光あふれて死ねばいいのに02 ☆  地獄の底から聞こえてくるようなうなり声が、石造りの回廊にこだました。響く叫びは衝撃と区別できない。 強烈な不可視の波動がホールの空気を撫でて、老戦士の身体に痺れが走った。黒炭を転がしたような煤汚れが、 ホールのあちこちに出来ている。それを見て老戦士は、気の滅入ることを今さら思い出す。竜は、なんと、口か ら炎を噴射できるのだ。  ぼくは老戦士のスペックを、精魂込めてデザインした。  素早くて脆い。精密にして華奢。無数の武装と技を使いこなし、経験と判断力だけで致死攻撃をかわす。逆に こちらの攻撃は確実に当てて、相手の体力を奪っていく。体力が極端に低い……一撃でも食らえば死んでしまう ほど脆弱。だがぼくはその代わりに、強そうなスキルをありったけ詰め込んで、かつ、状況に応じて使いこなす ように設定したのだ。  マーガレットのキャラクター構築では生命力や攻撃力と言ったパラメータを設定したり、攻撃や防御などのス キルを覚えさせることが出来る。しかし全ての要素を最強に出来る訳ではない。何かを強くすれば、その分だけ 他の何かを弱くしなければならない。強さの合計が決まっているのだ。  マーガレットのルールを見たとき、どのスキルもなかなか強そうに見えた。いろんな敵を相手にしなければな らないことを考えると、どれも捨ててはならないように思える。ぼくは体力を犠牲にして、それらのスキルをほ とんど取得することにした。彼の機転で敵の攻撃をすべて打ち落とせば、体力もカバーできると考えたのだ。  かくして一人の戦士が生まれる。ぼくはスペックが物語る自然なイメージに従い、そのキャラクターの設定を 自分のノートに書いた。戦いの経験を豊富に積んでいるが身体にがたがきている老人。それが彼だった。  老戦士は、若い頃からの生粋の冒険家だ。魔物から奪った宝で富を作った。遺跡から持ち帰った貴重な碑文を 国王に献上して爵位を賜った。美しい妻を娶って家族を作り、それでも危地に赴くのをやめない。まるでリスク に魅入られてでもいるかのように。家庭には冒険で獲得した大金だけ送り、それで家長の務めは果たしたとばか りに、世界各地を放浪する。  妻や娘が愛情の欠如を嘆いた。娘と愛し合う男も現れた。やがて家族が増えて富の分配で争いが起こっても、 彼は関心を示さなかった。齢六十にして、彼の辞書に責任という文字は記されなかった。  彼はあるとき、密林の奥で槍を持った現地人に襲われる。死をもいとわず突攻してくる野蛮人を、老戦士は難 なく皆殺しにした。だが現地人のつつましくも偉大な生活を目の当たりにし、自分が彼らの聖地を不作法に踏み 荒らしていたという事実を知ったとき、老戦士は自分自身こそが生粋の野蛮人であることを自覚した。この現地 人の村だけではない。人と人が共に生きる営み、すなわち人間社会そのものが彼にとっては「向こう側」だった のだ。  人として生まれてきたこと自体が、そもそもの間違いだったのだろうか。彼は自問したが、思考の果てに得ら れた結論はもっと別のものだった。つまるところ、生物学的分類も社会的な位置づけも自分にとっては何の意味 もなく、自分はただ自分であるだけなのだと。彼は自分のためのささやかな宗教を作った。それは信仰対象とな る神すら定められていない、たったひとつの戒則のみからなる教義だ。「言葉を信じるな」。他人の言葉、まし てや自分の言葉はただ言われているだけのものに過ぎない。彼は事実上他者との精神的つながりを一切断ち、す べてが失われた状態を「手に入れた」。記憶と肉体はそのままに、彼は生まれなおした。  そんな彼が世界中から猛者を集う魔女のお触れを耳にしたとき、なぜそこに赴かない理由があろうか。彼が垂 涎してその冒険に挑むのは必然だった。船に乗って海を渡り、老体に鞭打って山を越え、彼はその塔にたどり着 いた。  特別な準備は要らない。彼のザックの中は、あらゆる危地を生き抜くための選び抜かれた装備で満たされてい る。後はすべては現地で学べばいい。自信と慢心の区別はなかった。  そして彼は今、竜と戦っている。  襲われているのではない。間違えてはならない。戦っているのだ。  敵の動きを待ち、その攻撃を打ち落として反撃に転じる。それが彼の戦い方だった。