光あふれて死ねばいいのに03 ☆ 「漏れた。ミス」  黒野宇多は中指を自分の目元に走らせて、そこに溢れた露を払う。草でも薙ぐように。ぱちぱちと瞬きをした 後は、何事も無かったかのように話す。 「ごめんね。無理言ってるのはこっちなのに、泣かれても困るよね。わたし、一度欲しくなっちゃったら、どう しても抑えられなくてさ。きみはモノじゃないんだから、ごり押ししてもしょうがないって分かってるんだけど ……気持ちが溢れて抑えられなくなっちゃって」  そう言ってる黒野の表情には、もういつもの余裕が戻っていた。さっきまでの自分がどういう精神状態にあっ たのかを、訥々と語っている。  ぼくは彼女を黙って見ている。何も喋らない。優しい言葉をかけるべきかとも思ったけどやめた。図に乗られ ても困るし、何よりつらそうな感じがしなかったからだ。 「けど、訳分かんないよね、きみって」  黒野がぼくの目を見る。物怖じを知らないまっすぐな視線。ぼくは一秒と耐えきれずに目を逸らす。 「これは自惚れじゃないと思うんだけど、わたしってトータルスペックの高い、いい女だと思うんだよね。顔の デザインだってそれなりに印象効果は高いでしょ。男女逆ならともかくさ、なんできみが飛びついてこないのか って不思議だよ。わたしが、まるで何も考えてないみたいに強引にガンガン攻めてたのはさ、まさかそんなとこ ろで読み違えるなんて思わなかったからなんだ。ほら、きみ、男でしょ。ちょっと抵抗してきたってそれは所詮 フリだけで、こっちが積極的になってあげれば、そっちの方から飛びかかってくるかと思ったんだけどねえ」  なに言ってんだこの女は。喋ってて恥ずかしくならないのだろうか。 「ねえ、坂井くん。そこらへんどうなの? わたし、そんなに魅力ないかな?」  ずっと聞きに回っていたから楽だったけど、質問が飛んできたからには答えない訳にはいかなかい。それにし ても、よくそんなことを自分で聞けるな。黒野ならではのあけすけさだ。 「そりゃ、黒野はかわいいと思うよ」 「本当にそう思う? ただし女の子としては別に、とか言い出さない?」 「いや言わないよ。普通に、かなりかわいい方だと思う」 「思う、か……。なんだろ、かわいいってのは単なる客観的なかわいさであって、きみ自信は大してそう感じて ないってこと? 実はホモとか? 女に興味ないとか?」  まったく思わぬ方向から疑問が飛んできた。 「いや、それはないない」 「あっ笑った。でもそれなら何が嫌なの。ぜんぜん好みじゃないとか?」 「いや……」  ぼくは口ごもった。これに答えたら、ぼくが黒野のことをそう悪からず思ってることがはっきり伝わることに なる。 「ちゃんと答えてよ。わたし、言ってくれないと分からないよ。分からないと苛立ってくるよ。苛立ったら、今 度は力任せに押し倒すかもよ?」 「わっ! 待った待った! 言うから!」  腰を浮かせかけた彼女を、ぼくは慌てて制した。黒野は先を促してきた。 「じゃ、どうぞ」 「黒野は……悪くないと思うよ。つまり……うん。悪くない」 「もっとはっきり」 「割と好み……」  ぼそっと言うと、黒野はにんまりとしてきた。なんだこの態度は。「かわいいな」と素朴に思いもしたが、裏 で不吉なものも感じていた。 「じゃあ、なんでキスもしてくれないの?」  どんどん畳みかけてくる。黒野の勢いに押されて、ぼくは言うまいと決めていたことを言ってしまった。 「だって、怖い」 「え?」  黒野が目を見開く。 「怖い? なにが? え、それって、わたしのことがってこと?」 「うーん……怖いっていうか、恥ずかしいっていうか」 「恥ずかしいの? キスすることが?」  まるで分からない、という黒野の表情は初めて見たと思う。それは結構見物だったが、観察する余裕はぼくに は無い。 「そういうの、おかしいと思うし」 「は? え? キスが? え? 何?」  もし漫画でこの光景を描写したら、黒野の周囲は疑問符で溢れると思う。ぼくが言ってることは、そのくらい 彼女を不思議がらせているようだった。 「うーんと……」  言葉にしづらい。