光あふれて死ねばいいのに07 ☆  黒野は立ち止まった。黙ってこちらを見る。 「あ……」  ぼくは焦った。何か言わなければ黒野は立ち去ってしまう。混乱した頭でぼくは考える。何を言えばいい?  ぼくは何がしたくて黒野を引き留めたんだ? ぼくはどうしたいのか?  ――助けて欲しい。暴力女に、ぼくの机を蹴るのをやめさせて欲しい。机を蹴られたくない。ぼくの机を蹴ら ないで! 「たすっ、……」  しかし言葉は詰まりを起こす。どうにも抵抗が生じてしまう。本当に言うのか? 僕が。黒野に。「助けてく れ」だなんて。そんなすがるようなことを。ぼくが黒野に絶縁を申し渡したのはつい先日のことだというのに。  言いたくない。でも、言わなければ黒野は去ってしまうだろう。机は蹴られる。困る。 「あ、う……」  とにかく発音して時間を稼ぐ。なんとかして……なんとかして、「助けて」だなんて屈辱的なことを言わずに 、黒野にぼくを助けさせる方法は無いものか!  ああ、助けてって言いたくない。言いたくない! 「まあ意地悪はしないよ。坂井くんの心情くらいは読めるからね」  ぼくが黙ってる間に、黒野は振り向いた。そして信じがたいことに、こちらに歩いてきてくれた! 「は? 消えるんじゃなかったの? いいよ戻って来なくって」  暴力女が黒野をののしる。けれど退かない。露骨な敵意をものともしない。 「ごめん嘘はすぐに分かるの。あなたが用があるのは終司くんじゃなくて私なんでしょ。ねえ、川本里沙?」  黒野はその川本の喉を掴んだ。そのまま教室の壁まで押し運ぶ。川本の足はぼくの机から外れた。やった!  これで机を蹴られなくて済む。ぼくは心底ほっとした。  ぼくは再びノートを開いた。  黒野はぼくを助けた。でもそれは彼女が勝手にやったことだ。ぼくは頼んでいない。 ☆ <川本里沙>  苦しくてむせる。呼吸ができない。黒野の右手はあたしの首をがっちり掴んで離さない。力が入らず振りほど けない。もがいているうちに、あたしの背中が硬い平面に押しつけられる。壁まで運ばれてしまったようだった 。 「ばな゛、ぜ……ぐろ゛の゛う゛だ!」  黒野を罵ってやりたかった。けれど言葉は声にならない。 「離さない。簡単には許さないよ川本里沙。あたしの彼氏に手を出しておきながら簡単に事が済むと思っている そのぬるい認識を、まずは正させてもらう」  偉そうな口調で言ってくる。  何これ。何なのこの状況は?  学校の昼休みで、いじめでもないのに、教室の端であたしは首を絞められて死にそうになっている。力一杯も がいてもまったく逃れられない。蹴ろうにも下半身は黒野の足でがっちり押さえられている。自由な腕で黒野の 体を殴りつけるが、こいつはびくともしない。平然としている。  黒野はあたしを見ている。微笑んでいた。そこには身内を攻撃された怒りも、暴力で相手をねじ伏せる興奮も 読み取れなかった。ただ……あたしの反応を見ている。観察している。  突如腕は離された。 「――がはあっ!」  苦しさが限界に達していたあたしは咳込む。 「はぁ、はぁ、はぁ」 「ねえ、何であんなことしたの?」  夢中で呼吸をむさぼっていたところに質問が降ってくる。澄ましたその顔を殴りつけてやろうかと思ったがや めた。この女には通じないだろう。それに、無駄に抵抗すればまた痛めつけられてしまう。ちくしょう。アイド ル。 「何でって……むかついたからよおふっ!」 「なるほど。わたしもだ」  あたしの口が大きく開いた。痛みが腹からせり上がってくる。鳩尾に拳を突き刺されていた。黒野は容赦が無 かった。 「けどね、訊ねているのはそういうことじゃないの。そもそも坂井くんに絡んで来たのは何故なのかを知りたい の。はっきり言って坂井くんはドマイナーだ。人との関わりもぜんぜんない。あんたが坂井くん本人に用事があ るはずなんてない。どう考えてもわたしに関係することだよね。どういう思惑があって、わたしの彼にあんな仕 打ちをするなんて頭悪いにもほどがあることをしたのか、それを知りたいの。答えろ」  次は腕を捕まれ、捻りあげられた。耐えられない痛みではなかった。 「痛っ、いたたたた、折れる、折れる!」 「答えろ」  けれど力は強くなっていく。少しずつ。あたしはすぐに音を上げた。 「あんたの気を引くためよ!」  正直に答えた。なんとも間抜けな答えだが、黒野は笑わなかった。 「なんで?」 「なんでって……あんたは七重に気に入られたからよ! 七重は退屈してる……でもあんたならそれをどうにか 出来るかもって、そう言ってた!」 「退屈? 