[0-773]
HP114/知1/技4
・改竄時計/40/0/16/封印/防御無視
なし
男。
時計館"最果て"及び、違法カジノ"屋根裏"のオーナー。
文字盤の仮面と帽子を一年中被っている背の高い痩せ男。詩人を自称する。訳あって暗示の技術を持つ。
かつては金持ちの屋敷に忍び、屋根裏から屋敷の柱時計に恋い焦がれる時計職人だった。
ひょんな事からある一夜を境に莫大な資産を手にしたサルバーデルは、金持ちから柱時計を買い取り旅に出る。
行く先々から気に入った者だけを連れて、サルバーデルと12人で幾つもの街を巡る。
後にリリオットで精霊に興味を持ち、時計館を建てて其処に12人と留まった。
時計館の名前は"最果て"。其処にはサルバーデルの集めた様々な時計が飾られているが、其れは表向きの姿である。
屋根裏へ上がれば、ルーレットやスロット、ブラックジャック、ポーカー等の取り揃えられた違法カジノ"屋根裏"となっている。
尤も、サルバーデルに気に入られた者にしか知られていない為にカジノはあまり賑わっていない。
eika
星の見下ろす頃にもなると、形だけいちおう見に来た客たちも、いや珍しい物を見せて貰いましたと言って、装飾の施された大きな戸口を押し開けて時計館を出て行く。私はと言うと、その度に形だけいちおう、またいらして下さいと言わなくてはならなかった。
ちょうど館の入り口の柱辺りに立って、はて、これでもう客は全員帰ったのだろうかな、という風に私が首を傾げていると、胸に勲章を付けたお仲間が階段脇の扉を開けて、私に近付いてくると話しかけてきた。
「もう皆さんお帰りになられたようですよ」
私はこの言葉を聞くと、随分と晴れやかな心もちになると同時に、そろそろ新しい友達が此処を訪れはしないかと、少しく不満を覚えた。
「喜ばしくも退屈な事だよ。人生たまには刺激が欲しいじゃないか。人生を謳歌するなれば、幸福の連続だけは忌避すべきだ。私は、自分自身の人生をより良い物とする為に、餌を与えてやりたい。たった一つの大きな目標を達成する為の糧とし、今を食い繋ぎたい……」
私は、其処まで言ってから、まったく嘆いていても仕方の無い事だという事に気が付いて、一つ咳払いをした。勲章を付けたお仲間は、私の話を表情を表さずに静かに聞き入れ、其処に佇んでいたのだが、私が合図を出すと館内の照明を落としに再び奥へと戻り始めた。私は彼の後にくっ付いて行ったが、途中で勲章のお仲間と別れると階段を昇り始めた。階段の踊り場まで来ると、恋人の姿が見えた──彼女はせっせと振り子を揺らしていた。私は恋人の時を刻む姿に暫しうっとりし、恋人が私の為に休まず働いてくれる事を、日頃の事ながらも感動を覚えて、思わず腕を伸ばして抱擁し、ケースにキスをしてしまった。そのまま暫くは抱擁の姿勢を崩さずに居たのだが、零時を告げる恋人の声に起こされ、私は身体から腕を解くと頭を掻いた。
「君は、容赦無く時を刻む。私は君の、そして君達のそういう所が愛おしくて堪らないのだよ」
私は彼女から離れると階段へと向き直り、手すりを擽りながら階段を昇り切った。直ぐ傍の小さな扉を潜り、白黒のツートンカラーの廊下を渡り、壁に飾られた一枚の絵を前に私は立ち止まった。油絵の具で描かれた……それは、ひどく物静かで騒がしい、塗り潰される時計の絵であった。旅の途中で出会った画家から私が買い取ったものだ。私は絵をすっかり見据えると、静かに足を擡げて──靴の踵を素早く三度鳴らし、それから咳払いをした──重い音と共に、壁が割れた。
「どうぞ、お入り下さい」
割れた壁の奥には、髪のリボンで飾り立てた、可愛らしいお仲間の姿が見えた。可愛らしいお仲間の立つ部屋を照らす物は、まるでテーブルの上を揺らめくスタンド・ランプの灯くらいで、こうして廊下からぼうと立ち眺めると、なんともあの宝石のような生き物たちの泳ぐ、水族館の水槽を思わせるのだった──すると私はこの部屋の中に踏み込むのがなんだか恐ろしくなって、怯えながらも一歩、また一歩という風に足を前へと踏み出さなくてはならなかった。私がこうしてすっかりと部屋の中へ立ち入ってしまうと、可愛らしいお仲間が取っ手を引いて、壁を閉じてしまうのであった。いや、なんということの無い、快適な水槽じゃないか……。
