当サイトは CSS を使用しています。

ステッパーズ・ストップ

そのほか

2011年


トド18




 街灯やネオンは夜を歩くのに十分な光量をもたらし、この街の安全さを物語っている。清潔なアスファルトと駆けめぐる電道網は、飢餓、極温、犯罪、禽獣、ウイルス、などの典型的驚異からおれたちを高確率で守っている。この鉄状網が防げない驚異は大きく分けて四種類ある。鉄状網に穴を開けられるほど硬く尖ったもの、鉄状網をまたぎ越えられるほど大きなもの、鉄状網の隙間を通過できるほど小さなもの、鉄状網の内側で発生した異物。戸所硫花は最後の分類に相当した。
 生命や健康がおびやかされずとも、心を侵す毒というのはある。おれは戸所硫花と並んで街を歩きながら、自分が揺らいでいるのを感じている。彼女の言葉を、訴えを、消化しきれずに持て余していた。もともと紙みたいなものだった人格装甲はぺろりと剥がされ、地のタイトな思考が露出してきている。
 彼女はおれを非難してきた。おれが無視できない言い方で、それでいておれが反論もできない言い方で。いっそ敵意でもあれば反撃できるけど、彼女は黙って指をさしただけだ。おれは何をさされたのか分からないからどうしようもない。その指を掴んでへし折ることに意味はない。そんなことをしたらおれはただの小物になるだけだ。精神的には死に等しい。
 防寒具が隔てる冷気と体温のコントラストが奇妙な安心を感じさせる。コンビニの角を曲がったところで、彼女はぽつりと言ってきた。
「人を傷つけて、楽しいの?」
 楽しいわけがない。おれだって好きであんなことをしてるんじゃないよ。
 ――そう言おうとしたけど思いとどまった。たぶん通じない。話は進まず結論も出ず、ぐだぐだと同じことを繰り返すだけだろう。代わりにおれは、原点に立ち戻って話を仕切りなおす。
「戸所さんは、何が言いたいのかな」
 そうだ。そもそもこの女はおれをどうしたいのか。どうにもやりづらいのはこの女がただ目的も明かさずに素朴さを振りかざすことしかしてないからで、立ち位置が見えてくれば思考の枠も定まり、対策もできよう。
「わたしは」
 近くで見ると髪が案外細いのに気づく。夜の暗さはその化粧っ気のない顔の表面に浮かぶ細かなノイズを隠蔽していた。この筋収縮によって感情を表現する界面の奥に、神秘に満ちた精神活動がある。
 心とは何だろうか。宇多は、常時繰り返されるプライオリティリストの更新だと言っていた。おれの今の最重要事項は何だ? 戸所硫花の得体の知れない驚異をかわすことか? それともこの経験を通じて宇多への対抗策を見いだすことか? おれは今、なんでそんな基本的なことすらはっきり決められずにいるんだ?
「黒野くんに分かってほしいの」
「何を?」
 阿呆のように尋ね返す。しかしそうする以外に出来ることを思い浮かばなかった。
「自分が何をしているか」
 こちらを振り向いた彼女の目は、何の変哲もない人間のものだった。



<戸所硫花>

 心とは何だろう。
 友達のことを考えてると、わたしのことはどうでもよくなってくる。でももっとよく考えると、わたしを思ってくれてる気持ちがあるのが分かって、やっぱり自分のことはどうでもよくなくなる。自分を大切にしようと思う。
 でも、黒野くんが相手だとそうはならない。黒野くんのことを考えてると、わたしのことがどうでもよくなってくる。そこまでは同じだ。でももっとよく考えようとすると、途端にその先の気持ちが分からなくなる。何も見えなくなる。誰も足を踏み入れない山奥の、深く、底の見えないほら穴の中の真っ暗闇。寒々しくて、見たくなくなってしまう。何でだろう。それはきっと、黒野くん自身が見たがっていないからだ。見たくないという気持ちだけがわたしに伝わってくるからだ。
 もしかして、この人は何も知らないんじゃないかと思う。何も分かっていないんじゃないかと思う。思い切って伝えたわたしの気持ちも、ほんの少しだって伝わってないんじゃないかと思う。
 そして、頭が良くてかっこよくて人気者のくせに、何も持っていないんじゃないかと思う。
 だとしたら哀れだ。どうしようもなく可哀想だ。一番酷い目に遭った鴨居くんよりもずっと黒野くんの方が心配になるのは、わたしがやっぱり彼のことを好きだからだろう。
 黒野くんは嘘ばっかり言う。わたしのために鴨居くんを罰した、自分が悪いと思っている、反省している、わたしを可愛いと思っている、わたしのことを好きだ……全部嘘だ。嘘をつくのは自分を隠すためだ。煙に巻くためだ。自分が見えなくなるように。自分を周りから切り離すために。そんなに怖がらなくてもいいのに。
「黒野くんが、人を傷つけるのは」
 わたしは思ったことを話す。今まで気持ちとしてだけ存在しているだけだったものを言葉にするのだから、なかなか大変な作業だった。でも大事なことだから頑張った。わたしは考え考え、言葉にしていく。
「傷つけることが、楽しいことで、強いことだって、思ってるからだと思う。もし本当にそう思ってるのなら、黒野くんはとんでもない勘違いをしてると思う。そんなのは復讐でしかない。どう考えたって長続きすることじゃない。気が済んだ後はどうする気なの?」
「復讐?」
 黒野くんが引っかかる。またいつもみたいにとぼけてるのかと思ったけど、どうやらそうではないことが分かった。だって、少ししてから一瞬だけ、すごい怖い表情になったのが見えたから。はっとして、黒野くんは自分の口を押さえる。
「おっと。そうか……そうか。その通りだ。きみの言うとおりだよ。うーん、すごいね戸所さん。ちょっと図抜けてるよ。おれ自身ですら理解してなかった本質を、あっさり理解したんだから。それも、分析とか推論じゃないよね。そんなのをスキップして直感だけで到達したんだ。普通じゃない。すごいよ」
「何言ってるの黒野くん」
 わたしは呆れた。この人は何を言ってるんだ。とっても頭がいいくせに、こんなことも分からないなんて。
「普通じゃなくないよ。当たり前のことだよ。傷つけるのは傷つけられたからで、人を馬鹿にするのは腹が立ったからだ。他に理由なんてないでしょ」
「無数にあると思うけどなあ」
「でも黒野くんは違うでしょ」
「いや今はおれのことじゃなくて一般論を言ってたよね? 話ずれてない?」
 ああ言えばこう言う。わたしが困ってると、黒野くんはすぐにフォローを入れてきた。
「ごめんどうでもいい拘りだったね。忘れて。でもさ、そんな核心に迫ったことを人から言われたのは初めてだよ。戸所さんだけなんだ。これは本当のことだよ」
 わたしと黒野くんは立ち止まる。二人で話し込んでいるうちに、駅の改札前まで来てしまったのだ。
 なんだか重い雰囲気になってしまった。でも仕方ない。必要だったから。次は、もっと楽しいお話をしたいな。



つづく


© Pawn