天下の7e様が退屈? あれだけ日本人の人気をかっさらっといて退屈? それでわたしがそれをどう にか出来るって? 何を言ってるんだろね」  黒野の言い分は正しい。七重の考えることは訳が分からない。 「知らないわよそんなの! 七重本人に訊いてよっ……いたいいたい!」 「それはまあそうするけどね。だけどそれなら、あなたに訊くことがもうひとつある。どうしてあんたが織原七 重の退屈しのぎを手伝うの? 織原七重に自分でやらせとけばいいじゃない」 「……親友だからよ」 「だからさあ」 「いたたたたいたああああい!」  腕の痛みが跳ね上がる。黒野が力を加えてきやがった。 あたしは涙目になる。 「なんで学習しないかな。嘘はすぐに分かるんだってば。ねえ川本里沙、ねえ織原の腰巾着、あんたの人間性な んて昨日の振る舞いで見切られてるの。自分の損得しか考えられない小物のくせに、言うに事欠いて友情なんて 綺麗事振りかざさないでよ。面白いから。あんたがまた痛い目に遭うのが可哀想だから、とぼけようがないよう に質問をバージョンアップするね。あんたが七重の退屈を解消できると、あんたに一体どういうメリットが生じ る訳? 納得できる答えが出るまで離さないよ。昼休みは残り二十分弱、気絶するぎりぎりまでどんどん痛くな ってくよ。答えろ」  あたしは口ごもった。タレント事務所のことは死んでも言いたくない。だけど黒野の予告通り、腕の痛みはど んどん強くなっていく。あたしは涙をこぼした。 「泣いてもやめないよ。わたしが聞きたいのは嘘のない答えなの。だから謝ってもやめないよ。答えろ」  さっきからもうずいぶんと恥をかかされている。それは仕方がない。けれどタレント事務所の事情はあたしに とって一番ナイーヴな話だ。それをみんなに聞かれてしまって、馬鹿にされたらもう生きてはいけない。 「あぁ……」  あたしは自分がどうすればいいのかを悟った。捻られた腕が痛まないように気をつけつつ、黒野の耳元に顔を 寄せる。そして小声で言った。ほかの人間に聞かれないように。あたしが七重のために動いた、その理由を。正 直に。 「……そう。なるほどね」  黒野はここでも笑わなかった。つまらなそうに頷いて、あたしの腕を解放する。あたしは自分の腕をさする。 ああ、痛かった。ほんとに痛かった。 「しょうもない話だよまったく。織原にはよろしく言っておいて。そのうち今日のお礼に伺いますよって」  黒野が顔を近づけてくる。あたしは必死に頷いた。 「おつかれさま。帰っていいよ」  言われたあたしは逃げ出した。うつむく。泣き顔を周りの視線から隠すために。右腕が痛みすぎて走りづらい 。  教室から出る前に吉住の顔が見えた。奴はいかにも心配そうという表情をあたしに見せつけている。わざとら しい。 「あの……里沙、大丈夫?」 「黙って見てたクセにいまさら何? もう話しかけてこなくていいから」  すれ違いざまに吐き捨てておいた。  あたしは廊下を歩きながら考えた。この泣き顔のまま教室に戻る訳にはいかない。何があったかを七重に問い つめられてしまうからだ。奴は嬉々として絡んでくだろう。うんざりだ。あたしはトイレで涙を拭いて、昼休み が終わるぎりぎりで教室に戻った。 「ひどい目に遭ったよもう」  今日のことを七重には、帰りに二人だけになってから報告した。七重は爆笑し、黒野の報復宣言に至っては大 興奮で喜んでいた。この手柄のためにあたしはどれだけ苦しい目に遭ったことか。やることはやったのだからタ レント事務所には連れていけとしっかり言い含めた。絶対に忘れるなと何度も何度も釘を刺したが、七重は笑っ たまま適当に頷くだけだった。まったく信用ならない奴だ。アイドルじゃなかったら真っ先に関係を切ってる。  あたしはとても疲れた。帰ってベッドにぶっ倒れた。  なんか。ばかじゃないのか。 ☆ 「残念なお知らせです。一組の吉住真理さんがお亡くなりになりました」  それが翌朝のホームルームで、唐突に担任から告げられたことだった。  吉住真理。あたしが昨日一組で「もう話しかけてこなくていいから」と絶縁を申し渡した奴だ。彼女がマンシ ョン屋上から飛び降りを決行したらしい。遺書も残っているとのことだった。  生徒たちがざわつく。  担任はあたしらにいくつか注意をした。警察から生徒にも聞き込みがあるかも知れないこと。マスコミの取材 には応じないようにすること。  職員会議で自習になった。クラスの大半は興奮気味に噂話を始めたが、ショックで固まっている子も何人かい た。あたしもその一人だった。  もし吉住があたしからの絶交を気に病んで死んだのなら、原因はあたしにあるということになり兼ねない。