光あふれて死ねばいいのに05 ☆ <荒野>  隣を歩いていた黒野さんが、突然後ろを振り向いた。つられて俺も振り向く。さきほどすれ違った織原七重が こちらに歩いてきていた。洗顔料のCMで見たのと変わらない、弾むような足取りだ。 「荒野に用事があるみたいね」  黒野さんの言う通り、織原七重は黒野さんではなく俺の方を見ていた。目が合う。何の用だろうか。思い当た る節は何も無かった。彼女は手を振ってくる。  このまま接近速度が落ちないと俺にぶつかることになる。さすがに手前で止まるだろうと思っていたが、その 予測は外れた。むしろ加速してきたのだ。 「はーいコウヤくんこんにちは! ちょっと失礼」  挨拶を返す暇は無かった。織原七重の顔が眼前に迫り、その距離がゼロになる。俺は彼女に肩を捕まれ、キス をされた。 「えっ七重!?」  驚きの声は織原七重の友人のものだった。俺はなんとなく申し訳なくなって、横目で黒野さんの方を見てしま う。黒野さんは動じる様子もなくこちらを眺めている。まあ俺と黒野さんは恋人って訳じゃないしな。 「んふ……」  織原は舌を入れてくる。まんざらでもないので俺はされるがままになっていた。咄嗟に思い浮かんだのは、こ れは落とし穴ではないかということだ。黒野さんの怒りを買う? いやこの人はこんなことで機嫌を損ねたりは しないだろう。あるいは、目くらまし? もし織原のこの行為が目くらましで、視界の外から刃物を突き立てら れでもしたら俺は死ぬ。だがそんな様子もない。そんなことをする理由もない。俺の思考は手がかりを掴めずに 空回りしていた。  いや、怖いのは織原七重の熱狂的なファンたちか。この出来事を知った時に嫉妬に悶え狂うファンの数は百や 二百では済まないだろう。織原自身の人気にも悪影響が出るのではないだろうか。俺は織原の意図がまるで分か らない。  それにしても美人だな。間近で見ていて俺は感心していた。今、俺の視界の半分が彼女の顔で占領されている 。似たような構図をデパートにあった彼女のポスターで見たことがあったのを思い出す。  一分近く経ってようやく織原は俺を解放した。 「七重、何やってるのよ!?」  織原の友人が騒いでいる。当然の反応だと思う。だが織原は気にしない。まるで聞こえていないかのように。 彼女は黒野さんの方に向き直った。 「ねえ、黒野さん」 「なんざんしょ。荒野だったらあげないよ」  俺は居心地が良かった。さっき織原七重にキスされたと思ったら、今は黒野さんから必要とされていることを 実感している。しかし危ないな。俺は拳を握る。油断しないように気を引き締めた。  織原は目を丸くした。「荒野をくれ」とでも言おうとしていて、黒野さんに先回りされたらしい。そして笑っ た。 「ひ……ふっひっひっひっ」  自分の顔を触りながら眉を寄せて笑う。なぜ笑うのか俺には分からない。この女の思考回路が全く把握できな い。 「ふひひ、でも貰うよ」 「あげないよ」  二人は笑っていた。しかしその雰囲気には大きな差がある。織原は自分の体を掴み、嬉しくてたまらなそうに している。一方で黒野さんはいつも通りに余裕のある笑みを浮かべている。これは険悪な状態なんだろうか?  俺は部外者の気分で場を静観していた。一応周囲の位置関係は見ておく。何が起こるか分からない。少しずつ野 次馬も増えている。 「だってー、彼が欲しくなっちゃったんだもん。決めちゃったんだもん、彼は私のものにするって。決まったん だから、あげないって言っても貰うよ、コウヤは」  細い指を唇に当てる。織原の仕草は挑発的だった。 「じゃあ言葉を変えようか。無理だよ。無謀だよ。私から何かを奪うなんて誰にも出来ない。そうでしょ、荒野 ?」 「そうですね」  俺は即答した。迷う要素は無い。 「俺は黒野さんのものなんで、ちょっと織原さんに貰ってもらうことは出来ないですね」 「あんたなに調子に乗ってるのよ!」  一人の女子が、怒声と共に割り込んできた。織原七重の友人だ。黒野さんに食ってかかる。 「この子を誰だと思ってるの? 7eよ? そんな口きいていいと思ってるの? ちょっと学校で人気があるから って図に乗ってんなよ。格下が粋がってんじゃねーよ!」  不思議なことを言う。俺は不思議には注意を払う。この女の様子はまるで虎の威を借る狐だ。格の話をするな らこの女こそが格下にしか見えない。