それは言いたくないからだ。つまりぼくは、他人に心を開きたくないのだ。そしてそれはそ のまま、黒野と交際を深めたくないという理由でもある。 「そんなの全然したくないって思うし」 「ああおつかれさま。ウソはすぐ分かるよ」 「え」  黒野は鋭かった。したくなくはない。したいと思われたくないのだ。だけど、したいと思っていることはバレ ている。ぼくは無茶苦茶恥ずかしくなって俯く。 「もう、やめてくれよ……」 「ホントに恥ずかしいみたいね……何がそんなに恥ずかしいの? 子供じゃないのに」  触れ合ったら、ぼくのいろんなことがバレてしまう気がして。 「とにかく、したいと思わない訳じゃないのね……じゃあそういうことならもう、押し倒してもいいように思え るけど」 「それはやめてくれ!」  断固拒否、ぼくは大声で叫んだ。しかし黒野はそれにも驚かず、少し顔をしかめただけだった。 「分かってるよ。分かってるって。じゃあさ、坂井くん。キスは我慢するよ。けどその代わり、お願いがあるん だけど」 「な……なに?」 「手、つないでいいかな?」 「手? 手を? 手、ってこの手?」  ぼくはわざと言葉を繰り返したが、あいにく時間を稼ぐにはその言葉は短すぎた。 「そ。ね、いいでしょそのくらいは?」 「……」  ぼくは迷った。正直それすらも恥ずかしいし怖い。けど、これを断ったら逆上して襲いかかられてしまいそう な気もする。ぼくはしぶしぶ承諾した。 「……いいよ」 「やたっ!」  今すぐそうしなきゃ逃げられてしまうとばかりに、左手をガッと捕まれた。握ってきたその手はあたたかくて 柔らかくて、女の子の手ってこんなんなんだ、と思ったけど、そんなことを思ってる自分がすごく恥ずかしくて 、ぼくは気が気じゃなくなる。 「えへへ」  黒野は調子に乗って、握った手をひねって肩までくっつけてきた。 「ちょっと、近い近い! 近づいてこないでよ!」  吐息を、体温を、より直に感じる。どうにかなってしまいそうだ。ぼくは慌てて体を離した。けど、しっかり 握られた手はほどけそうになかった。  正直に言おう。ぼくは黒野のかわいさに頭をやられつつある。ああそうだ。確かに彼女は魅力的だ。それがぼ くと付き合ってるなんて信じられないという気持ちもある。けど、そう思えば思うほど、ぼくの中での抵抗はど んどん大きくなっていく。  ぼくは、ぼくは……。  そしてそれは起こった。  つい……そう、つい、だ。出来心と言うには大げさすぎるくらい、何とはなしに視線が彼女の胸のところで膨 らむブラウスを通過して、ちょっと止まって、ああ……と思ったとき、黒野はそれを見逃さなかった。 「あ! いま見たでしょ!」  ぼくは凍てついた。  ああ、やめてくれ。その先を続けないで、お願いだから。ただでさえ昨日からいろいろとボコボコにされてど うにかなりそうなのに、そんなことを言われたら、ぼくは、 「わたしの胸を!」 「っさい!」  バチン!  まただ。またやってしまった。追いつめられすぎてどうすればいいか分からなくなると、こうなる。ぼくはと うとう黒野に手を上げてしまった。乱暴な平手打ちだ。女の子の横っ面を、自制できずに思いっきりぶっ叩いて しまった。 「……ふ」  彼女は多少でもショックを受けただろうか? そんなことは無かった。いま、暴力を受けてもまったく変わら ずにそこにある彼女の涼しげな微笑みを見てぼくは確信する。彼女は叩かれてもなんともない。余裕を失くした のはぼくだけだ。みじめだった。 「キスは恥ずかしくても、女の子を引っ叩くのは恥ずかしくないんだね」  黒野は何でもないように言った。こちらを責めてすらいない。『女の子を叩くなんて!』なんてニュアンスも 無い、それは淡々とした事実確認でしかなかった。彼女は冷静だ。 「なんでかな? ものの考え方が根本的に人と違うよね」  そんなことを言われても、ぼくには分からない。 「分かった」  彼女は分かったらしい。ぼくには分からない。 「きみは拒絶しかしていない。人と離れる。距離をとる。孤独であり続ける。他人と少しでも関わって、傷つけ られることを心から恐れている。