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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2011年


トド19




 金曜日、また黒野くんが休んだ。
 担任の先生も欠席の理由は聞いていないみたいだった。その日の夜、電話がかかってきた。宿題をする手を止めてわたしは電話に出る。知らない番号からだった。黒野くんではなかった。
「もしもし。戸所硫花さんですか?」
 女の子の声だった。静かで上品な感じだった。わたしは自然と背筋を伸ばして答える。
「はいそうです。えと、そちらはどなたですか?」
「黒野宇美と申します。はじめまして」
 えっ。予想外の名前にわたしは少し戸惑った。
「あ、はじめまして。えっと確か、黒野くんの妹さん?」
「はい。戸所さんのことは兄から聞いております。兄がいつもお世話になっていたようで」
 なんだかやたらしっかりした感じの子だった。悪ふざけばっかりのお兄さんとは大違いだ。
「兄のことで、戸所さんとお話したいことがあるんです。直接会ってお話したいのですが、明日、ご都合がよろしければお時間を頂けないでしょうか?」
 明日は土曜日だ。お買い物にでも行こうかと思ってたくらいで、これといって大事な予定は無かった。
「え、あ、はい。暇です、大丈夫です」
「ありがとうございます」
 時間と場所を決めて、わたしと宇美さんは会う約束をした。



 駅前で宇美さんと会う。
 約束の時間より十分ほど早く着いたけど、彼女の方が早かったようだ。鉄道会社の広告を背にして、わたしを待っていた。彼女の丁寧なおじぎにつられて、わたしも深めに頭を下げる。
 精巧な、彫刻みたいにきれいな子だった。髪や洋服のきめ細やかな繊維、静かで落ち着いた所作、伏し目がちな表情は、一本の通った筋を感じさせる。背丈はわたしよりも低く、細い手足とあいまって可愛らしくもあった。
 話す場所はわたしが決めることになって、近くにあったファミレスに二人で入る。
「兄はなくなりました」
 ドリンクバーで飲み物を頼んで、わたしがカフェオレをふた口ほど飲んだところで、宇美さんはそう切り出した。いきなり聞かされるにしては、突拍子も無さすぎる言葉だった。わたしは思考停止する。

「は?」

 それから宇美さんは黙る。口を出さずに、わたしの理解を待つように。実際わたしは彼女の言葉を飲み込むのに時間がかかり、五分くらいしてからようやく口を開くことができた。
「なくなった、って……え、ほんとに、そういうこと? 黒野くんが?」
「はい」
 宇美さんが頷く。わたしは信じられない。
「兄は自らこの世を去りました」
「なんで……? だって黒野くん。なんで」
 淡々と丁寧に、宇美さんが告げる。わたしの咀嚼を待って、ひとつひとつ口に入れるように。
 自殺。黒野くんが。ますます信じられなかった。
「なんで……? だって黒野くん。なんで」
 なんで死んだの。独り言みたいにわたしは繰り返す。何度も行ったりきたりした後で、ちゃんとした質問を宇美さんにぶつける。彼がなんで死んでしまったのか。
「それは」
 それまで手元の紅茶を見つめていた宇美さんが、わたしに目を向けきた。静かな瞳。深い夜みたいな。
「戸所さんが一番よくご存じなのではないですか?」
「わたし?」
 そんなことを言われても。そんなこと、わたしに分かろうはずもなかった。



「わたし?」
 と言いながらも、わたしは薄々分かってきていた。
「わたし……」
 意味もなく繰り返しながら、黒野くんと最後にあった時のことを考える。わたしが黒野くんに言ったこと。分かってもらおうとしたこと。黒野くんが受け入れた変化。その変化がもたらした結果。
 わたしは黒野くんに、自分のことを分かってもらいたかったんだ。逃げずに見つめて欲しかった。黒野くんは、それを受け入れた。全部じゃないけど、少しずつ分かろうとしていた。わたしの想いが伝わったと感じた。その結果。
 それは致命的なものだった? 分かってはいけないようなものだった? パンドラ。開けたら最後、二度と取り返しがつかない。わたしがしたことは……
 分からない。
「わたしが、言ったから? わたしのせいで……?」
「それは違う、と兄は言っていました」
「え?」
 宇美さんはまた、手元に目を落とす。
「『戸所さんのせいじゃなくて、戸所さんのお陰だ。きみのお陰でおれは自分が分かって、ますます視野が広がった。おれは悪人だけど、罰を受ける気はない。これからも悪事を重ねていく。悪事を重ねて天国へ行くつもりだ』……兄からの伝言です。戸所さんに伝えろと」
 悪事を重ねて天国へ? 何を言ってるんだろう。悪事を重ねて落ちるのは地獄だし、そもそも死んでしまったらもう悪事を重ねるも何もない。
 どういうことか分からない。分かりようもない。でも、分かることもある。
「逃げたんだ……」
 黒野くんは逃げた。生きることをやめて、それで、また変な言い訳をして。なんてことだろう。結局何も、変わらなかったのだろうか。ただ悪い結果だけが残って。
「その通りだ、と兄は言っていました」
 また宇美さんは、黒野くんの伝言とやらを口にする。
「『逃げる決心がついたんだ。今まではどっちでもいいやとしか思ってなかったんだけど、おれなりに優先順位があるってことに気がついたんだ。だからおれは行くことにした。さようなら戸所さん。きみがこちらに来ることも無いだろう。たぶん二度と会えない。こんなおれに構ってくれてありがとう』」
 がくりと、力が抜ける。何にも考えられなかった。悲しい気持ちだけが目から溢れて流れ落ちる。なんで。なんでだよ黒野くん。せっかく仲良くなれると思ったのに。
「伝言ってどうして? 宇美さんはそんな伝言をなんで受けたの? これから死ぬからわたしに伝えてくれって言われて、そのまま伝言を受けたの? なんで? 止めなかったの?」
「兄の考えることは、だいたい分かりますから」
 宇美さんは言う。飲みもせず、紅茶のカップを握っている。わたしが聞いたことには答えてくれなかった。
「戸所さんを見ていると、なんであの人があなたを好きになったのかも、分かる気がします」
 そんなことを言う。
 わたしはたぶんいま、ものすごく大事なことを言われている。でも何も考えられないし、何も言えなかった。泣いて、鼻を啜って、宇美さんの話を聞くことしかできなかった。ああ、わたしは自分勝手だ。宇美さんはもっと悲しいはずなのに。わたしのことを憎んでもいいはずなのに。ただ、不満も言わずにわたしに黒野くんのことを伝えてくれる。
 話はそれだけだった。宇美さんは何も言わないし、わたしも何か言うどころではなかった。最後に宇美さんは、お礼だけしてきた。
「兄のために泣いてくれて、ありがとうございます」
 彼女はわたしに向かって、深々と頭を下げた。



 家に帰ってからも、また泣いた。
 黒野くんのことを考えて、もっと彼のことを知りたかったと思って、それから、もっと、宇美さんとお話がしたいと思った。もし、向こうが迷惑じゃなかったら、また宇美さんと会いたい。黒野くんの話を聞かせてもらいたい。そう思った。



 月曜日の朝、担任の先生から連絡があった。
 黒野大地とその妹黒野宇美が亡くなった、と言われた。
 その翌日、お通夜があった。



つづく


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