光あふれて死ねばいいのに11 ☆ 「黒野さんが言うなら信じます」  荒野はいつもあまり表情を見せない。しかし思考は透けて見える。いま彼はわたしの話を信じていない。日常 を越え過ぎているからだろう。見たことがないものの信憑性を測るには論理に裏付けられた想像力が必要なのだ 。彼にはそれが欠けている。だから理解できない。それでもいい。少なくとも今は。 「そんなことが起こっているなら対処が必要ですね。自殺は止めるべきです」 「止めた方がいいね」  わたしは話をすり替えた。荒野は自殺が悪だと言っている。善悪の議論は洗脳なしには収束しない。悪にしか 見えないものをことごとく潰せば、世界は美しくなる。そして美しいまま結晶化して、二度と呼吸をすることも ない。 「自殺は絶対の拒絶だよ。周囲の人間に永遠の絶縁を宣告する。切られた人間は大きな不幸を負う。それがレア ケースなら大局的には些細と見なせる。局所の不幸も平均に馴らされる。だけど七重の歌は莫大な数の自殺を生 む。数が増えれば飽和する。みんながみんな不幸になっていく。それはわたしには看過できない。止める必要が ある」 「黒野さんはどうするつもりなんですか。さっき言ってましたけど織原七重を殺すんですか」 「まさか」  問題の根元は織原七重にある。しかし彼女を殺しても問題は死なない。彼女の死はメディアによって美しく飾 られ、さらなる死の種を蒔くだろう。それにあれだけ影響力があるのだから、七重の歌を継ぐ者が現れることだ ってあるかも知れない。歌が七重本人を離れて自走し始めれば、いよいよ問題を殺せなくなる。放射能と放射線 では危険性のレベルが違う。放射線は原子からイオンを引きちぎるだけだが、放射能はその放射線そのものを延 々と産み続ける。時には数百万年に渡って。 「必要なのは織原七重から魅力を奪うことだ。彼女を殺してしまえば彼女は神話になる。悲劇になる。それは逆 効果だよ。彼女のアートを腐らせてその輝きをかき消すためには彼女の感性を破壊しなければならない。一瞬で 断絶させるのではなく、ゆっくりと劣化させるの」 「具体的にはどうするんですか」  荒野が聞いた。わたしは答える。 「織原七重が撒き散らす魅力の源にあるのは、何者をも恐れずに快楽を求めるその貪欲な探求心だ。その機能を 損なわせるには、失うことの恐怖を植え付ける必要がある。我が身を愛して危険から離れる保身というものを芽 生えさせるために、わたしたちは彼女に精神攻撃を仕掛ける」  答えたわたしに、荒野は真顔でもう一度同じ質問をしてきた。わたしは答える。問われれば必ず答える。はぐ らかさない。答えを出すためにわたしは生きている。 「織原七重にインタビューをする。彼女に自分と向き合わせて言葉で説明させる。ちゃんと筋道が通るようにね 。言葉で自分を定めるたびに彼女の意識は地に足ついて、天性の霊感をなくしていくよ」 ☆ <坂井終司>  八十七人を殺した。  黒野が作ったマーガレットの世界。そこにある魔女の塔を攻略するために、ぼくは最初の老戦士を含めて八十 七人の刺客を送り込んだ。そのことごとくが塔に棲む魔物に殺された。まず最初の竜からして勝ちを拾うのが難 しい。五十人以上はあいつに殺されている。たとえ竜を倒せても、二階で待ちかまえているヴァンパイアに血を 吸われてやられてしまう。キャラクターのスペックを竜殺しに特化すると、どうしてもアンデッド対策の武装を 積む余裕がなくなってしまうのだ。  ぼくは仕方なく先制攻撃とクリティカルを備えた鉄砲玉キャラを作った。こいつは運さえよければ攻撃をまっ たく受けずに初手で相手を瞬殺できる。それをたくさん作って塔に挑ませたら一度だけ奇跡的にドラゴンとヴァ ンパイアの両方を殺せて、三階にいる魔法使いの顔を拝むことができた。しかし幸運はそう何度も続きはしない 。初撃をかわした魔法使いはぼくの作った暗殺者をあっさり呪殺した。  魔法使いのスペックを見れたのは儲けものだった。しかし運任せの暗殺者でまた塔に挑む気にはなれなかった 。黒野のノートの最後にある首斬り帖はとうに余白をなくしている。ぼくは墓場専用のノートを用意してそこに キャラの死体を積まなければならなかった。ぼくは気が滅入った。  