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ステッパーズ・ストップ

そのほか

2011年


トド02




「……っていう出来事があったんですよ」
 黒野くんがしてきたことに関するわたしの報告は、利根川さんを凍てつかせた。白い部屋に静寂が降りる。利根川さんの部屋はきれいで、やや閑散とした趣きがあった。これは気まずい場面なのか?
「それは……」
 利根川さんはわたしの目の前でフリーズしている。珍しいことだった。ついさっきまですらすらと宿題を解いていた手が、今はぴくりとも動かなくなっている。成績優秀で、あと才色……兼美? で、大抵の問いにはすらすら答えてしまう彼女が返答に窮する場面なんて、あまり見たことが無いと思う。わたしは少し心配になった。まずい話をしてしまったのだろうか。
「ちょっと待ってね。そんな話するんだったら、こっちは一旦中断しないとね」
 利根川さんは広げていたノートと筆記用具を手早く片づけてしまう。そこまでしなくてもいいのに、とわたしが言う間もなく、彼女はそれらを鞄の中にストトンと収納してしまった。利根川さんの部屋で二人で宿題をする予定だったはずが、なんだかお喋りの時間になってしまいそうだ。勉強に耐えきれなくなったわたしではなく、彼女の方からそっちに持っていくというのが、やはり珍しい。
「結論から言うとね」
 利根川さんはこちらを見ながら、小机の上で指を組んだ。相変わらず上品だ。部屋はきれいだし、この家もうちなんかよりずっとおしゃれだし、何かこう、如何ともしがたい生まれの差を感じてしまう。利根川たゆみ。進学校であるうちの学校の中でも学年トップの秀才だ。お姫様かっていうくらいかわいいし、羨ましいなあと思う。いいなあ。ちょっと体が弱いけど、それすらイメージ的にプラスに見える。いわゆる、屋敷の……窓から見れる……令嬢のような。
「彼はやめた方がいいと思う」
 利根川さんが下したその「結論」とやらは、わたしには意味が分からないものだった。訊く。
「やめる? なにが?」
「彼のことを想うのが、だよ」
 半ばこちらを睨みつけるようにして言ってきた。予想だにしなかった物言いにわたしは慌てる。
「だ、なに言ってるの利根川さん!? 話ちゃんと聞いてた? 黒野くんの悪ふざけが酷いって話だよ!?」
「もちろん聞いてたし、彼の性格も考えに入れて言ってます」
 利根川さんは大まじめに言う。
「トドちゃんはさ」
 わたしはクラスメートからトドと呼ばれている。名字の二文字から取ったあだ名だ。最初に呼ばれたときはあんまりだと思った。トドって。わたしはまあスリムとは言いがたいのかも知れないけど、そんなトドとか言われるほど太ってる訳でもないと思う。何度も呼ばれてるうちに慣れちゃってきたのは悲しいけど。
「黒野くんを意識してるよ。はっきり言うと、もう半ば好きになりかけてるんじゃないかな」
「はあ!? それちょっと、話がジャンプしすぎだと……」
「トドちゃん」
 利根川さんが強引にわたしを呼んで、わたしの文句を切った。そして、ゆっくりと、時間を刻むように言葉を紡ぐ。
「本当に、何でも、ない?」
「そりゃあもちろん……」
 何でもないに決まってるよ。
 と言いかけて、わたしは言葉を止めた。その言葉に違和感があったからだ。なんでだろう? 黒野くんのことを意識してないなら、そのまま何もないって言い切っちゃえばいいのに。わたしの口はそうすることを拒んだ。その理由はたったひとつだ。それが嘘だからだ。わたしは知らぬうちに嘘をつこうとしていたのだ。嘘はよくない。
 それが分かったら、わたしの思考は先に進んだ。わたしは黒野くんを意識している。そう。利根川さんの言う通り、好きになりかけているのだ。そうなのか? そうなのだろう。このまま意識し続ければ、その気持ちはどんどん膨らんでいく。それが分かった。当たり前の話だ。
 今、わたしはわたしの気持ちを知った。言葉がその標になった。
「利根川さんの言うとおりだ」
 わたしは認めた。
「彼のことが気になる。黒野くんは優しいし、いろいろと気が利くし、かっこいい方だと思うし、面白いし……いや、なんかもうそんなのとは関係なく、気持ちが加熱してきちゃったな。そうだ。今までこんな気持ちになったことなかったから、ちょっと混乱してたんだ。ああ、どうしよどうしよ!」
「前から思ってたんだけど、トドちゃんって不思議なところがあるよね」
 利根川さんとは今年から仲良くなったけど、わたしは彼女から妙な評価をされる。不思議だとかそんなことを言ってくるのは彼女だけだ。ふつうだと思うんだけどなあ。
「気持ちが……」
 利根川さんは空中に視線を移す。まるでそこに何かがあるみたいに見つめる。
「答えさえ見えれば、すごく早く気持ちを整理できてしまう。どうしてかな? たぶん、枠……いや、考えをつなぐ鎖にゆとりがあって、」
 彼女の指がかすかに動く。そこにある透明なものをかたどるように。何か考えているんだろうけど、こっちには全然伝わってこない。利根川さんはたまにこうなる。すごく難しいことを考えているのだろう。わたしに分かる訳がない。



<利根川たゆみ>

 物事に原因が二つ以上あるとき、気をつけないと片方は見落としがちになるの。ここでは、トドちゃんの個性と黒野大地の異常性は分けて考えないといけないよ。
 トドちゃんはふつうの子だ。
 尖った特徴は一切ない。学校の成績は人並みだし、抱いている考えもごく常識的。場の空気を読む必要すらなく、自然と人の輪の中にいられることができる。
 そういうのはわたしは捨てました。捨てたんです。決して無価値なものとは思わないけど、持たないことを選んだんだから、持ってる人を妬むことだけはしないようにしようと思ってる。いいよね、とだけ思っておけばいいよね。
 そんな彼女は今、クラスの男子につつかれて恋愛感情を芽生えさせ始めてる。そして自分の気持ちに戸惑っている。まあ、そこまでは普通だよね。
 しかしてっきりわたしは「気にしてるんでしょ」「そんなことないよ」という押し問答が続くと思ってそれを覚悟してた。だけど違った。彼女はもう恋慕を自覚するところまで来てた。ちょっとヒントをあげただけで、気持ちの素直な肯定にまで到達してた。この年頃で恋愛に積極的になること自体は珍しくないけど、彼女は昨日までその扉は一切閉じていたのだ。立ち上がりのスムーズさは劇的と言っていいと思う。
 非・連結・構造。
 空中を自由に動き回る無数のシャボン玉のイメージが近い。
 ある思考がほかの思考に引っ張られない。その場面その場面に強く反応する認識だけがシンプルに浮かび上がる。シャボン玉同士は接触しなければ互いに関連し合うことがないから、思いこみや厄体もない連想に捕らわれて余計なことを考える確率がぐっと下がる。その代わり、複雑な思考ができないし記憶も弱い。新しい思いつきなどもあまりない。概念同士のネットワークが極端に薄いから。
 純朴なお馬鹿さんとも言えるかな。珍しい種だけど、地味と言えば地味、普通と言えば普通だ。
 でもそれらはすべて、トドちゃんだけの問題だ。今の状態を引き起こすきっかけとになったのは黒野大地だけど、彼はトドちゃんの不思議な挙動とは関係がない。黒野くんの異常性が問題になるのはこれからなんです。



つづく


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