彼が数々の魔境で戦って きた相手は、そのほとんどが知性のない獣や可動植物だった。それらの鋭くも乱雑な動きを捉えて制することは 、彼にとって訳のないことだった。  しかし今回は違った。相手は魔物たちの王たる種族、竜なのだ。灼熱の炎と鋼をも裂く鉤爪、そしてその巨大 な脳によって天候レベルの大規模な未来推測を得意とする自然界の覇者。竜は招かれざる客を見ても、すぐには 動こうとしなかった。相手の出方を待っているのだ。狡猾だった。歴戦の老戦士と同じように。  気を抜いた方がその隙を突かれるという状況で、結局焦れてしまったのは老人の方だった。まだ精気を保ちつ つも干からびつつある彼の脳細胞が、長時間の集中に耐えかねたのだ。老人は左手のボウガンを竜の目に向けて 正確に撃つ。放たれた矢を竜は、わずかにだけ首を動かして頬骨に当てる。矢は堅い皮膚に弾かれ、無力化され てしまう。  しかしそれはフェイントだ。ボウガンと同じ速度で同時に駆け出していた老人は、横を向いていた竜の頭上を 軽々跳び越えた。ボウガンで狙ったのとは反対側の目を斬りつける。刃の切っ先が竜の瞳孔に逼迫し、視界と集 中力を削げる致命打が決まりそうだった。しかし瞬間、老人の体は横から吹き飛ばされる。尻尾で弾かれたのだ 。丸太のような打撃を受けて老人は右腕と肋の骨を折り、脾臓と大腸と右肺をつぶし、さらに壁に叩きつけられ て左肩の骨と頭蓋骨も破損し、朽ちた人形となって床に落ちた。尻尾の一振りだけ。それで老人の一生はあっけ なく終わってしまった。  竜は大きく息を吸い込むと、ガスバーナーのように炎を吐いて、床に落ちたゴミを焼却する。床に残ったのは わずかな煤だけだった。 ☆  一連の計算を終えて、ぼくはボールペンを置いた。あまりの出来事に頭がくらっとした。心の整理が必要だ。 ぼくは胸に手を当てて、深く吐息をつき、目を瞑った。数分間のあいだ老戦士の死を悼んだ。たとえ架空の出来 事とはいえ、人が一人死んだのだ。  目を開く。  蛍光灯に照らされた机の上の明暗。黒野宇多の整った小さめの文字。それらは遠く、今までとは意味の違うも のに見えた。  人が死んでも世界は回る。だがこのゲームではどうなのだろう。負けてしまったら終わりなのだろうか? こ の先に宇多が用意した世界は、日の目を見ることなく葬られるのだろうか? 黒野のノートには、キャラクター が死んだら最後のページを開くように書いてあった。ぼくは指示に従った。そこには挑戦者死後の説明があった 。  このゲームは何度でも挑戦して良いらしい。プレイヤーであるぼくは、次なるキャラクターを作成して塔に挑 ませられるのだ。なるほど。そうやって試行錯誤を繰り返しながら、塔のより上層に上れるキャラクターを考え てみろということか。  しかし、その前に開かなければならないというページがあった。筆ペンで大きく「首斬帖」といタイトルが書 かれていた。続いて、戦死したキャラクターの名前とスペックを書けという説明があった。  ――黒野宇多!  全身が総毛立つ。なんて発想だ。なんて冷酷なことを考える女だ。死んだキャラクターを書き連ねるという「 首斬帖」。これは彼らの安らかな冥福を祈るための墓なのだろうか? そんな訳はない。そんなものではない。 あまりに儀式が雑過ぎる。無機質過ぎる。むしろこれは、どんな敗者がこの塔の犠牲になったのかという客観的 なデータの記録だ。こんなことをして何になると言うのか……ぼくは、黒野が死者たちのデータを見て冷たくほ ほえむ様を想像し、心底震えた。まるで悪魔じゃないか。  それがどれだけ非道なものであろうとも、しかしルールはルールである。システムはシステムだ。ぼくは左手 で胸をきつく掴みながら、老戦死の名とスペックをそこに記した。自分が動かすボールペンの一筆一筆が、まる で死体を切り刻んでいるかのような嫌な感触をぼくの手に伝えてくる。  書き終えた。投げ出すようにペンを置く。疲れた。今日はここが限界だ。ぼくはスタンドの電気を消した。机 の上に出したノートやペンはそのままに、戦いの疲れを癒すためにベッドに潜り込んだ。夢見は悪そうだった。 ☆  黒野宇多は学校ではまず話しかけて来ない。人前では話しかけてこないで欲しいと言ったとき、彼女は「当然 」と答えてくれた。