光あふれて死ねばいいのに09 ☆ 「貝、好きなの?」  集中しているところに話しかければ、どう切り出しても唐突にならざるを得ない。彼女はびくりと振り返った 。けどわたしを見る目は落ち着いていた。彼女は驚いていない。声をかけられる前から視線に気づいていたのに 、それに反応できずにいたのだ。 「うん。模様が綺麗で……」  分かりやすい理由だった。適当に一言で説明を済ませたいならそんなところだろう。実際彼女に、貝の模様を 愛でる瑞々しい審美眼があるのは知っていた。けど彼女が貝を好む理由はそれだけではないはずだ。その生態に も思いを馳せていたのだと思う。 「それ、写真集じゃないんだね」 「あ、うん。ムックなの」 「面白い?」 「うん。このイワガキとか、美味しそうでしょ? 独特の渋みがあるらしいよ」 「食欲で見てたんだ吉住さん」 「あ、いやそれだけじゃないけど」  かつて交わした会話を再生する。外界を遮断した意識の中で、わたしは吉住の死を悼む。どれだけのものが失 われたのかを確かめるために。時間は費やされるが、それでも必要な手続きだった。これを怠ると、感性が曇っ て直感が使えなくなる。思考が理屈頼みになり、発想が言語で意識している枠組みの中だけに閉じこめられてし まう。意志決定の選択肢が激減する。  たっぷりと五分使ってわたしは吉住を弔った。さようなら吉住さん。死後があったらまたよろしくね。手当て したばかりの風穴のふちで、ぷくぷくと小さな泡が弾ける。  比喩表現でぼかしたのは、このあたりが認識の地平線だからだ。霊識のメカニズムはデリケートなので、下手 に言葉で解釈しようとすると傷つき、程度が過ぎれば壊れてしまう。光に晒すだけで灼けるフィルムのようなも のだ。わたしは静けさの部屋を後にして、黙祷から現実に戻る。 ☆  さてと。  授業中だが廊下に出る。みんなの注目は浴びたが、自習時間なので咎める者はいない。寒さに備えてカーディ ガンを羽織った。廊下の窓は曇っている。外は小雨だった。メールで荒野を呼ぶ。すぐに来るだろう。  待っている間に思い出す。 ☆  吉住真理と二回目に話したのは二学期の始めだった。  7eに心酔し、傾倒している人間は多い。織原七重本人が通うこの学校内でなら尚更だ。吉住真理も夏休みを境 にして7eに狂わされた。彼女は変わり果てた姿を晒した。「おっはよーうううわお!」という彼女の一声で、教 室は凍りついた。  制服と鞄につけた、虹色に輝く無数の7eバッヂ。イヤホンからだらしなく漏れる音楽。7eの歌だろう。ピエロ みたいにどぎついべた塗りのアイライン。分厚いくちびるをテカらせるリップ。太い黒眉を目立たせてしまうノ イズ入り薄色茶髪。自己主張過剰な跳ねっ毛パーマ。安易な7eの模倣。7eのファッションは非凡な美貌があって 初めて成り立つものだ。はっきり言って似合っていなかった。無様だった。彼女が元々備えていた大福のような 愛嬌は見る影も無い。メイク時に彼女は鏡を見ただろう。しかし鏡は彼女に現実を見せなかった。彼女は自分の 認識を歪めて7eに似た自分を幻視していたはずだ。その幻想とは逆行して彼女の外見は歪んだ。それは精神の歪 みをも現していた。痛々しかった。  地味な自分から逃げ出そうとした変身のし損ない。それ自体は珍しい話ではない。バンドで隠したリストカッ ト。これもクラスに一人二人いてもおかしくはない。しかしあり得ない。この場合に限っては異常であるとはっ きり言えた。もうこの時点でわたしは気づいていた。  なぜなら彼女は、わたしが直接制御している二年一組のクラスメートだからだ。 ☆  わたしは自分を知っている。  自分の思考のほぼ全域を把握できる。普通ならヴェールで覆い隠されて認識できない無意識をも認識し、それ を言語化できる。  心の奥には、考えるだけで自分を壊してしまうタブーの領域が存在する。それは水たまりのように点在してお り、うかつに踏み抜けば発狂することもある。普通だったらそのはるか手前で思考は止まる。本能的に危険を恐 れるからだ。わたしはそれを無視できる。水たまりをよけて深奥まで踏み込んでゆける。よけられないほど大き な水たまり――『海』に阻まれて止まるまで。その先に何があるのかは分からない。  わたしには思いやりがある。人の気持ちが分かる。それ自体は珍しくもないが、感度が飛び抜けている。その 伝導率は約108%。