光あふれて死ねばいいのに20 ☆  シルバーのフォーク。曲面研磨のジュエリー。リボン。ベース。コスモス。ピンクローズ。紋白蝶。木星。ロ ーマ数字。手書きのドイツ語。スイミーのイラスト。ししゃも。  大小に拡縮されたそれのガジェットが、不可視の波に乗って流れていく。ガチャガチャと厚く塗り重ねられた 伴奏が、わたしの音感を刺激して陶酔へと誘う。やはり強い。敵はまだわたしを攻撃していないというのに、空 間に充満する奴の魅惑の圧力にわたしはさらなる後退を強いられる。  黒の結界がじりじりと削られてきている。わたしは結界を収縮し、密度を高めて磨耗を防ぐ。攻撃の都合上テ リトリーは広く取っておきたかったが止むを得なかった。  テリトリーの界面上に黒の粒子を発生させる。太陽のフレアのようにゆらめくそれは、敵の方向へと集まりポ テンシャルを高めていく。わたしは手を振ってそれを放った。食らえ。  結実した攻撃が一直線に飛んでいく。虹織姫へと。笑う彼女はそれを避けない。羽衣でも防御せず、攻撃が心 臓を貫くのを受け入れた。彼女の胸に風穴が空く。攻撃はそのまま飛び去りはしない。折れ曲がっては別の角度 から彼女を貫くのを繰り返す。これはわたしの工夫だった。狙撃は遠距離から敵を叩けるのが便利だがダメージ に対するコストが高い。特に敵を貫通してしまう場合には。しかしこのように軌道を制御して再利用すれば、エ ネルギー消費の無駄も減る。  体を崩壊させながら彼女は右腕を天に掲げた。何か来る。彼女は罠を仕掛けていたようだ。わたしはその罠の 性質を読む。向こうの選択肢は多い。現在可能な罠が何種類もある。攻撃の軌道をそのまま辿られ反撃される罠 。見えているあれが本体ではなく、背後または知覚できない別次元から奇襲を食らう罠。実はわたしが攻撃した のはわたしの大切な人だった罠。そう見せかけて精神攻撃を仕掛けてくる罠。こちらの希望的観測につけこんで 幻を見せている罠。さらに認識世界の仮想化を重ねて虚実の判定を狂わせてくる罠。受けたダメージを水増し表 現して攻撃の有効性を誤認させ、無駄弾を撃たせる罠。そのうえダメージを快楽に変えて吸収している罠。受け た攻撃をコピーして返してくる罠。そう見せかけて別の攻撃である罠。反撃をほのめかしてわたしを構えさせ、 時間を稼いでいる罠。そしてわたしの注意をわたしが認識できる半径百キロ程度の空間に引きつけ、それより遠 方の外周で遅延起動型の強力な攻撃を構築している罠。攻撃を受けて傷口から飛び散る花、音色、はかなさの衝 烈を見せてこちらを魅了しようとする罠。あるいは他者を傷つける罪悪感を誘発する罠。共感につけこんで痛み を伝播させてくる罠。  実際のところ虹織姫は、それらのほとんどを同時に実行してきた。彼女の処理能力は高い。表層的な言語思考 や論理思考として現れないだけで、識域下では膨大な演算が行われている。わたしはその機構の解析を試みてい る。しかし時間がかかっている。彼女の機構は秩序立ったシンプルな設計ではなく撹拌されているカオスだった 。天然の難読化が施されている。  わたしは転移して軌道逆行攻撃を回避する。全方位に地雷を散布して本体の接近を拒む。認識のチャンネルを 定期的に変えて知覚外からの接近も防ぐ。攻撃した虹織姫の外皮が崩れて坂井終司が無惨な姿を現す。嘘だと断 じてわたしは種類を変えた攻撃をさらに叩き込む。世界にぴしりとヒビが入る。そうはさせない。わたしはそれ が広がる前に反応した。一時的に認識のメタレベルを上げて概念への物理干渉パスを設定する。わたしの右手が 黒く発光する。そして掴んでへし折った。この状況を幻にすべく世界を崩壊させようとしたヒビそのものを。現 実を維持する。その行為は現実逃避だと訴える彼女に反論する。現実性は相対的な概念だ。系内にいるわたしと あなたが認めているなら、その系は二人の現実として十分だ。盤面をひっくり返してしきり直そうとする無理を 通すにあたって抱えるあなたの後ろめたさを、わたしは見逃してはあげないよ。わたしは攻撃の種類を定期的に 新調して、彼女の虚偽負傷表現や耐性構築を無効化する。これで快楽化も変動に追いつけない。コピーされた攻 撃はそれをさらに利用させてもらった。発動と同時に暗号を入れないと暴発するようにしておいたのだ。彼女の 手元で黒の花が十七輪咲いた。しかしいくつかのコピーは暴発せずにこちらに向かってくる。