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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2011年


トド09




 自分の部屋で、利根川さんからもらった水晶を手に取る。水みたいに透き通っている。ガラス張りの水槽の中はすぐそばでも遠く、決して手が届かない。ずっと見つめていたかった。目を離してしまったら、魚が泳ぐのを見逃してしまうかも知れないから。



「元気ないね。どうしたの?」
「ちょっと……」
 また放課後の仕事。黒野くんと二人きり。告白するには絶好のチャンスだけど、まったくその気になれなかった。勇気どころか、何か新しいことをする気力が沸いてこない。
「気になることがあるんだったらさ、話して見れば?」
 黒野くんは優しかった。だけどわたしの肩にその手が置かれたとき、わたしはそれを振り払ってしまった。
「嫌っ!」
 体が勝手にふれあいを拒んだ。自分でも驚くほどの過剰反応だった。黒野くんはきょとんとしながらも、すぐに謝ってきた。
「ごめん。調子に乗りすぎた、かな」
「ううん」
 わたしは首を振った。それ以上何も言えなかった。黒野くんに触れられるのはいやじゃない。でも今は誰かに触れられるのはとても嫌。その理由は言いたくない。なんて、そういう込み入った理由を説明できそうになかった。言葉が出てこない。
 黒野くんはそれ以上聞いてはこなかった。もちろん触っても来なかった。それから話題を変えた。金田くんは数学の宿題が出ると翌日決まった場所に寝癖ができるとか、現国の先生は顔の筋肉が多くてなおかつ赤らんでいるから正体はたぶん鬼だとか、あの人が力強く板書してチョークをすぐ折ってしまう現象を鬼剛力って呼んでるとか、鬼剛力はテストが近づくにつれてそのパワーが増して破損するチョークの数が激増する、独自に作成したこの統計グラフもそれを明白に証明しているとか、そんな話をして私を笑かせてくれた。
 わたしは黒野くんの気遣いがうれしく、また申し訳ない気持ちにもなった。言葉にすればその気遣いを不意にしてしまいそうで、お礼も謝罪も心の中でした。

 黒野くんといると楽しい。



 それから一週間ほど経った頃だった。わたしの気分も落ち着いてきて、ふたたび黒野くんへの意識が頭をもたげてきたところに、黒野くんの方からわたしにアクションがあった。

<大切な話があります。明日の放課後、さくら台公園で待っています。>

 お風呂から上がって自分の部屋に戻ったとき、携帯がチカチカしていた。見たらこのメールが、黒野くんから届いていたのだった。用件だけの簡素な文面。何の話があるのかも書いていない。
 わたしの胸が高鳴った。勝手に。これってひょっとして、わたしがもしかして、黒野くんから……
 いや。だけどでも、けどしかし。
「そんな訳ない!」
 自分の思い上がりが恥ずかしくなり、わたしは声に出してしまった。だって黒野くんが。そんな。わたしに。そんな夢みたいな話がある訳ない。わたしが黒野くんのことを好きすぎるから、そんなことを考えてしまうだけだ。きっと何か別の用事があるに違いない。でもでも。もしかして、もしそんなことになったら。どうしよう。どうしよう。
 ブクブクと頭が煮立つ。何も考えられなくなる。ベッドに転がっていたわたしはたまらなくなって、枕に自分の顔を叩きつけた。ボス。一回だけじゃ冷めやらなくて二度三度と繰り返して、何とか興奮を沈める。
 あーもう。どうしてこうわたしは一杯一杯なの。えーと。まずどうすればいいんだろう。そうだ。
「返事しなきゃ」
 黒野くんのしてくる話が何であれ、それが大事であるのなら、わたしはそこに行く。行かない理由はない。わたしは、はい行きます、とメールを返した。何の話ですか? と聞きたくてたまらないのはぐっとこらえた。それは明日になったら分かるんだから。
 でも。わざわざ公園にまで呼び出してする話なんて、ほかに何か考えられるだろうか? わたしは自分の気持ちが恥ずかしいだけで、もう明日起こることなんて知れてるようなものじゃないだろうか?
 でもでも。わたしなんかにそんなことがあるのだろうか。黒野くんは人気者だ。彼のことを好きなのはわたしだけじゃないはずだ。すでに何回か告白されているかも知れないし、既に誰かとつきあっているということもあり得るのだ。
 でもでもでも。優しい黒野くんだからこそ、わたしみたいなかわいくない子を見初めてくれるってことも、もしかしたら無いとは言い切れない。それに誰かとつき合っているのなら、わたしにあんなちょっかいなんて出してくるだろうか? 黒野くんはちょっとお調子者だけど、そんな失礼なことはしないんじゃないかと思う。それに黒野くんは、はっきりとわたしのことを可愛いって言ってくれた。この証言はもう、犯人の動機を明白に示していると断言できるのではないだろうか裁判長?
 でもでもでもでも。そんなのは全部わたしの願望だ。だったらいいな、でしかない。沸いた頭で考えたことなんて、まともな結論にならないに決まっている。
 でもでもでもでもでも……。
 その夜は、枕に顔を三十回くらい突っ込んだ。



 翌朝起きたら、ひとつの結論が出来ていた。
 今日、この気持ちに決着をつけよう。絶対にだ。仮に黒野くんがそんなつもりでわたしを呼んだのでなかったとしても、わたしの方から彼に気持ちを伝えよう。それだけで済む話だ。
 黒野くんが人気者でも、既に誰かとつき合っているかも知れなくても、関係ない。わたしはわたしの気持ちを伝える。そうしなければ前に進めないと思うから。
「よしっ」
 両手を握って気合いを入れて、行ってきまーすと家を出る。昨日今日と、浮いて沈んでわたしは一人相撲ばかりとっていて落ち着かなかったけど、それはそれで幸せでもある。なんだかんだでぽやぽやしていた。
 みんながなんであんなに恋愛のことを大切にするのか、わたしにも分かった気がする。だってこんなに強烈な現実、未だかつてわたしはお目にかかったことがないもの。



つづく


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