なぜそんなことに気づかないのだろうか、と俺は考える。この女は自分が 見えていないのか。そうでないなら、何かの不意打ちを狙った演技とも見れる。  黒野さんは織原七重から視線を外さない。織原だけを見ている。わめいている女は相手にもされなかったせい でさらに激昂する。 「おるぁ!」  女子は黒野さんに殴りかかってきた。平手じゃなく拳だ。パンチだ。黒野さんは動かない。まばたき一つせず に織原と見つめ合っている。それでもパンチは黒野さんに当たらなかった。軌道が外れていたのではない。黒野 さんの顔に到達する前に、俺が横から手を出して受け止めたからだ。俺は言う。 「やめましょうよ、こういうの」  女は俺を忌々しげに睨む。 「離せよ!」 「お断りです」  離したらまた黒野さんを殴ろうとするだろう。それを許す訳にはいかない。その気にもならなくさせるにはど うすればいいだろうか、と俺は考える。精神に圧迫をかけるべきか。その方法を思いつく前に別の人間が女を諫 めた。織原だった。 「里沙ぁ。面白くないよ、それ」  里沙。彼女は織原に叱られた格好になって抗議した。 「だって七重、私はあんたのためにやってんだよ?」  そうは見えない。この暴走は七重に自己同一化させている自分のための行動だろう。黒野さんに使われる俺と 似ているところもある。違うのは自覚の有無だ。 「この女が七重に逆らうから、」 「里沙」  織原の一言で、里沙の言葉ががぴたりと止まる。タメ口で会話している二人だが、力関係はずいぶんと分かり やすい。 「だって殴れないじゃん」  織原は語る。 「そりゃ黒野さんを今ここで殴り飛ばせたらわたしの曲の売り上げは伸びるよ?」  何を言っているんだろうか。俺は黒野さんへの攻撃と曲の売り上げの因果関係が分からなかった。黒野さんな らなら織原の言っていることも分かるのかも知れない。俺はちらりと黒野さんの横顔を見てみる。織原七重を見 て目を細めていた。何を考えているのだろう。 「けど殴れないじゃん。そこのコウヤくんのお陰で」  それは少し違う。里沙の攻撃くらい、俺がいなくても黒野さんは自力で防げる。黒野さんはだいたい自分で何 でもやってしまう。今は俺の存在の分だけ彼女の手足が長くなっているだけだ。 「そしたらこのドアを叩き続けても、どう転んだってなんも起こんないでしょ? つまんないよ。他のドアを探 さないと。ちゃんと開くドアをね。たとえば死ぬとかさ。死んだ方がまだマシだよ」  なんだこのアーティスト様は。俺は織原の発言の理解をあきらめた。考えても意味が分かるようには思われな い。言ってることに意味があるのかないのか、俺にはその区別がつけられない。  それでも織原の言葉は里沙をなだめる効果はあったらしい。里沙は俺に捕まれていた手を引っ込めると、鼻を 鳴らして引き下がった。  織原はこちらに背を向け、向こうに歩きだした。 「ごめんね、お邪魔しましたー。良かったらまた遊んでね」  後ろ手にひらひらと手を振ってくる。彼女が去る前にと、俺は織原に後ろから声をかけた。 「あーの織原さん」  織原は立ち止まり、視線だけこちらに寄越す。 「なんで俺にちょっかいかけてくるんですか」  彼女の意図を確認しておきたかった。『好きだから』みたいなふざけた答えが返ってきたとしても、その喋り 方だけでヒントになる。何の話かと言うと、俺は織原七重のターゲットポイントがこの俺なのか黒野さんなのか 、を見極めたかったのだ。相手の目的が分かれば対応もしやすくなる。  しかし七重は俺が予想もしなかった方向の発言をした。 「なにが?」  なぜとぼけるのか。 「俺にキスしたことと、俺を貰うと言ったことですよ」 「えー? そんなこと言ったっけ?」  織原は首を傾げる。 「知らないよ。きみが自意識過剰なだけじゃないの? ねえ、里沙?」 「ねー、何こいつ。聞いてるこっちが恥ずかしい」  織原が里沙に同意を求め、里沙はそれに話を合わせる。なんだこの茶番は。 「頭おかしいよね。行こ」  それっきりもうこちらも見ずに、織原たちはこの場を去ってしまった。俺は黒野さんと二人になる。 「何なんですかね。結局何がしたいのかさっぱり分からなかった」  黒野さんは言った。 「織原七重か。ちょっと観づらいけど、彼女はトラブルなんだと思うよ。厄介事ちゃん。とにかく周りをかき回 したい気持ちしか感じられなかった。