だが決して諦めることはない。試行錯誤を繰り返していけば、いつかは塔の頂にたどり着けるはずだ。 「坂井終司」  水面から顔を上げると、そこでは授業が行われていた。教室の中。国語。みんな先生の板書を書き写している 。ぼくは違うことをしていたが目立つ動きをしている訳ではないのでゲームに没頭していたことまでは悟られま い。  ぼくは返事をして立ち上がる。先生は教科書の続きを読むように言った。ぼくはどこから読めばいいから分か らなかった。だから立ったまま教科書をじっと見つめていた。他にできることがない。どうした坂井三行目から だ、と言われたがどのページの三行目からなのかが分からない。何かしなければならないのでぼくは教科書のペ ージを前後にめくって目的のページを探すふりをした。こうすればページが分からないことを先生に読みとって もらえると思った。はやく終われと思って時計を何度か見たが、この状態は数分続いた。結局先生は溜め息をつ いてぼくを座らせた。ああしんどかった。教科書の続きは別の男子が読むことになった。そいつはぼくと違って 問題なく続きを読み上げる。ぼくはふたたび黒野のノートに目を落とす。  ドラゴンとヴァンパイアと魔法使い。どうすれば全員をやっつけられるだろう。 ☆ <織原七重>  見られてる。いつも見られてる。  ナナエに何か描いてあるのかな。バカにしてるのかな。それともナナエが好きなのかな。だけどそれはみんな 同じことだった。  たくさんの目玉がナナエを見ている。ナナエが動くと目玉も動くよ。ナナエが手を振れば目玉も回るよ。集ま った目玉に心はないんだ。それは怪物だ。ナナエには分かっていた。その怪物を見つめていると、ナナエ自身が 見えてくる。怪物はナナエを映しているのだ。それは鏡の怪物だ。  怪物が鏡だと分かったので、ナナエはそれに笑いかけた。目玉はそのつど集まって、ナナエにほほえみを返し てきてくれた。やっぱりね。思った通りだ。ナナエは女の子だから怪物と仲良くなれるんだ。  ナナエが目玉に近づくと、目玉はばらばらになる。怪物は見えなくなってしまう。目玉のふたつが女の子にな った。女の子はリサと言った。リサと話しているあいだも、余った目玉はまた怪物になった。その大きな背中の 上で、リサはナナエにささやいた。 「無視してごめんね。これからはわたしたちは親友だからね」  親友?  ナナエには友達がいなかった。だけどリサは親友になってくれた。親友というのは、友達の中でも一番に友達 な人のことだ。ナナエにはできないものだとばかり思っていた。  リサとナナエは小指でつながった。ナナエが笑うと、リサもやっぱり笑った。  すべり台の上で話していた。いっぱい話したので、怒られるほど夜になってしまった。だけどぜんぜん暗くな かった。輝きに満ちていた。ナナエとリサの周りを、きらきら光る透明のつぶがはじけていた。シャンデリアが 砕け散ったみたいに。うれしくて。 ☆  でもそれは昔のはなし。  うれしいは次々と入れ替わっていく。花は枯れ、実は落ちて腐り、それでも新しい命が芽吹く。誰も逃げられ ない。 ☆  パパとママはよくケンカをしていた。  言葉が形になれば相手をズタズタに斬り咲いてしまうくらい、二人は本気でケンカをしていた。いつもママが 勝って、ときどきパパが真の力を目覚めさせてママを拳ひとつでぶっ潰した。  ケンカはナナエが原因らしかった。ナナエは分からなくていいと言うので、ナナエは気にしなかった。今にな ってもそれは気にしていない。 ☆  ママが家から出ていった。  だけどナナエは泣きたくなかった。ナナエは幸せでいたいのだ。悲しみなんて許したくなかった。幸せでいら れるようにナナエがずっと笑っていたら、パパがナナエをぶつようになった。  とても痛かった。だけどこんなのはドラマで見たことがある出来事だ。とっくに通り過ぎてきた世界だ。ナナ エはドラマみたいに泣きたくなかった。ナナエは知っている。泣いたら幸せは逃げてしまうのだ。幸せは自分の 内側からしか沸いてこないのだ。  パパに酷いことをたくさんされながら、ナナエは自分の口を塞いだ。ごめんなさいとか、助けてとかを言わな いようにするためだ。幸福なお姫様はそんなことは言わない。