光あふれて死ねばいいのに10 ☆ 「吉住さんそのメイク何? ギャグ? すっごい似合ってないけど大丈夫? 面白くて死にそうなんだけどどう してそんな有様になったの? 誰かの嫌がらせ?」  吉住は顔を伏せた。何も喋れない。殴られた上に罵声を浴びせられてなお演技を続ける根性も愚かさも、彼女 は持ち合わせていない。わたしは続けた。 「ねえ、なんでわたしは、吉住さんをこんな所に連れてきたんだと思う? どうしてトイレなんだと思う? 答 えて」 「わたしを」  吉住はつっかえながらもわたしの質問に答えた。 「痛めつけるため……?」  太い素足が震えている。単純な恐怖ではない。自分の有り方を否定されたことで足下が崩壊するそら恐ろしさ を感じているのだ。今、彼女の心を支えるものは何も無い。それに共感するわたしも同じように居心地が悪いが 、重病の治療に痛みは付き物だ。ここは耐えなければならない。 「違うよ吉住さん。制裁するだけならわざわざ移動なんてしない。教室ででもどこででもわたしは殴るよ」  必要とあらばわたしは暴力も使う。人目に構わずわたしが人を殴るのを、彼女も何度か見てきたはずだ。 「トイレに連れてきたのはね。ここに鏡があるからだ」  洗面台の鏡を示す。壁一面に張られた大きな鏡がわたしたちを映していた。自己欺瞞を剥がした今なら吉住に も見えるはずだ。世にも醜く変貌した、彼女自身の真実の姿が。 「織原七重は」  わたしは吉住の意識を最も引きつける言葉を口にした。彼女の体が一瞬こわばる。わたしは見逃さなかった。 「とても美しいひとだ。ほんとうに、信じられないくらいにね。あれはただごとじゃない。そこらの美人が束に なったってあのオーラは出ないよね。間違いなくトップクラスだ」  真実を並べる。ただ正しいというだけではない。彼女の信念にも沿った、否定されようのない事実だ。わたし に責められた後で気分は悪いだろうが、7eを熱愛する彼女は仕方なくうなずく。この後に何を言われるかを予感 しながらも。 「足も長いしきれいにカーブしてる。折れそうに細いのに元気に動く。骨格のフォルムとバランスが神がかって るんだよね。ちょっと日本人離れしてるよあれは。ドイツ……それもパッフェルヴェル系の血も混じってるんじ ゃないかな。顎のラインもシャープだし、何よりもあの天然二重のたゆんだ瞳が、見てるだけでも恍惚とか憂い の感情をくすぐってくる。こうも見事な特徴ばっかりだと神様の作意とか疑いたくなるよね。髪の毛に至っては ――」 「もういい!」  吉住が叫んだ。わたしは織原七重の賛美をやめた。 「わたしが、ブスだって、7eとは似ても似つかないブスだって、そう言いたいんでしょ!」  吉住は拳を握りしめて癇癪を起こした。彼女の心は軋んでいた。自己を直視したからだ。喋り方もたどたどし い。だけどそこに演技は無い。彼女がいま口にしているのは自分自身の言葉だ。 「わたしだって、それくらい、分かってたわよ。馬鹿にしないで。けど、だけど、わたしだって、きれいになり たくって、かわいくなりたくって、ちょっとでもマシになりたくって、それで気合い入れてメイクするくらい、 わたしの勝手でしょ!? 黒野さんには関係ないじゃない、ほっといてよ!」 「ところが分かってないんだよ、吉住さんは。今それを証明するからちょっとこっち来てね」 「え何、なによ」  わたしは吉住を壁に立たせた。狼狽するのを無視してそのメイクを落としてしまう。彼女の顔は裸になった。 わたしの不躾な行為に彼女は抗議した。けど弱々しかった。 「何するのよ」 「鏡を見てみな」  わたしが言うと、彼女は素直に従った。自分の顔を見る。 「だから何? メイクを落としただけじゃない」  その通りだ。映っているのは当たり前の彼女の顔だ。そこにわたしは魔法をかける。 「かわいくなったよ」 「……はあ? 意味分かんない」 「似合わないメイクしてるより素の方が全然かわいいんだよ、吉住さんは」  本心だった。わたしは吉住の肩に手を回す。彼女の性格はもともと素直だ。しかも今はガードが開いている。 精神距離を詰めて密着すれば、こちらの意志を流し込むのは簡単だった。 「わたしは吉住さんが好きだよ。いいなって思うよ」  繰り返す。今ならこちらの好意が抵抗なく浸透するはずだ。 「ただし七重とは方向が違うんだ。吉住さんが嫌じゃなければ、あなたに似合うメイクも教えてあげるよ。きっ と気に入ると思う。ああ、やわこいほっぺが嬉しいな」  そう言ってわたしは彼女のほほに口をつけた。やわらかく。女同士だが安物ではない。