いや暴発しなかっ たのだからコピーではない。そう見せかけたオリジナルの攻撃だ。被弾までにきっちり解析して無効化した。こ れらゆるい反撃に慢心せず、わたしは攻撃の速度を上げていく。時間は与えない。転移によってわたしは攻撃回 避だけではなく索敵もしていた。遠方に隠されていた遅延起動攻撃プラントを発見し、起動前に潰してしまう。 わたしは織り交ぜる攻撃に毒も仕込む。彼女の傷口は腐り、散華による魅了が台無しになる。そしてわたしのこ れらの攻撃は億の民に対する救済だ。それを忘れない。自分の行為の目先の酷さに惑わされて感情を乱し、罪悪 感に溺れはたりは決してしない。と同時にわたしは虹織姫が苦痛を受けるのに合わせて断続的に共感を切る。視 界に不都合のないよう最小限の瞬間で世界が黒く点滅し、苦痛の伝播を遮断した。  わたしは迷わない。わたしは間違えない。わたしはすべてを解く者だ。ルート探索の覇王だ。認識の次元を渡 り歩き、ひとたび敵と同じ地平に立てば決して負けることはない。わたしは性能を全開にして、虹織姫を詰めて いく。 「ク……ロノ! あんたは!」  さすがに彼女も理解したようだ。自分が陥った状況を。巡り会った相手が何者なのかを。虹織姫が億でも兆で も関係ない。敵がXであるとき、わたしは常にX+1なのだ。  わたしは虹織姫と攻防しながら同時に解析を進めていた。戦術の変動パターンを集計して戦略を推測し次手に 備える。彼女の行動はこれまで事実上のランダムだった。そう捉えざるを得なかった。しかし織原七重の認識を 浴びて情報を大量摂取したわたしはその底も割りつつある。ランダムの正体は隠蔽されたアルゴリズムだからそ れを読めばいい。出力のみから隠蔽されたアルゴリズムを読むには暗号の解読が必要になる。暗号の解読には素 因数分解が必要になる。その計算コストはアルゴリズムの乗算に比べて膨大だ。普通は死ぬまでに解けない。し かしここでわたしが秘密裏に研究し完成させていた神託関数が役に立つ。神託関数は過程をスキップして素因数 分解の結果を返す。その実装はイデアグランスだ。全自然数の素因数分解のテーブルや自然対数、円周率と言っ た定数が刻まれた上書き不能な絶対凍結世界エリア・アレフモノリスを覗き見て、解を得たら即閉じる。イデア バーストと違って現象矛盾を引き起こさず、表面上は無作為な素数選択による偶然の分解成功と偽装されるので 、銀を消耗せずにエリアマスターの監視を欺くことが出来る。念のため補足するとこれらも比喩である。オカル トは無い。  わたしは虹織姫のランダムな戦術を読み切りかわしながら、解析を進めていく。彼女の深奥のすべてを知るこ とは出来ない。しかし見えてきた。彼女のカオスに対抗してこちらもカオスな情報処理系を構築する。覗き込む 。鏡で自分を見るように。わたしは基本的には侵略的合理主義だ。普通なら考えても無駄だとされる領域、たと えば魂や運命や意味や自己存在や愛についてさえも、観察と情報処理の刃で徹底的にえぐって底まで理解しきる 。それは客観的で決定的なプロセスである。しかしそれにも限界がある。突き当たることも希にある。そこでよ うやく主観を用いる。曖昧と統計と霊感による認識だ。それは不確実で落とし穴も多いが、客観だけではたどり 着けない場所に到達することが出来る。  鏡に黒野宇多が映る。わたしはわたしに問いかけてきた。 「あなたは誰? わたしは誰?」 「思考ログ見とけ。その問いには八千万回くらい答えたよ」  哲学問答には取り合わない。黒の刃を一閃し、わたしはわたしを切り裂いた。その傷口に手を突っ込み、中に ある黒の綿を引きずり出す。怖くて重くて、気持ち悪くて冷たくて。だけどみんなが背負うもの。とても眠りに 似ているもの。それは何か? 死だ。わたしは死を手に取ってまじまじと見る。深淵をのぞき込むそら恐ろしさ を受け流し、さらにその奥にあるものを見つめる。またたく光。ゆらぐ霧。  虹織姫の人格解析において死がキーになるのは分かっていた。ランダム暴きの甲斐もあってパターンも四つに 絞り込めている。タナトスを拡張してネガティブなすべてを喜びに変換しているか、自らを絶対化し死なないと 仮定して死に脅かされる矮小さを他者に押しつけているか、自らを死そのものと重ね合わせやがて死によって完 全な自己に到達すると信仰しているか、最初から死に続けて死を常態化しているか、だ。  