私は安心すると、今度は部屋の奥へと進み、其処にある梯子に手をかけると、ぐいと身体を"屋根裏"まで押し上げてやった。
屋根裏──それは私の思い出の場を再現して、其処に幾つもの遊び道具や、机、椅子、食べ物なんかを持ち込んだ簡単なカジノだった。賭博の法で禁じられているリリオットのこと、私は時計館に訪れた者の中から、気に入った者だけを招く事で、こうして世の目を免れてて遊んでいた。……尤も、此処は私が儲ける為の場では無い。私は、屋根裏をあくまで遊び場として考えていた。それ故に、1ゼヌから遊ぶ事ができ、決して大負けが出ぬように掛け金の上限も定められていた。
友達のうち一人が連れてきたらしい蛇が、私の足元ををうろうろと散歩していた。踏まないように気を配りながら辺りを見渡すと、猫背のお仲間が弾くピアノの調、その最中、3人の友達がネクタイのお仲間を交えて、今、ポーカーの手を明かすところらしかった。ネクタイのお仲間がカードを総て捲った──ハートとクローバーのキング、ジョーカー、ハートの8、ダイヤの9。つまり、キングのスリー・オブ・ア・カインドだ。其れを見て乞食風の格好をした友達は、にんまりと笑みを浮かべ、手札を晒した。此方はスペード、ハート、ダイヤのエース、スペードの5、ハートの7。エースのスリー・オブ・ア・カインドだ。
「貴方は三連続も同じ手ですな、いや、しかしお生憎様ですがね、どうやらこのゲームは吾輩の勝ちのようですよ」
泣き顔の友達が手札を静かに捲った。ダイヤのエース、スペードの2、クローバーの3、クローバーの4、ジョーカー。ストレートである。チップを叩き付けて、乞食風の友達が悔しがった。
「やられたぜ、もう少し、あんたの動きを見張っておくべきだったかな」
泣き顔の友達は隣を向くと、このゲームを降りた友達に声をかけた。
「貴方は上手い事免れましたな」
その友達は蛇を手元におびき寄せながら、微笑んだ。
「"弟"が僕に教えてくれたんですよ、重複するカードがあるってね」
「それはいけませんな、蛇の奴に屋根裏を散歩しないよう、しっかり言いつけて下さいよ」
3人の友達は愉快そうに笑い合っていた。
さて、私は戸棚からビスケットを取り出し、皿に盛りつけるとテーブルまで運んだ。
「皆さんお楽しみのご様子。どうですかね、御飲み物でも」
友達はみなポーカーに熱中していたと見えて、私が声をかけると、今やっと気付いたという風に此方に顔を向けた。
「やあ、楽しんでいますよ。ミルクに蜂蜜を入れていただけますか」
泣き顔の友達がチップを掻きまわしながら言うと、乞食風の友達が下舐めずりをした。
「キャローレルがまだ残っているか、そいつを頼む」
「のんだくれめ。僕は水で良い。弟にもあげてくれ」
蛇飼いの友達は、蛇をマフラーのように首に巻き付けていた。
「畏まりました」
友達の注文した品を揃える為に、ポーカーのテーブルを離れるとカウンターの辺りへ向かった。
ああ、楽しいじゃないか。気の合う仲間と、友達に囲まれて。それで退屈だなどと、それこそ要らぬ心配というものじゃあなかったかね。私は、この楽しみという奴を、よくよく眺めまわしてやらねばなるまい。さもなくば、消えぬものも消える、という事じゃあないかね……。
私がそんなふうに物を考えていると、梯子を昇ってくる者があった。学生服のお仲間と、首にバンダナを巻いたお仲間が、街から帰ってきたのだった。
私は、彼らの方に近寄ると、やあ、お疲れ様という風に声をかけた。しかし、二人とも表情がいつもと違った様子で、私はどうしたのだろうと思っていると、バンダナのお仲間が何やら耳打ちをしようと、私の耳元に口を近づけてくるのであった。私は、彼の話す言葉の数々に耳を傾けていると、自分で私の瞳が爛々と輝いて行く様子が解った。血が沸き立ち、熱くなってくるのが解った。心臓がカチカチと音を立てるのが解った──楽しい期待!
