光あふれて死ねばいいのに04 ☆ 「なんだよ……直すって」  沈黙が降りる。振り子時計が鳴っている。時間だけは正常に流れている。 「きみは、歪んでいます」  黒野は諭すように、ゆっくりとした口調で言葉を紡ぐ。 「追いかけられたい、女の子に迫られる楽しみを長引かせたい……のかとも思った。でも違う。きみはこの状況 を楽しんでなんていない。心底嫌がっている、それは分かる。けどそれは異性への興味を否定するものではない 。きみにだって確実に性欲はある。それも分かってる。じゃあなんで拒むのか? それは恥ずかしいから。振る 舞いを見られたくないから。心の中を知られたくないから。自分を把握されたくないから。そこは徹底的に防御 する。何人たりとも侵入させない。そのためなら、迫ってくる女の子だって近づけない……そういうことだよね ?」  ぺり。  ぺりり。  ひたひたと迫るように。  心の皮を剥がされる音がする。  ライオンから逃げられないことを確信した鹿はこんな気分でいるのろうか。どこか他人事のように、自分が陵 辱されるのを眺めている。  何が起こっているんだ? 「病的なほどのプロテクションは、自分の中に価値あるものがあると思いこんでいるから。大したものじゃない 、って他人から馬鹿にされることを恐れている。けど固く閉ざせば、絶対に誰にも見られなければ、見透かされ ることも無い。見透かされなければ、自分で自分の心の中にあるものを宝だと思い続けることが出来る。宝であ れば、それを守る理由にもなる。坂井くん、きみは……自意識過剰だ。よくある病気だよ。ただしレベルは最高 峰、本来なら一人で死んでるくらいの重症だ」 「なに一人でべらべら喋ってんだよ」 「あなたのことだよー?」 「もういい。帰る」  ぼくは立ち上がる。黒野は止めなかった。「あら残念」と肩をすくめる。 「送るよ」 「いい。来るな」  黒野は無言で近づいてきた。 「だから近寄るなって!」  ぼくは黒野の体を押す。黒野は抵抗しない。ただぼくを見ている。なんなんだ。怖い。 「えっと」  ぼくは扉に手をかける。去り際に何か言わなければならないと感じた。なんだろう? ああ、分かった。あれ だ。 「やっぱり、黒野と付き合うなんて無理だよ。これで終わりにしよう」 「はあ? 『女と付き合うなんてぼくには無理だよ』の間違いでしょう? 人のせいにしないでよね、坂井くん 」  即座に突っ込みが返ってきてぼくは怯む。くそが! 「それでもいいよ。どっちにしろつき合えない。もう話しかけないでくれ。それじゃ」  黒野が何か言ってくる前に、ぼくは扉を閉じた。拒絶の結界。黒野ならやすやすと突き破ってきそうだけど、 閉めた扉が開けられたりはしなかった。ぼくはすみやかに黒野の家を後にした。  これで終わりだ。  これでいい。これしかない。 ☆ <荒野> 「荒野ーっ!」  黒野さんが、俺の名前を叫びながら飛びかかってきた。俺は体の力を抜いて柔らかく受け止める。19cmの身長 差のお陰で、形の良い後頭部を見下ろせた。この頭脳の中で、俺を魅了してやまない素晴らしい思考が走り続け ている。  放課後はいつも黒野さんと合流することになっている。今日は教室を出たら黒野さんが既にいた。授業が先に 終わっていたようだ。  学校屈指の有名人の奇行に、周りの視線が集まっているのを感じる。どうでもいいが。黒野さんも気にしてな い。むしろ目立つのは好きなくらいだろう。 「いやー荒野は日に日にかっこよくなっていくね!」 「そうなんですかね。黒野さんに言われた通りにはしてますけど。変じゃないですかね」 「ばっちり似合ってるよ! くー!」  黒野さんは俺の胸に顔をすりつける。楽しそうだ。 「いいね、一日一荒野はしたいね!」  俺だけではなく、俺の胸に顔をすりつける行為も荒野と呼ぶらしい。 「でも、いいんですか?」 「何について?」 「いや黒野さん、彼氏できたって言ってたじゃないですか。こんなことして彼氏さん、俺に嫉妬しませんかね」 「あはは、ないない! あいつわたしのこと嫌がってるもん」  黒野さんはぱたぱたと手を振った。 「なんですかそれ。嫌がってる人とつき合えるものなんですか」 「わたしだからね。どうせ最終的には振り向かせられるんだから、そこは気にしなくていいんだよ」  この人の傲慢にも見える自信に、俺は素直に納得する。