学校中の人気者である宇多に話しかけられたら、ぼくは確実に目立ってしまう。ぼくは目立 ちたくない。彼女もその辺のことはよく理解してくれているらしかった。  だから毎日授業が終わってから二時間後くらいになって、ぼくは彼女の家に行くことになっている。最初は気 が重かったが、今はそれどころではない気分だ。黒野もぼくと同じで部活には入ってないらしいが、放課後も学 校で色々とやることがあるらしく、二時間という間を開けている。ぼくは一度自宅に帰って着替え、何やかや一 人の作業をしてから彼女の家に行くようにしていた。  薄緑のブラウスにデニムという出で立ちで玄関のドアを開けた彼女は、笑ってぼくを迎え入れた。ぼくは笑え なかった。  彼女の後をついて階段を登り、部屋に入れてもらう。彼女の部屋は相変わらず清潔で片づいている。コーヒー も出してくれた。 「どうだった? マーガレットは」  話題なんてそのことくらいしかない。それは分かっていたけれど、マーガレットの名を聞いて肩を動かしてし まう。恐怖が悟られたかも知れない。しまった。昨日みたいな醜態をまた晒すのは御免だ。 「……凄かった」  最も無難な印象を口にした。嘘ではなかった。マーガレットは……あのシステムもお話も含めて、まるでぼく のためにあるような世界だった。 「それだけ?」  小机をはさんで向こうに座っていた彼女が、机の脇からこちらに身を乗り出してくる。近づく顔は美しい。い つもどおりの余裕のある表情。笑いを隠しているようにも見える。  一方でぼくは怯えていた。彼女の接近によって誘発される、ほとんど欲望と言っていいような感情が、悟られ てしまっているのではないかという不安。思わず目をそらして後ずさる。  その頬に、くちびるに、触れてみたいとは思う。思うが、その気持ちが相手にばれるのは絶対に御免だった。 恥ずかしすぎる。情けなさすぎる。そんなのは、まるで相手の魅力に屈するようなものだ。向こうは自分の魅力 を確信して確実にいい気になるだろう。それに屈したこちらを舐めてかかってくるだろう。最悪すぎる。 「それを作ったの、あたしだよ? この宇多ちゃんだよ? どう思った? すてき、うれしい、とは思ってくれ なかった?」  思えなかった。なによりも恐怖が先に立つ。しかしそれすらも、向こうには知られたくない感情だ。弱みは見 せたくなかった。  しかし、そうするとぼくは感想をどう言えばいいんだろうか? ぼくは気持ちの表現に窮した。彼女はどんど ん近づいてきて、ぼくの目を覗きこんでくる。そこから心が晒されそうで、嫌だった。 「やめろよ」  ぼくはじりじり下がる。しかしそれより速く彼女は近づいてくる。 「なんで? なんでここで拒むの? わたし、そんなにかわいくない? 嫌? あのノートも、坂井くんのこと を考えて一所懸命書いたんだよ? 坂井くん、気に入ると思ったんだけどな。気に入ったら、好きになってくれ ると思ったんだけどな。わたし、どこで的を外してるのかな……」  そんなことを黒野は言う。  ぼくの答えははっきりしている。理由は、怖いから。  黒野宇多は確かにかわいい。ぼくが嫌なのは触れることではなく自分の心を晒すことだ。彼女のノートはよく 出来ていた。心に刺さり過ぎるほどに。怖いノートだ。こちらの心を的確に掴んでくる。だからこそそこに身を 委ねてしまったら、どうなってしまうか分からない。 「やめろって。来るなよ。こっち来るなよ!」  ぼくは左手で彼女の肩を押し退けようとした。彼女は右手をそこに添えて、軽くさすってくる。鳥肌が立ち、 ぼく手を引っ込めてしまう。接近を押しとどめられない。彼女がさらに近づいてくる。  限界まで――  触れてしまいそうなほど近づいてから、しかし黒野宇多は強引に最後の一押しをしてはこなかった。教室で告 白してきたときと同じく、ぴたりと止まって、それ以上は攻めて来なかった。  あきらめてくれたのか。ほっとしていると、彼女はひどくうなだれて喋らなくなった。そして、目からぽろぽ ろと涙をこぼした。  顔を覆わず、肩を震わせもせず、唇を噛んでとても静かに泣く。目も閉じない。その様子は――矛盾した表現 になるが、溢れ出た自分の感情を、意に介してないようにも見えた。 ☆ つづく