「おお、私の仲間たちよ!先ずは礼を言おう。だがね、私は心配だよ。君たちは、其処までの事をしてくれなくても良いのだよ。君達は、私の事を良く考えてくれて、それは本当に嬉しい事なのだけれども、我々は貧弱だからね。私は、君たちのような同じ趣味を持った──そうとも、時計についてよく知り、ちょっとした賭けなんかで盛り上がれる友人を──気の合う友人をみすみす失う訳にはいかぬのだから」
二人の仲間は暫しの沈黙のあと、私の言葉に無言で頷いてくれた。
私はその様子に満足しながら、これからの事に胸を期待で膨らませていた。
『おお、幕が上がるのを見たぞ、舞台がやってきたぞ。我々役者は舞台を歩き回ろう、帽子を被り、仮面を付けて、手袋をして。着飾って逍遥しよう。ガス灯の合間を泳ごう。満月の夜には帽子を夜高く放り、それを受け止めよう。意味も無くわあと叫んで煉瓦の道を踊ろう──ともすれば、楽しい事しかないさ』
サルバーデルはこう言った。
はて、彼女は何をしているのだろうか。
私が良い傭兵を雇いにふらふらと街を彷徨い歩くと、酒場の辺りで、東洋風の衣装に身を包んだ、白髪の娘をみつけた。
見れば彼女は芸を披露しているらしく、箒を弦楽器のように抱えて何やら歌を歌っていた──歌の言葉には聞き覚えがあった。確か、東の国の言葉だったか。
私は、暫しその歌声に耳を傾け、やがて歌が終わると、欠伸なんかをしている人の脇を通って彼女に声をかけた。
「解りかねる!貴方のような者が何故、このような事をしているのか?」
彼女はキョトンとした表情で私の顔を見ていた──いや、彼女だけでは無い、その場に居合わせた幾つもの視線が私を向いていた。全く、散歩とは気苦労事だ。何処へ行ってもこうなのだ。
私は周囲をじろじろと眺めてから、わざと大きな音を立てて咳払いをしてやると、白髪の娘へ向き直った。
「これは失礼しましたな。私は其処らで小さな時計館を開いている、サルバーデルという者です。もし宜しければ、少しく私の話相手になっては頂けませんかな?」
私がそう言うと、彼女がはっとした表情をすると、名乗りを返してくれた。
「私は、カラスと申します」
カラス!何とも澄んでいて、綺麗な名前だろうか。
「宜しい!ではカラスさん、其処のテーブルで食事でもしながら……と言いたい所ですがね、どうも、ちと人の目が騒がしいですな。外の澄んだ空気でも吸いながら、そうだ散歩でもしませんかね。いや、人間、健康が一番ではありませんか」
私が彼女を誘うと、どうも彼女の瞳からは不安さが見て取れたので、私は言葉の端に付け足した。
「なに、お礼はしますよ」
さて、私はカラスを連れて、館の奥の部屋まで案内した。
廊下の壁や、棚などに飾られた時計達を物珍しそうに眺めるカラスに、幾ばかりかの思い出を語ると、それもまた随分と懐かしい事のように思えた。
──やめるんだ。やめたまえよ!私は喜劇役者なんだ、君も、よくそうやって変な事を思い出す人だな!せめて君が、幕の落ちるまで待っていてくれても、誰だって「それくらいが当たり前だ」と、まぁ仰られるでしょうな。じっさいのところ、駒鳥の死から、葬式までの距離も無いのですからね……。
茶色の扉を潜ると、ちょうど少年のお仲間が、広い机の上に紅茶とビスケットの皿を用意し終えたところだった。私はお仲間に礼を言うと席を外させ、机の奥の方へと回り込み、どうぞ其処の椅子へおかけになって下さいと言った。
「失礼します」
カラスは丁度机の真ん中に位置する椅子を引き、その椅子の高い背に、ぴたりと背を合わせた。それから私も丁度向かい合うような形になるよう椅子に座った。
「急に散歩に連れ出して、すみませんでしたね」
私がこう言うと、カラスは恭しく首を振り、いいえと答えた。
「こんな場所に時計館があったなんて知りませんでした。様々な時計が見れて、楽しいです」
「時計に興味を持つ人は、そう多くありませんから、傍目には誰も気付かないんですよ。然程目立たぬ位置にある訳でも無しに、それでも人の目には映らないのです──不思議とお思いですかね。しかしその為か、此処には様々な方がお見えになります。例えば乞食のような恰好をしていて、しかし実際は真逆のような立場の──」
ぐう、と突然にカラスのお腹が鳴った。
刹那の沈黙が流れ、カラスが恥ずかしそうに脇に目を反らした。