その根拠を今までいくつも見てきたからだ。この人が 何かを出来なかったのを見たことがない。 ☆ <三人称> 「ぐずぐずと腐っていく。ぼろぼろに朽ちていく。何一つ掴めないまま、何一つ分からないまま、どこまでもど こまでも落ちていく。首まで積もる絶望はみじめで、でも心地よくて、いつまでもいつまでも潜り込んでいたく なる。眠たいよ。眠たいよ。ただ一つの願いは永遠に夜が続くこと。死にたいよ。死にたいよ。手首から砂にな っていく」  織原七重は特別な女子高生だ。プロの歌手をやっている。一年前に女子高生を対象に公募されたオーディショ ンでは審査の揺らぎや情実の贔屓をただ実力のみで楽々乗り越えて、最終選考のスポットをその身に引き寄せた 。霊感のある者なら、その身の周囲に纏われた溢れんばかりの華やかなオーラが見えたかも知れない。彼女には 人並み外れた華があった。  それだけの資質があった。生まれつきの器量の良さだけでは手に入れられない磨き抜かれたルックスに加え、 聴く者の神経を優しく包む美声があった。そのうえ性格は極端に明るい。この年頃の少女は元々明るい者が多い がそれを差し引いても明るい。彼女は昔から笑い上戸でストレスとは無縁の生活を送っていた。その明るさは統 計的には異常値だったが、容姿の良さと相まって強い魅力として周囲に発散され続けていた。まるで一粒の宝石 のように、煌びやかに強く輝いている。  『7e』と書いてナナエと読む。  彼女の顔はテレビや大都市の巨大ディスプレイに繰り返し引き延ばされ、その美声は日本中に響いている。 「約束は果たせない。裏切りが見えているから。さりとて孤独でもいられない。体が震えてるから。気まずさの 沈黙をごまかしで埋めて、心は在処を失っていく。草原の小屋に住んだことがなかった。遠い日に約束をしたこ ともなかった。喜びの日々は過去に遠くて、泣くこともできずにずっと耐えている」  歌詞だけが暗い。花みたいに明るい彼女の所作と陰のある歌声の中で、そのギャップに聴き手は真実を感じる 。社会の表面を覆う笑顔と内実の不協和を七重が奏でたとき、ある者は我が意を得たりと心酔して涙し、またあ る者は最高品質の娯楽体験を得る。 「七重新曲聴いたよー! 超かわいかった!」  七重はクラスメートの女子たちに取り囲まれて喝采を浴びていた。絵に描いたようなアイドルぶりだった。 「ふっひっひ」  七重が笑う。美貌に似つかわしくない下品な笑い方だった。 「毎日専属の車で送迎されてるよ」  七重が喋る。 「笑えるってのはこーいうことを言うんだろね」  七重が顔を動かす。  その一挙手一投足が集中力を持って注目されている。すべての挙動が見る者を刺激していた。七重の笑い方を 真似しだす者までいる。 「あのごめん、そこ俺の席……なんですけど」  七重の半径一机分くらいが女子たちの結界によって進入者を拒んでいる。とばっちりを食っているのは隣の席 の男子だった。 「何あんた。七重の人気に嫉妬していちゃもんつけてんなよ!」  食ってかかったのは川本里沙だった。熱烈な七重の追随者で、取り巻きたちの中でも声が大きい。彼女の怒声 に押されて男子は苦笑するしかなかった。 「いやそんな話してねえよ。教科書取りたいんだよ。テスト近いだろ」 「いま取り込み中なんだよ。見てわかんないの? どっか行けよ。死ねよ」 「いやあの教科書……」 「しつこいよ何なの? 七重とお話したいの? 身分をわきまえろよ。消えろ!」  川本里沙がまくし立てる。まったく会話が噛み合っていない。さすがに男子も罵倒され続けてバツが悪くなり 、すごすごと去っていった。ほかの女子は半笑いで顔を見合わせている。 「ぷっくっくっく……」  たまらずに笑いを漏らしているのは七重だった。囲みの中心で、机に突っ伏して肩を震わせている。 「っははははは、里沙、あんたってほんと最高だね! きょ、ふへっ、教科書くらい、と、取らせてやりゃあい いのに……ふっひっひっひ」  七重が笑い転げている。女子たちはその理由がよく分からない。常人とは違う感性のツボがあるだろう、とだ け認識されている。重要なのは、七重がアイドルだということだけだ。七重が笑えば、女子たちもつられて笑い 出す。  