馬 鹿な話だとも思う。友達一人から絶交されただけでいきなり死を選ぶなんてことがあり得るだろうか。分からな い。あるのかも知れない。吉住とは小学の頃からの付き合いだ。それに彼女はメンタルが不安定でナイーヴな女 だ。人に嫌われると死ぬなんてこともあるのかも知れない。  あたしが悪いのだろうか。真実がどうあれ、もしそういう話になったら非常にまずい。あたしの立場はすごく 悪くなる。アイドルになるどころの話ではない。シカト、いじめは決定だろう。人を自殺に追い込んだ犯人がク ラスにいたら、みんなで追及しない手は無い。殴る。蹴る。脱がす。撮る。そして脅す。一生搾取できる。ふざ けるな。  人の気も知らないで、クラスのみんなは楽しそうにお喋りしている。中でも一番はしゃいでいるのが七重だっ た。みんな上っ面だけでも「大変なことになった」という顔を見せていたのに、七重が体を前後させて喜ぶもの だから、みんなもつられて笑い出す。吉住の死はこのクラスに笑顔をもたらしていた。  そこであたしはふと気づいた。ぼーっと物思いに耽っている場合ではない。あたしも話の輪に加わらなければ いけない。一人で黙ってて「川本の様子が変だ」なんて思われたら面倒だし、あたしのせいだなんて噂が立ちそ うになったらそれをかき消さなければならない。吉住に言い渡した絶交は吉住にしか聞こえてなかったと思う。 しかし他の誰かにその話をしてないとも限らない。そうでなくても話が転がってどんな言いがかりをつけられる か分からない。  ――黒野宇多がやったのでは?  その発想は天から降ってきた。地獄に垂れた蜘蛛の糸のように。そうだ。黒野は私に向かって宣言したのだ。 七重に報復を行うと。七重は吉住とも多少の親交はあった。本人ではなく周囲を叩くというのはあり得る話だ。 それに黒野は教室で人の首を絞めるような暴力女だ。とどめに彼女は有名人だ。スキャンダルとしてもわたしよ りは彼女が転ぶ方が派手で噂のしがいがある。無理のある話ではない。  大事なのは真実ではなく、噂がその方向に傾いてくれることだ。あたしは話に夢中になっている七重の肩をつ ついた。 「ねえ七重、吉住が死んだのってさ、あれじゃない?」 「お? なーに?」 「七重、前に廊下でさ、荒野って奴にちょっかいだしたじゃん」 「んー、あれか、あったあった」  七重は相づちを打ってくる。この顔は全く覚えてない顔だ。しかし七重が適当なのは好都合だ。あたしは自分 が坂井終司と絡んだことを、さりげなく話から取り除いた。 「それで黒野宇多が怒って、七重に仕返しするって宣言してたでしょ。もしかして……」 「それだあーっ!」  あたしは内心呆れた。どうしてここでこの女は、おもちゃをもらった子供のような顔で喜べるんだろう。 「黒野宇多がわたしのために吉住を殺してくれたんだ!」  七重は馬鹿だ。馬鹿の見本がそこにあった。 ☆  黒野宇多犯人説は七重を放送塔にして学校中に広まった。デマだ。本当の犯人は黒野ではなく七重の方だった 。もちろん直接殺した訳ではないが、ほぼそう言えた。あたしはみんなより早くその事実を知った。七重本人よ りも。  あたしはその日の放課後、学校が終わったその足で吉住真理の家を訪ねていた。自殺の動機を知りたかったか らだ。もちろん奴の心情に興味があった訳ではない。ただ、あたしが関与しているかどうかは確かめておきたか ったのだ。  吉住の親にしてみれば、娘が死んだ直後に訪ねられては迷惑かも知れないとは思った。あたしのせいなら尚更 だ。けどこの際向こうの都合なんてどうでもいい。あたしは一刻も早く事態を把握したかった。  マンションのゲート前。フォンで部屋番号を入力すると、スピーカーに吉住のおばさんが出た。昔のことだが お互い面識はあった。あたしは沈痛な声色を作った。 「あ、あの、こんなときに突然すみません。真理さんの友人の、川本里沙です。彼女さんが死んだなんて、信じ られなくて……。それで、どうしても彼女の気持ちを確かめたくて、あの」  要するに遺書が見たかった。作法なので説明は回りくどくした。入り口の施錠が開く。あたしはエレベーター で七階に上がった。吉住宅の玄関が開き、おばさんは意外にもあたしを歓迎してくれた。 「真理のことを気にしていただいて、本当に嬉しいです。どうぞお上がりになってください。真理はあなたのこ ともよく話していました」  吉住とはだいぶ前から疎遠だった。けどおばさんによれば、向こうはいつもあたしのことを気にかけていたそ うだ。どれだけ友達が少ないんだ、吉住真理。あたしは笑った。おばさんも笑い返してきた。力無く。 ☆ つづく