他人の心情を、その本人よりも正しく深く推し量ることが出来るのだ。それも常に。意識し て拒絶しない限り、周囲の様子から察せられる気持ちをラジオのように受信し続けている。  みんなが楽しければわたしも楽しい。みんなが悲しければわたしも悲しい。不快な感情だけ遮断することも出 来るのだが、自己欺瞞は精神の腐敗に通じる道だ。わたしは極力すべてを受け止めるようにしている。  わたしは自然とみんなが居心地の良い環境を作るように動いていた。そうして初めて自分の居心地も良くなる からだ。周囲から感じ取れる心情の中で、特に苦痛は目立ってわたしの心に突き刺さる。だからわたしはクラス メートの苦しみに敏感になり、優先してこれを防ぐようになった。問題は発生前に無効化するのがベストだ。特 にいじめの兆候を察知したら、未然にこれをかき消すようにしている。クラス用のSNSも構築した。これで携 帯からのアクセスを誘導し、匿名掲示板での中傷を減らしている。  クラスメートの精神の屈折にも丁寧に対処する。すべての問題はここに端を発するからだ。わたしは高校に入 ってから場の感情相関図をかなり精密にコントロールできるようになった。人間関係を悪化させる誤解があれば ただちに正す。乱暴者の攻撃衝動はスポーツ等で発散させ、それでも収まらなければわたし自らが受け止める。 必要があれば叩き伏せもする。勉強の悩みも互いに教え合う文化を作って解消した。家庭に不和を抱えている者 の相談にも乗った。わたしの視界に入る問題という問題を端から殺していった。みんな幸せになった。わたしも 幸せになった。  厄介なのは恋愛感情だった。わたしはアクセスの都合上みんなの友人のように振る舞ったが、そのため多くの 恋慕を抱かれることとなった。男子だけでなく女子にすらわたしを恋い慕う者が現れた。他の女子からの嫉妬も 買った。わたしは人気を稼ぎ過ぎた。当然の結果だった。  強すぎる恋慕は己の身を焦がす。みんなそれを自制する術を知らない。放置すれば周囲は苦しみに満ちたもの になる。その状態はわたしを激しく苦しめるだろう。わたしは対処した。  神を演じることにした。  集まり過ぎた恋慕をコントロールするために、わたしは自分のキャラクターを変えた。それまでの単なる頼り がいのある優等生としての黒野宇多は捨てた。最初は頭を刈り上げたり幻滅必須の醜態を晒す等して自分の魅力 を破棄することを考えたが、クラスへの影響力を損なうのでやめておいた。むしろわたしは自分の魅力を加速さ せることを選んだ。目立つのを避けるために抑えていた性能を全開にして、勉学、スポーツ、コミュニケーショ ン、ファッション、やること為すことを完璧にこなした。なおかつ一切の弱みを見せないようにもした。要する にわたしは天上人となることで、どこにでもいる一人の女の子だという親しみ易さを殺したのだ。わたしにはそ れを可能にするだけの性能が備わっていた。わたしに向けられた多くの恋愛感情は、胸ではなく脳を灼く憧れに 変わった。「この人に求められたい」から「この人は凄いなあ」という視点への変化を誘った。そしてかように 絶対的な格の違いを見せつけられてもなおわたしを求める者に対しては、「神とつき合える訳ないでしょう馬鹿 たれ」と突っ跳ねた。わたしはこうして、みんなの現実に対する浅薄な認識から生じてしまった恋愛感情を容赦 なく薙ぎ払った。  一部の隙もない超人を演じきる。わたしは難なくそれをこなしたし気力を尽かせることもなく続けられたが、 少しだけ心を歪ませたのを自覚した。わたしは少しだけ己を殺していたのだ。わたしは万事において強いが、可 憐な弱者として他者に庇護されたいという欲求も持っていた。それはおそらく女体の本能に根ざしたものだろう 。不要な回路なのだから焼き切ってしまっても良かった。しかしやめておいた。それをすることで別の歪みが生 じてしまう気がした。不合理だが理由もなくそう思った。どうやらこの概念は『海』に繋がっているらしい。そ れに強さを捨てる日がいつか来るかも知れない。何でもできるわたしの中で、この弱さは希有なものだ。やがて 未知の状況で、強さの軸から外れた鬼札が必要になるかも知れない。だから一応飼っておく。  ともあれそのたったひとつの弱さを、わたしは隠し通さなければならなかった。強くあり続けるわたしが弱さ を見せれば、そのギャップは強烈にみんなの恋心を貫いてしまうだろう。