他ならぬ黒野宇多の口 づけだ。感触は彼女の脳にまで浸透して、衝撃がハートを撃ち抜いた。彼女の肩の振動から、その手応えが確か に伝わってくる。彼女の頭はわたしで一杯になってしまうことだろう。それは暴走のリスクを招く。普段ならわ たしはこんなことはしない。しかし今回は特別だ。弱っている彼女を7eの呪縛から解かなければならなかったか らだ。わたしからの肯定を得て自尊心が安定すれば、七重になろうなんて愚かな思いは捨てられる。音楽趣味ま では変わらないだろう。しかしそれで十分だ。 「ほら、お目目くりくりだ。すてきなその目でわたし見てよ」  ついでに彼女の物怖じも癒す。人から目をそらすのは見られることの恐怖ではなく、自分が相手を見ているこ とを咎められることへの恐怖があるからだ。見ることを受容すれば、その恐怖を和らげることができる。 「そろそろ戻ろっか。授業が始まっちゃうからね」  わたしはそう切り出した。だけど彼女はわたしの手を掴んできた。わたしは察した。うつむいた顔と朱に染ま ったほほが語っている。まだここに二人でいたいと。触れ合った手から意識振動が伝わってくる。今とても幸せ であると。 「しょうがない子だね。少しだけだよ」  わたしは彼女に時間をあげた。頭を撫でてあげながら坂井終司のことを考える。奴はどうしてこんな風に素直 になれないのだろうか? すぐに答えは出た。人と近づいたその先にあるかも知れない痛みを死ぬほど怖がって いるからだ。彼が抱える精神の歪みは重篤だ。吉住真理などよりも遙かに。  心の底に、あんなに素晴らしい輝きを隠し持っているのに。 ☆  回想を閉じて現実に戻る。吉住真理は死んだ。わたしは廊下にいる。教室を出たところだ。  いずれ手に入れる宝物の大きさにわたしが思いを馳せて心を踊らせていたところに、隣の教室から男子が一人 抜け出してきた。  坂井終司とは似ても似つかない。187cmの長身とすっとぼけた美顔。無闇にかっこいいそのルックスを見てわ たしは笑ってしまい、それを会釈にして手を上げた。彼はぺこりと頭を下げる。  荒野だ。  彼は優秀だ。開口一番に核心を突いてきた。 「まさか黒野さんのクラスで人死にが出るとは思いませんでした。驚きました」  驚いただろう。万能の善意たるわたしが人を救い損ねるのがどれだけ異常なことであるのかを、彼は正しく理 解している。 「残念ながら、見殺しが最善手だったよ」  一言でまとめるとこうなる。それから詳しく説明していく。 「織原七重が危険なのは分かってたんだけどね。彼女の存在が何をもたらすかまでは分からなかった。吉住真理 が死ぬ予想もありはした。けど予想だけなら無数にあった。実際そうなるまではどれも考え過ぎなくらいだった 」  わたしは織原七重を直視しない。共感しない。その内面を見通さない。 「軽々には動けなかったんだ。ほら、織原って痛みからすら何も学べない超越的な馬鹿でしょ。ちょっとやそっ と叩きのめしたくらいではあいつは自分を変えやしない。鼻血吹いても腕の骨折れても大笑いで歌い続けるでし ょうね。つまり彼女を止めるってことは、彼女を殺すかそれに匹敵するダメージを与えるってことなんだ。今と なってはその必要があるくらい彼女が悪質なのは明らかになったけど」 「織原の歌を聴いた人は自殺するんですか」 「みんなじゃないよ」  わたしは答える。 「影響に個人差がある。彼女の世界に魅せられて、そこにどっぷり浸かると死への抵抗が薄くなる」 「心が弱い人ほど、引き込まれやすいってことですかね」 「強さ弱さじゃなくて感受性の話なんだ。心がいくら強くても、感受性が強いと引っ張られるね」 「俺はあの人の歌を聴いても何も感じないです」 「荒野は大丈夫だろうね。そのへん繊細とはほど遠いし」 「でも、そうなると黒野さんは危ないんじゃないですか。感受性、たぶん相当強いですよね」  荒野の指摘はもっともだ。わたしの認識は量も精度も図抜けている。本来織原に一番侵されやすいのはわたし だ。しかしわたしは例外でもある。 「わたしは防げるの。外からのインプットを選択的に遮断できる。感受性を全開にした観察はわたしの武器だけ ど、毒まで飲み込んだりはしない。織原七重に関しては歌も言葉も振る舞いも表面的に認識するだけにとどめて るんだよ。けどそのせいで汚染を受けない代わりに、彼女の本質も見えなくなった。他の人の反応を見て間接的 に類推するしかなかったよ」 「では吉住真理はそのセンサー代わりってことですか」 「あんた気分悪い言い方するね」 「すみません」  荒野は犬なので即座に謝罪した。