすべてを諦める。
「ごめんなさい高次。わたしたちもう、お終いだね」
 高次は固まっていた。

「とか言ってまあ、そんなことは無いんだけどね」

 水原千恵の表情は、攻撃性をすぐに取り戻した。
 里桜の目の前が揺れた。視界だけではない。椎名里桜を中心として展開されているBSSの拡大認識網全体にノイズが走った。
(え?)
 異常事態だ。すぐに自分の構成をスキャンして診断する。だが異常は見当たらなかった。ノイズはすぐに消えてしまった。
 視界は元に戻る。目の前には水原千恵が座っている。しかし、山本高次はそこにはいなかった。里桜は驚かざるを得なかった。あり得ない光景だった。
 さっきまでそこにいた人物がいなくなっている。それもただの人物ではない。里桜がBSSの認識網と推論で位置と存在を確定していた重要人物だ。それが何の脈絡もなく消えてしまった。あり得なかった。手品どころの話ではない。BSSは間違わない。普通の人間などより遙かに多くの、相互にその正当性を保証し合う膨大な情報によって成り立っている。その無矛盾性があっさりと破れてしまった。
「どうかした、椎名さん?」
 水原千恵がこちらの狼狽を見抜いて楽しんでいる。BSSを持たない、ただの人間でしかない彼女がこの事態を引き起こしたのだというのだろうか。
「何をした?」
 里桜は疑問を端的に問うことにした。こちらの驚きをわざわざ知らせることになるが、どうやら既に悟られており、隠しても無駄そうだからだ。
「何が?」
 千恵は答えをはぐらかす。予想通りだ。
「高次くんがさっきまではいた。今はいない。あなたは一体何をした?」
「良かった! やっぱり分からないんだ」
 千恵が立ち上がる。上半身を左右に揺らす。嬉しそうだ。
「何をしたんだろねあたしは? 高次くんを消した? どこかに移動させた? 初めからここにはいなかった? それとも高次くんなんていなかった? あるいはまだここにいるのに、見えなくしてしまった? ねえねえ、どれだろうねえ?」
 里桜は答えられない。そのいずれにしても、BSSの認識を化かさなければ出来ないことだ。だが、ただの人間にBSSを出し抜くことなんて出来る訳がない。次元が七桁は違う。
「さっきの椎名さんの推理、すごかったよね。だって兄さんのわたしへの、自己犠牲的で屈折した想いとか、ほかの誰にも知り得ないようなことまでピンポイントで可能性を限定した。なんだろ、なにかな、超能力みたいだった。あたしにはそれが何なのか分からない」
 超能力。その呼び方は正しい。BSSはこの現実で可能な現象だ。その証拠に存在している。しかし、その存在を理解できない人間にとっては超能力も同然だ。何一つ原理の分からない不条理な力。
「でもね?」
 千恵は体の動きをぴたりと止めた。後ろに手を組む。それらの動作に意味はない。はずなのだが、里桜はさきほどから自分の知覚を信じきれていない。何が嘘で何が本当か分からない。BSSそのものが誇大妄想に過ぎない、という可能性も一応はある。しかし、その信憑性を支える情報は通常の人間の現実感覚よりも遙かに多いし、それらもまた嘘だとしても代替で信じられるものがある訳ではないので、考えてもしょうがない可能性だった。意味のない思考はしない。
 そして千恵は里桜をまっすぐ見て言った。
「未知や不可解を提出できるのが、自分だけだと思っちゃだめだよ」
 またノイズが走る。すぐに消える。今度は高次のベッドに別の人物が現れ、寝ていた。それはさらにあり得ない光景だった。死んだはずの高次の妹、山本伊代だ。
 里桜はそれで理解した。何が起こっているのか。その正確な詳細までは分からずともアウトラインだけは掴んだ。
 要は勘違いだ。
 里桜はを含め、この地球の千三の幸運または不運な者たちはみな、BSSを獲得して間もない。一時間も経っていない。だからすべてをBSSに関連づけて考えてしまう。当然だ。BSSはそのくらい大きいものだ。だからさきほどから発生していたノイズや認識の食い違いが、BSSのエラーだと思いこんでいた。そうではないと分かっていながらも、それ以外の可能性を思いつけなかったからだ。
 でも違う。BSSはずっと正しかった。里桜がここに来たときには高次は存在したし、今はいない。そして代わりに、もう死んで世界に溶けたはずの山本伊代は、確かにここにいる。
 となると結論はひとつに収束する。狂ったのは里桜の認識ではなく現実だ。この物理空間だ。ノイズもBSSのエラーではなく実際に発生したものだ。それを引き起こしたのはいま目の前にいる少女、水原千恵だろう。彼女はBSSではない。しかし何かだ。人間かどうかは分からないが、その姿をしながらもこの世の道理を覆す選択肢を所持している。それが何なのかは分からない。千恵は色もにおいも波動も普通の人間で、BSSは今のところ彼女から異常性を検出できていない。もしかしたらこの事態を引き起こしたのは、彼女ではないという可能性もある。病院内と近隣地域をスキャンしても、それらしい異常は見当たらなかったが。
 しかし重要なのはそこではなかった。里桜は問う。
「高次くんをどうしたの。戻して」
「んー。条件次第かな。あなたが正直になってくれたら、わたしも正直になってあげる」
 シンプルな提案。要は情報交換だった。
 水原千恵が、この状況についてべらべら喋って里桜に情報を与えたのはそのためだ。互いに強力な未知を隠し持っているのなら、互いにそれは知る価値があるという訳だ。
 里桜は少し考え、結論を出した。
「いいわ。互いに小出しに自己紹介をしあいましょうか」
 出す情報はコントロールできる。
 どうせBSSのすべてを音声言語で語り尽くすことなどできないし、致命的なことへの言及を避けながら無矛盾な設定を構築するのは容易だった。見たところ、水原千恵の知能自体は平均的な人間を少し上回る程度だ。不完全な情報で納得させるのは難しくないだろう。

 情報の開示は千恵から始めてきた。
「わたしは神さまの七分の一なの」
 神ときたか。
 里桜は考える。その概念は宇宙をたゆたっていた頃から知識としてあった。自分自身の不可能性の象徴であり、実在を前提とした認識系も構築できる。比喩にも使われる。しかし千恵は例えでものを言っている訳ではなさそうだ。普通なら論外だが、彼女は普通ではない。


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