そんな本末転倒な事態を招くのは愚策 もいい所だ。わたしは堅牢に「その自分」を封じ、隠し通している。  神となった後はクラスの制御はますますたやすくなった。わたしの極端な崇拝者も現れたが厳しく釘を刺して 暴走を抑えた。  敗者のいないゲームをわたしが続ける限り、二年一組は安泰であった。坂井終司のような例外を除けば、みん な健やかに学校生活を送れていた。 ☆  現状への強い不満が無ければ、変身願望は生まれ得ない。わたしが構築したユートピアの片隅で豊かな読書世 界に身を浸していた吉住真理に、自分を変えたくなるような動機は元々無かった。学校以外で何か悩みがあって もわたしに相談するはずだ。控えめに言ってその程度にはわたしは神だ。そう認識させている。  屈折してしまった彼女が何らかの悩みを抱えていたのは確実だ。しかし彼女はそれを悩みとは捉えなかった。 むしろ希望と見た。だからわたしにも相談して来なかった。ではなぜそこまで彼女の認識は歪んでしまったのか 。それは強い力でねじ曲げられたからだ。現実と理想の絶望的な隔たりを希望に見せかけるたちの悪い夢想が彼 女の思考を腐らせたのだ。彼女にそれをしたのは誰か? 誰ならできる? わたしなら出来る。だけどそれはわ たし自身を苦しめる愚行だ。馬鹿なことはしない。なら誰か。誰が彼女を狂わせたのか。答えは決まりきってい た。  7e。  織原七重。  芸術性を買われてアイドルになるくらいだ。平均から大きく外れた人間だとは思っていた。彼女と対面したと きも、身振りひとつで見る者に良い印象どころか快楽までをも与える特殊な自意識過剰さが感じられた。計算や 訓練で出せるものではない。天性だろう。そこらの人間には決して真似できない。自己制御に長けたわたしなら ば、やろうと思えば意識振動の周波数を調律して彼女のパーソナリティを模倣することは出来るかも知れない。 しかしそんなことをすれば精神を消耗して五分と保たずに気を失ってしまいそうだ。暴走の危険もある。制御を 損なえば、わたし自身が織原七重に染まりきる。戻れなくなってしまう。それだけ彼女の我は強い。精神構造が 人並み外れて異質なのだ。  吉住真理が無惨に歪んだのを一目見て、わたしは織原七重の魅力に毒性があるのを確信した。彼女が展開する 美しい世界に陶酔するのはとても心地よいことだろう。だがその快楽は強烈過ぎる。現実離れした世界観を感情 の源泉に深く刻まれ、七重なしではいられなくなる。満たされない渇望が苦しみを生み、そしてそのことを自分 ではどうにも出来なくなるのだ。自律心の崩壊。堕落。皮肉にも彼女自身の歌がその本質を示している。ぐずぐ ずと腐っていく。ぼろぼろに朽ちていく。  痛かった。わたしの心は栓抜きを刺されたようにキリキリと痛んで出血した。吉住自身もまだ自覚できていな い無意識の苦しみを、わたしは感知していたのだ。彼女の醜態を「二学期デビューし損ねた馬鹿がいる」と笑っ て済ませることはわたしには出来なかった。わたしは対処した。  休み時間になってわたしは、変わり果てた吉住真理に誰よりも先に声をかけた。 「あーの吉住さん」 「きゃー宇多ちゃあんっ! なーああにいー?」  吉住真理は満面の笑みで返事をしてきた。首を九十度も傾けて。重力にもたれて涅槃に身を浸すような独特の 仕草は7eの十八番だ。それを吉住は自分の体で再現しようとしている。夏休みの間にも練習していたと見える。 そして今は7eと同等の魅力でみんなの羨望を引き寄せる自分を幻視しているのだろう。実際には、半狂乱で頭を 振り回す鬼相の夜叉がサルのような奇声を上げているだけだ。怖い。わたし以外のみんなの怯えが伝わってきた 。 「真理ちゃん」  わたしは彼女を名前で呼んだ。精神距離を速やかに詰めた。 「ちょっと真理ちゃんに話があるんだけど、一緒に来てくれないかな?」 「えー宇多ちゃんがわたしに? なんだろお? いいよーいくいくー」  わたしは教室を出る。吉住はぴょんと立ち上がってついてきた。ちょろい。彼女は無防備になっている。 ☆  わたしは吉住に平手を食らわせた。  現実世界の酷薄さを表す明朗な音がトイレに響いた。小気味よかった。 「ひっ……」  吉住もさぞ驚いたことだろう。演技も忘れて彼女はうめいた。それが狙いだった。彼女の薄っぺらなキャラ装 甲は一撃で剥がれた。 ☆  つづく