もう少しだ。もう少しで暴ききれる。しかしわたしは既に死にたくなっている。虹織姫の世界に浸かり過ぎた 。もう終わってしまおうか。これが終わったら死んでしまおうか。黒の唄を止めてしまおうか。ぞっとするほど 甘美にささやく呼び声に、わたしは身を委ねたくなってしまう。井戸の底でたゆたう無数の触手は激痛と快楽を 約束するように蠢いており、確かにこのわたしですら身を投げるのにふさわしいと思えるほど怪しくおぞましか った。人並みに盲目になるとそんな風にもなる。  でもね。駄目なんだよ。 ☆ <坂井終司>  すべてが終わった。  もういいだろうと思う。学ぶことも働くことも、生きることを質に取られた隷従だ。しかし穴がある。そこに 自由意志が介在する余地はある。望まなければいいのだ。ぼくは始めから何も持っていないし何も得ようとはし ない。であれば何者もぼくを縛れない。  さようなら。お疲れさん。 ☆ <黒野宇多>  織原七重は凋落した。  新曲も唄も偽物になり、ネットで話題になったしゴーストライター死亡説なんかも噂された。レベルが下がっ たなんてものじゃない。彼女の作品の質は、素人にも劣るくらい稚拙でどうしようもない出来になった。仕方あ るまい。彼女は霊感任せに出力してきた。それをわたしが焼き切ってしまったのだから、彼女はもはや不相応に 巨大な自意識を残した頭の悪い美人に過ぎない。彼女は分からなくなったのだ。そして見えなくった。聞こえな くなった。これまで見えていたものも、聞こえていたものも。永遠とも思えた陶酔の日々はもう彼女には戻って こない。禁忌だった涙を悪びれもなく流し、頭を抱えて発する金切り声もただ無様なだけ。こうなれば業界も見 切りは早い。しばらくは出演の仕事もあろうが、そのうち別のアーティストに後釜を取って替わられる。哀れな ものだが、人類発狂の阻止には代えられない。人生の面倒くらいは見てやろうと思っている。 ☆  つぼみが復帰してくれたことで、後始末はかなり楽だった。報復を仕掛けてくる鳴瀬克美対策も、ポルノ業界 に運ばれそうになった川本里沙の救済も、荒野たちにほとんど任せている。それで浮いた時間を使って、わたし はわたしのことをする。 ☆ 「放せよ」 「やーよ」  わたしは終司くんの拒絶を拒絶した。織原七重の件も片づいて、わたしは歌いだしたくなるくらい気分がいい 。状況は極めてシンプルだ。ビルから飛び降りようとした終司くんを、隠れて待ちかまえていたわたしが捕まえ た。右手で終司くんを、左手で柵を握り、死のうとした彼をこの世につなぎ止めている。脇腹の刺し傷もほとん ど治ってるし、タイミングを合わせてこの状態を作るのは簡単だった。 「放せって!」 「やーだってば」  浜辺でじゃれ合う恋人みたいなやりとりにわたしは笑う。彼は必死だがわたしは余裕だ。こんなの問題のうち にも入らない。 「もういい加減、ぼくに付きまとうのはやめてくれよ。お前嫌いなんだよ!」  全身でわたしを、そして世界を拒絶している彼はいま実は気分がいい。彼にだって攻撃衝動はある。ずっと内 に篭もらせていたそれをほとんど初めてまともに吐き出しているのだ。好きなだけ暴れればいいと思う。付き合 ってあげる。 「わたしはきみが好きだよ。これは覆らないの。何があろうと、どれだけきみが裏切ってもね」 「見るなよ! 気持ち悪いんだよ! 嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ嫌いだ! お前らみんな嫌いなんだよ! ぼく に関わるな! ぼくに喋りかけるな!」  彼の傷が見えてくる。彼の痛みが見えてくる。過去にあったことも推測できる。彼の寂しい人生を知り、わた しは悲しい気持ちを抱いた。その悲しさをわたしは拒まない。それは正しいものだからだ。目的への最短パスだ からだ。わたしはきみの孤独を悼もう。きみのために泣いてあげよう。 「ちょっとわたし、遅かったよね。ほんとはもっと、もっと昔から一緒にいてあげればよかったのにね。今さら のこのこやって来てごめんね。今年初めて出会うまで、その存在を知るまで、何もしてあげられなくてごめんね 」 「悪いと思うんだったら」  彼は表情を歪ませてわたしを睨む。初めて表現する憎悪だ。かなり面白いのだが、そこで笑ってしまうわたし ではなかった。和ませるにはまだ早い。