どんなことも嬉しくなくてはならない。 ☆  物語の終わりが、ナナエは嫌いだった。  絵本。アニメ。ドラマ。映画。小説。漫画。  物語は終わる。いつも自分勝手に完結して、ナナエを突き放してしまう。悲劇がどれだけその人を苦しめても 、穏やかな波のような死がさらっていってしまう。争いにどれだけ勢いがあっても、おそろしく大きな平穏にと って代わられてしまう。戦場を失ったランボーの悲しみが、わたしには分かる。かけがえのないものから引き剥 がされて泣きじゃくったあの男の悲しみが、ナナエには斬り裂かれるように分かるのだ。  手のひらに収まってしまうほどちっぽけな答えだけをおみやげにして、そそくさと店をたたんでしまう物語た ち。描かれなかったその先の未来を、突き抜けるような青空を最後に見せて忘れさせようしてくる物語たち。  ――……思っていた。 ☆  高校になって、突然それはやって来た。  ナナエは自分が分かった。知った。理解した。それまで当たり前と思ってたことがそうではなかった。本当の ことを知らないのはナナエだけではなかったけれど、見つけたのはナナエだけだった。  そうだ。そうだったのだ。  ナナエの中には、あったのだ。  ずっとずっと隠れていた、暗く鈍く光っていた、とびっきりの、空から落ちてきたひとつぶの星の、交換も返 品も利かない、永遠に続いて誰にも分からない、たったひとつのアレがあったのだ。  ナナエはふつうの人間の形をしている。  ――……でもそれは、形だけだったよ。 ☆  世界で一番すてきなものって、なあーんだ?  それはこの星の果ての、息が凍るほど寒い場所の、夜空にでっかくでっかくたゆたう、ゆらめく虹色のカーテ ンの連なりだ。  とびきり大きくて死ぬほどきれい。何よりも。 ☆  ナナエは決めた。  ナナエはナナエが退屈することを、決して許しはしない。今までに味わわされた、窒息するくらいつまらない 出来事たちについてのつぐないを、ナナエは人生に対して求める。人には見えないとタカをくくってお隠れあそ ばしている神さま、いるならあんたにもだ。  ナナエはあの時、きっぱりと定めた。もう決まった。決定事項だ。神さまよりも絶対に、絶対だ。  オーロラになる。  とてつもなく素敵な大きさで空をゆれる、オーロラになれる生き方をする。オーロラの歌を信じて無言の宇宙 を見上げる人がいたら、きっとこたえてあげよう。ねむってしまうくらいやわらかな歌を、そっとささやいてあ げよう。その人たちにだけ聞こえるように。 ☆  字を書くのはきらい。幼稚園のときからだ。おぼえるまで何回も怒られて、書かされて、すごくイヤだった。  歌うのは好き。声は字よりも速い。何も考えなくたって思った通りの形になる。  歌っていれば幸せだった。歌はいつでも歌えるものだ。ナナエはいつも幸せだった。 ☆  きっと最初から始まっていたのだと思う。 ☆  ピアノは幼稚園から習った。  初めて鍵盤に手を乗せたとき、それは起こった。  ナナエの周りが急に静かになった。一瞬のことだったのか、永遠だったのか、分からない。ナナエの横に座っ ていた先生も後ろで見ていたママも、床に座っていたほかの子も、みんな凍りついて動かなくなった。たったひ とりナナエだけが自由で、鍵盤にいつ指を落とすかを決めることができた。  ナナエはたっぷりと待った。焦らなくてもいいことは分かってた。そして今だと思ったとき、ナナエは最初の 音を鳴らした。  ぽーん。  動き出した時間の中で、その一音が響きわたる。ふるえた。ナナエは痺れていた。そしてはっきりと分かった 。見えた。世界の入り口が。ナナエはこれから、深い海の底にどんどん潜っていって二度と戻ることはないんだ 。 ☆  楽しいなんてものじゃなかった。  指先のうごきひとつで喜びをいくらでも作れる。音符は文字よりも分かりやすかった。すぐ読めた。ナナエが 新しいことを覚えるたびに先生が何か言ってたけど聞こえなかった。ナナエは夢中になった。いつまでもいつま でもピアノで遊んでいたかった。ほかの子はママが来たらそっちに飛びついてたけど、ナナエはそんな気にはな れなかった。ママが来なければいいのにと思った。ピアノの方がよかった。  だってすごいんだもの。 ☆  つづく