しかし彼が言ったことは間違いでもない。あけすけに言えば、わたしは吉住 真理を使い捨てのリトマス試験紙にしたということになる。七重の毒性を計るためにだ。人道に照らせば黒だろ う。しかしわたしは省みない。人道は既にあるものを損なわないための教えだからだ。まだないものを求めるわ たしは、規範教条に頼らず自分で答えを出さなければならない。 「吉住真理は末期だった。話しかければ会話は成り立つ。だけど心の底はとっくに冷めきってた」 「冷めてたって、何にですか」 「すべてにだよ」  わたしはこの事態から直観したことを、荒野のためにかみ砕いて説明する。 「彼女を取り巻く世の中の、万象一切余さずすべて。不条理と嘘に満ちた周囲の環境が、彼女は憎くてしょうが なかった。何一つ許す気は無かった。けれど非力で繊細な彼女は他人に暴力を振るえない。だから攻撃は自分に 向かう。かけがえのないものを踏みにじりたい。すべての苦しみの根元であり、幼少期から刷り込まれた『生き なければならない』というしがらみをズタズタに傷つけたい。そうして生きているすべてを侮辱したい。命の重 さがどれだけ自分を苦しめたかを思い知らせたい。生きることの尊さを説く残酷な善意に復讐したい。それは傍 目にはむなしい空回りだけど、手ごたえは感じるはずだよ。自分自身を攻撃すれば、痛みが確かに彼女を震わせ るんだから。家族や友達の涙を想像して悦に入ってたんだろうね。みんなの存在を大きく感じているほどに、そ の昏い悦びも大きいはず。だけど」  わたしは結論を言う。これが事態の核心だ。 「だけど、その甘美で背徳的な境地は彼女自身が見つけたものではない。心地よい調べに呪いを乗せて、その自 覚もなく吉住をあの世まで導いたのがあの脳味噌お花畑のお姫様、涅槃住まいの織原七重だ」  しゃらん、と織原が見得を切った。わたしの脳内で。そろそろわたしにも彼女のビジョンが浸透してきている のだ。心を狂わせる危険を持つこの異物を排斥してしまうことは出来る。だが織原は今や明確な敵だ。敵の情報 が分からん分からんでは話にならない。わたしはひとつ試すことにした。人格構成への影響を遮断した隔離区域 を作って、そこで七重のエコーを飼う。無意識さえ侵されなければ、足を掬われることもなかろう。 「吉住さんは絶望とか苦しみに追い込まれたんじゃなくって、前向きな気持ちで死を選んだんですか。俺には理 解できないです」  荒野が天地が一回転するほど普通のことを言った。その言葉はあまりにも普通すぎて、空気と区別がつかない ほどだった。絶対普通概念・イデアノーマライズドの発動。特に何も起こらない。 「何も理解できない。何ひとつ分からない。そこが出発点だよ。何か分かることがあるなんて思ってると、自分 と違う認識世界に住んでる『本当の他人』に出会ったときにそれをおぞましい異物としてしか捉えられなくなる んだ。目をつむれば気持ち悪さはなくなるけど、その代わり何も見えなくなる」  わたしは荒野に虚空の理論を説いた。虚空と言っても虚言ではない。虚無主義とも違う。この理論は人の心に 内在する魔法とでも呼ぶべき作用にアクセスする鍵だ。今の荒野には分かるはずもないだろうが、こうして言葉 を仕込んでおけばいつか覚醒を後押しするかも知れない。  荒野の反応は率直だ。 「分からないです」 「それでいいよ。分析はこのへんにしてそろそろ方策を固めようか。いつもの絶対解決考法でいくよ。まず問題 の中心は織原七重が死に至る毒をまき散らす怪物であること。彼女の歌は全国に放映されている。もちろんネッ トでも聴ける。既に万単位の人間が十二月から汚れ始めている。震源地は織原七重が在籍するこの学校で、既に 死人が一人出た。このままだとバタバタ被害が増える。現象が進行すれば社会の混乱も起きる。まさに7eは傾世 の美少女、彼女の歌でこの世が狂う。これは武力や法では止められない。本気で死を望む者は止められない。交 渉の席を離れようとする人間に通じる取引なんてないからね」 「俺には、どうにも」  滔々と喋るわたしに荒野が口を挟んだ。 「現実感を持って受け止められないです。本当にそんな大ごとなんですか。そんなことがあったらメディアで話 題になってるんじゃないですかね」 「それはまだ後の話だね。この黒野宇多の膝元で始まっている事態のことを、わたしより早く察知できる人間な んてまずいないよ」  わたしはわざと不遜に断言して見せる。サービスだ。荒野はわたしに漢惚れしている。 ☆  つづく