退屈してるんじゃないかな」 「なるほど」  言われてみるとそれはしっくりくるイメージだった。 「ねえ荒野」 「何ですか」 「なんでキスを避けなかったの?」  あれは不意打ちだったが、確かに回避しようとして出来ないものではなかった。それでも俺は避けなかった。 その理由を問われている。俺は正直に答えた。 「危険を感じなかったからです」 「じゃあ、キスされた時はどんな気分だった?」 「いい気分でした。それだけですが」  俺は正直な気持ちを黒野さんに伝えた。ありのまま、なおかつ誤解を生まないように。 「なるほどね。たまに荒野には心が無いんじゃないかって思うことがあるよ。意思の在りようが極フィジカルだ 」 「俺は鈍すぎるんですかね?」 「いやそれでいいよ。鈍さは堅さでもあるからね。じゃあちょっと荒野、顔を貸して」  黒野さんが俺の頭に手をかけて下ろす。俺は抵抗しない。一時的に身長差がなくなる。そして黒野さんは背伸 びもせずに、俺の頭を抱え寄せてキスする。 「……」  眼前2cmくらいの近接距離で、黒野さんはまじまじと俺を見ている。目を覗いても、俺は彼女の思考は分か らない。しかし逆はどうだろうか。  今日はよくキスをされる日だ。黒野さんと言い織原七重と言い、よくもこんなに人目もはばからず人にキスを するものだ。念のため補足するが、ここは学校の廊下である。 「ふっ」  黒野さんが俺を離した。接触していた唇も離れた。間に引いた糸を、黒野さんは納豆のように指で払った。 「どうだった?」  感想を求められた。俺はここでも、思ったことをそのまま言うだけだ。 「織原七重よりハイスキルです。さすが黒野さんだと、改めて尊敬しました」 「ははっ。いいね。行こうか」  黒野さんは俺の背中を叩くと、廊下を歩きだした。俺は彼女についていく。いつだってそうだ。 ☆ <三人称>  川本里沙は場に流れる風を読んで織原七重に調子を合わせた。しかし荒野同様、織原の意図がまったく掴めな いでいた。 「ねえ七重、結局あんた何がしたかったの?」  駅までの道のりを二十人ほどでぞろぞろ歩いている。その先頭を行く織原に向かって川本は尋ねた。 「えー? 自分の気持ちなんて分かる訳ないじゃん」  織原の答えは簡潔だったが、何も答えてないに等しかった。適当に返事をしながら、商店街の町並みをきょろ きょろ見回している。織原七重の奇態は今に始まったことではないが、川本は不満だった。 「七重ってば! たまには真面目に答えてよ」  織原は景色を見るのに夢中で返事をしない。 「ねえ七重!」  川本は業を煮やして織原の袖を引っ張った。 「あー、なんだろね」  織原は考えながら答える。 「ほら最近暇でしょ? っていうかいつも暇でしょ? 暇すぎて死んじゃうでしょ? 何かをすれば何かが起こ るって思ったんだよ」 「何か……? あの男にキスしたら、何かが起こるって思った訳? そりゃ、七重がキスなんてすりゃどんな男 でも一発で落ちるだろうけどさ」 「実際は落ちなかったけどねー。それでも、黒野宇多の気でも引ければ良かったんだけど、見事にスルーされち ゃったな。どうしたもんかね?」 「え、どうしたもんかねって言われても」 「だよねえ、里沙じゃどうにもなんないよねえ」 「はぁ? 何それ! あんたあれでしょ、要は黒野宇多を挑発できればいいんでしょ?」 「それでもいいし、何でもいいんだけどね。何か起こればいいの」 「馬鹿にしないでよね、そのくらいどうにもなるわよ。あたしがあいつの関心引っ張ってきてやるから、見てな さいよね」 「え、里沙がやってくれるの? ホント? うれしー!」 「その代わり七重あんた、あの話考えといてよ?」 「あの話ね、うんうん、分かった。任せといて!」 「……ねえ七重、『あの話』って、何のことか分かってる?」 「もちろん分かってないけどね。なんだっけ?」 「やっぱりかよ! いや、あの……」 「ん? なになに? 何かな?」 「あーの、あの……」  川本は口ごもった。 「だから、あの、紹介するって……」 「紹介? 何それ?」 「だからさ、あたしを、タレント事務所の方に紹介してくれるって、この話するの、もう5回目なんですけど? 」 「ええーっ!? 里沙を事務所に連れてくのー!?」 「声でけえよ馬鹿!」  川本は赤面して怒鳴った。二人きりならともかく、他の友人がいる前でする話ではなかったと後悔した。 ☆ つづく