一年くらいは。 「もう手を放してくれよ。頼むから」 「いやだ」  わたしは静かに言う。怒りを押し殺しているように。感情のやりとりには定型がある。それは決められた手順 でほどけるパズルだ。 「きみは何も持ってないけど、すべてを持っているわたしに見初められた幸運がある。それを蹴るのは気持ちい いよね? みんなが欲しがるそれを踏みにじるのは最高に溜飲が下がるよね? でも賢くはないな。これは一瞬 で消費するもんじゃない。缶ジュースとは違うんだよ。きみはね、逃げられないよ。わたしと一緒にいる幸福を ずっと味わうんだよ。累積する幸福に上限はないんだ。本物の幸福はね、その感性をどんどん育んでいくんだか ら。そうしてまた幸福をより深く実感するうれしいループなの。それが一生続くの。こんな瞬間的な充足なんか とは比べものにならない。何でもしてあげるよ。全部理解してあげるよ。きみの趣味に全部付き合うよ。それで ね。それでね。きみの知らない場所にも連れてってあげるよ。知らない世界も見せてあげるよ。終司くん知って る? 人が作るものは、その人が見たもので出来てるんだよ。世界を知れば、終司くんの世界もまだまだ広がる よ。良かったね終司くん、きみの人生はバラ色だよ。ごめんね終司くん。わたしはきみに死なないでなんて言わ ないの。言う必要すらないの。だって死ねないんだから。きみの突発的な死ぬ覚悟なんて簡単に消化されちゃう んだから。きみは死ねないんだ。きみの希望とは裏腹に。ごめんね」 「は? そんなわけないだろ。ぼくが望んでるんだ。いま死ねなくたって、いつだって死ねる」  それはその通りだ。彼の理論には死角がなかった。だからわたしは仕掛けを打っておいたのだ。 「抽象化で束ねられた武装のスペックはすべて平均値で決められて、その端数は弱い方に倒されるの」 「え?」  話が唐突に変わって、彼が戸惑う。そして数秒経ってから、彼の表情が変貌した。「あ」へと。 「端数って、もしかして」 「弱い方に倒される。そう書いたよね? 重量なら重い方に切り上げられるし、威力値は切り捨てになる。だか らそのカテゴリーに両手持ちのものがあれば、抽象化された武器もまた両手持ちになるの。つまり、『剣』は両 手持ちなんだ」  終司くんが死を選べたのは、この世の未練を断ったからだ。彼がそう信じたからだ。つまり彼はマーガレット をクリアした。スキルや武装のシナジーを研究し、塔を上って魔女を殺したのだ。彼はあの世界を極めた。そし て終わった。だから自分を終えようとする覚悟も出来た。しかしわたしは先手を打っていた。彼が最終決戦で用 いるであろうスキルに、誤解しやすい仕様を仕込んでおいたのだ。彼は抽象化された「剣」が片手持ちだと誤認 して使っていた。 「抽象化使ったでしょ。あれ強いもんね? それに応用も利きやすい。でも駄目だよ。終司くんの考えた構成は 破綻するよ。『剣』は片手じゃ持てないんだから。答えは別にあるんだよ。だからまだなんだ。きみはまだ、マ ーガレットを極めてなんかいないんだ」 「あ……」  カタン。  彼の中で天秤が傾く。一度は終わったと思って放り出したマーガレットのシステムが、いま一度彼の思考にロ ードされていく。 「さて、戻ろうか」  わたしは終司くんを引き上げる。彼はこの期に及んでなお素直な態度を見せず嫌そうにするが、抵抗はしなか った。そして柵の内側まで連れ戻せた。はいサバイブ。  その後も彼はわたしに謝りもしなかったが、ぽつぽつとマーガレットの他の仕様も確認してきた。ちょろいも のだ。解きたいものがある限り、彼は死ぬことが出来ない。そして彼がまたマーガレットを解いている間に、わ たしは彼の思考パターンを盗んで新作を作るだろう。彼はそれを無視できない。決して。  そしてそれはずっと続く。その繰り返しの中でわたしは彼を溶かしていく。少しずつ。焦ることはない。人生 は長い。じりじりと彼の態度は軟化していくだろう。  ああ。楽しいなあもう。 ☆ 「ばいばい」  数分後、突発的な感情の揺り戻しが来て彼がまた飛び降りようとした。今度は柵を越える前に止めた。体重を 支えるにはわたしの腕の強度と疲労が限界に来ていたからだ。  それにしても捨てゼリフまで吐いておいて、不意をついたつもりなのだから情けない。だから無理だって。ど うやっても。  わたしは負かせられないの。 ☆ おしま絶