距離をとるためならなんだってするし、距離を詰めることは何もしたくないん だ。なんでかな? どうしてかな? いくら根暗だったとしてもさ、好意を寄せてくる女の子までから逃げるな んて、ちょっと尋常じゃないよね? ああそうか、そういうことか。昔なんかあったのよね?」  彼女が、ぼくを見る。ぼくの目を見る。奥まで覗き込むように。目を見たってそこには人の心なんて映らない はずだ。けど、彼女なら……賢くて勘のいい彼女なら、それが出来てもおかしくないようにも思える。ぼくは、 覗き込まれている。 「うるさい……黙ってろ!」 「臆病だね……弱いのは体だけじゃないんだね、坂井くんは」  頭にきた。ぼくはもう一度彼女を叩こうとした。だが今度は、ぼくの平手は見もせずに掴んで止められた。い とも容易く、事も無げに。 「おっそ。反射神経も運動性能も、わたしの方がいいと思うよ。さすがに男の子だから、力はきみの方があるか も知れないけど……ん、これは、わたしの方が強いか」  ぼくは捕まれたまま振りぬけようとする。動かせない。だからあきらめて手を引こうとする。それでもやはり 動かせない。  ふ、と黒野が笑った。嘲笑だ。 「こうもいろんな方面で勝っちゃうと笑えてくるね。本当は、弱いものいじめ、好きじゃないんだけどね。つま んないから。でも、きみが相手ならちょっと面白くなっちゃうな……好きだから」 「は、離せよ!」  必死にもがくぼくに、彼女は軽い口調で言う。 「まあ、いくら面白いったって、きみの望まないことはしたくないし、離してもいいんだけど。離したらきみ、 逃げて帰っちゃうでしょ?」 「当たり前だ!」 「そう邪険にされちゃうとね。どうせ嫌われるなら、離さなくてもいっしょかなー、とか思っちゃうんだよね」 「ざけんな、自分が何言ってるのか分かってんのか? 無理矢理つかんでんなよ!」 「そうは言ってもさあ、先に暴力を振ってきたのはそっちでしょうが」 「そ、それは黒野が変なこと言うから……」 「ぐだぐだ抜かしてんな。つまんねーんだよ!」  初めて、黒野が叫んだ。ぼくはすっかり縮みあがってしまう。ぼくが叫んだ時とは大違いだ。驚いて声も出な い。  続く黒野の口調はあくまで冷静だった。 「あのさあ、力で圧倒的優位にいるわたしが、殴りかかってくるあんたに殴り返しもせず、襲いかかりもしない のがどういうことなのか、ちょっとは考えてみて欲しいんだけどな。ね、ケンカすんのやめようよ。子供じゃな いでしょ? 坂井くんがわたしを怒らせるのは無理だとおもうけど、それでも、駄々こねるのを聞くのに飽きた ら、ちょっと痛い目見せるくらいはできるんだよ?」  ぼくのプライドをこれでもかというほど切り刻んでくる。完全に、彼女の方が格上だという前提で投げかけら れる言葉。そしてぼくは反論が出来ない。 「おっかしーなあ、分かんないなあ。わたし、坂井くんを部屋に招いたからには、いい気分になってもらいたい と思ったんだけどなあ。あ、今でも思ってるよ? でも、ちょっとその方法が思いつかないんだ。ねえ、どうす ればいいかな? 坂井くん、わたし、きみのためにどうすればいいと思う? きみはどうしたい? わたしにし て欲しいことはないの? わたし、すごいよ? 大抵のことは叶えてあげられると思うんだけど……」  彼女の口調が優しくなってきたから、ぼくは何とか自分の希望を口にした。 「帰りたい、離してほしい……」 「まあダメだね」  正直に言ったのに、即座に却下された。 「意地悪で言ってるんじゃないし、考えもなしにわがままを言ってるんでもないよ? きみが心からわたしのこ とが嫌で、少しも求めるものがないんなら仕方がないんだけど……そうじゃなくて、きみは屈折してるからね。 軽く狂ってると言ってもいい。さっきからうまくいかないのは、きみとわたしで思いが食い違ってるからじゃな くて、きみがきみ自身の中で矛盾してるからなんだよ。そんなのすぐ直すに限る」  黒野はぼくを本気で変えようとしている。ぼくは怯えた。そのとき確かに彼女の顔が、菩薩のように見えたと いう事実に。 ☆ つづく