川本里沙は何も、さきほどの男子が邪魔で罵倒した訳ではない。七重のそばで強いシグナルを発したいだけだ 。ただ強いシグナルさえ発していれば、彼女に認識してもらえる。名前で呼んでもらえる。それが分かっている から、川本里沙はとにかく七重のそばで派手な振る舞いをする。正誤も善悪も関係ない。彼女は七重のピエロで あることを選んだのだ。 ☆  生き物は食べないと死ぬ。  そういう意味で、七重の精神は刺激を食べる野良犬だった。「何か面白いこと」にいつも飢えており、貪欲に 周囲を見渡している。食べられそうなものを見つければ、すぐに飛びつく。  ここ一年であっと言う間にトップアイドルの座に躍り出たという事実は七重の飢餓を最高に充足させた。彼女 は自分を取り巻く世界の加速に身を預けた。タレント事務所での手続きから大舞台での躍動まで、すべての景色 が心地よかった。  しかしその充足も長くは保たなかった。その生活はすぐに日常になり、出来ることをこなすルーチンワークに なる。彼女は決して満たされない。新しい何かを摂取し続けていなければならない。彼女は子供のように退屈を 持て余していた。  川本里沙の奇行にしても、七重を楽しませるのに一分と保ちはしないのだ。七重は持続性のある変化を求めて いた。  犬が歩けば尾もついてくる。放課後、七重は二十人近くの取り巻きを引き連れて、大名行列のように廊下を歩 く。アイドルは下校するにも大事件だ。  道を空ける生徒たち。七重は一人一人の顔をスキャンしていくが、特に何も感じない。七重の視線は「見たこ ともない何か」を求めて、四方八方を不規則にうろついている。 ☆ <荒野>  黒野さんと並んで廊下を歩いてると、向こう側から大所帯の集団が近づいてきた。先頭を歩いているのは織原 七重だった。全国にその名を轟かせている有名人だ。 「あいつらか。はっは、狭い廊下で固まりやがって、邪魔くさいなーもう」  黒野さんが気楽に言う。 「このままだと衝突しますね。どうします?」 「よけるよ。ぶつからないよ。相撲じゃないんだから」  黒野さんも織原七重も、質も規模も違うが人気者だ。巨頭同士の意地の張り合いにでもなるかと思ったが、黒 野さんはあっさり廊下の端に移動する。そこにこだわりは無いらしい。  すれ違いざま織原七重はちらりとだけこちらを見たが、興味なさそうにそっぽを向いた。むしろ後ろの取り巻 きの方が、しつこく視線を絡ませてくる。 ☆ <三人称>  しばらくして七重は立ち止まった。 「わっ! ごめん」  真後ろを歩いていた川本里沙が七重の背中にぶつかった。川本はそれも嬉しかった。  七重は振り返り、黒野たちの方を見る。七重は音楽活動や芸能活動で忙しいので、学校の事情に疎い。 「ねえ、あの子誰だっけ」  川本が答える。 「ああ、彼女は黒野宇多よ。勉強もスポーツも出来るっていう、まあただの優等生ね。この学校ではそれなりに 人気もあるけど、七重の敵じゃないよ」  川本は誰かを見下したかった。七重のそばにいれば、黒野のような人気者さえも見下せる。それは川本の精神 をすばらしく落ち着かせるものだった。 「ちがう、もう一人の男の子の方。ちょっと格好良かったけど」 「えっと……確かコウヤ、って呼ばれてたわね。どうしたの七重。気になる? 黒野宇多のそばにいるのが気に 入らない?」  黒野を気に入らないのは川本自身だ。七重ではない。  七重にしてみればどうでも良かった。学校での派閥争いには興味がないし、荒野のことも気にならない。 (格好いい男は格好いいけど、それは格好いいだけであってだからどうということもないよね)  より端的に言えば、いくら格好いい男でもそいつが彼女の退屈を紛らわせてくれる刺激をくれるとは限らない 。だから七重は荒野にも関心を持たない。彼女は正直にそれを言おうとしたが思いとどまった。ひとつ、思いつ いたことがあった。 「コウヤくんは黒野さんの彼氏なのかな?」 「さあ? よく一緒にいるのを見かけるから、そうかも知れないけど」 「そうだったらいいのになあ」  七重がつぶやいた。その意味を川本は理解できない。 「え? あっちょっと、七重、どうしたの!?」  七重が急に黒野の方に向かって歩き出した。川本たちはあわててその後をついていく。 ☆ つづく