「──其処に積まれたビスケットの蓄え分と紅茶は、総て貴方のものです。どうぞ、遠慮なさらずに」
「いただきます……」
余程飢えていたのだろうか。ビスケットを一つ摘み、それを口に運んだカラスの面持ちはすぐに、見ている此方が嬉しくなるような微笑みの形になった。
それからより一層勢いを増して、一つ、また一つとビスケットの山を崩して行くカラスの姿をしばらく眺めていたが、山がついに平坦になりかけるとそれを止めて、私は話を切り出した。
「率直に申し上げますと、私は貴方を雇いたいと考えているんですよ」
カラスがビスケットを運ぶ手を止めて、此方をじっと見つめた。
「ええっと、雇う、と言いますと」
「カラスさん、貴方はこの町の不穏な空気や、噂なんかを既にご存知のようですね」
カラスの瞳に物悲しさが灯るのが解った。
「この時計館は私と、私の仲間達でひっそりと営んできたものです。今は度々此処を訪れてくれる、素敵な友達さえ居ます。退屈もありますが、しかしすべて私の愛したものたちです。……それでも、我々は武力には脆く、それらの脅威から身を守るすべを持ちません。この歪んだ空気の中では例え何が起きても、まぁ、誰も嘘とは言えないでしょうな──しかし、貴方の話を聞いたり、その身体つきを見れば、どうやら貴方の力は確かな物らしい」
私は椅子を鳴らして席を勢いよく立ちあがり、上半身だけ机に乗り出す姿勢を取ると、少し大きめの声を出した。
「カラスさん、貴方には、私の愛するものたちを守って頂きたいのです」
此処までを私が一度にまくし立てたものだから、私が急に言葉を噤んでからも、少しの合間、カラスはぽかんと口を開けていた。それから私の話した事をようやく呑み込めたと見えて、慌てて喋り出したものだ。
「な、なるほど。守る、と……って、もしかするとそれは護衛の依頼、なんでしょうか。しかし戦闘には許可が……ああ!」
何か事情があると見えて、カラスはおぼつかぬ様子で物で何かを言いかけては、言葉を詰まらせるという事を繰り返していたが、ふいに部屋に響いたノックの音にやり取りの手は止まった。
私が扉の方へ身体を向けて、入るようにと声を投げかけると、間もなく「失礼します」という返事が聞こえて、銀のトレイを持った、背の高いお仲間と太ったお仲間が部屋に入ってきた。
彼等の持つトレイの皿にはそれぞれ、狐色のターキー、ボロネーゼ・パスタ、舌平目のムニエルや、ウミガメのスープ、クリーム・アイスのクレープ、それからベリーソースのケーキ、計6品の料理が乗せられていた。それらは部屋に良い匂いを振り撒きながら、テーブルまで運ばれてきた。目の前に手早く並べられる料理の数々を、カラスは目を丸くして見ていた。
私は彼らの料理を並べ終るのを見終えると、カラスへ声をかけた。
「これらは話に付き合って頂いたお礼です。宜しければどうぞ、お腹一杯召し上がって下さい。腹が減っては馬、角を生ずとは、確か東の国の諺でしたかね。まぁ、依頼の件は良くお考えになさって下さい。もし考えて下さるのならば、いつでも時計館へ御出でになって下さい。願わくば、良いお返事をお待ちしていますが……」
「アンナ……、アンナ。聞いておくれ。楽しい話なんだ。君も楽しい話は好きだろう。なんたって、私と君は、旅の始まりから終わりまで、ずっと一緒だったんだからね。覚えているかい。思い出せる事ならばいくらでもある。初めて君を見つけたことも、あの一夜の賭けの事も、まるで奇跡のような出来事だったねえ。君を買い取って、そうさ、すぐに街の外へと踊り出したものだ。屋根裏の外は広くてねえ、まるでこの世には果てが無いかのような気すらしていた。幾多の街を巡ったものだ。数多の人と出会ったものだ。錆びた街で被虐の犬と友になった。戦いの城では優しい兵士が逃げ道を教えてくれた。東の国では怪盗少年の死を見届けて、嘘吐きの街でマフィアの抗争に巻き込まれた。鏡の街では失踪事件の謎を解いた。仲良しの街で孤独な少女画家と語った。空へ延びる脚立塔に登り、空の天井に触れた。別れ行くサーカス団の最後の公演を見た。パレードの行進でやたら元気なご老人を見かけた。幸せな村では、……悲しい事が起きた。だけど友の墓を立てて、それでも私たちは旅を続けた。月と星の夜を、街の端から端まで歩いたこと。旅の途中で彼らと出会い、ともに冒険したこと。最初の友達であった君が身代わりに倒れたこと。何もかもが忘れられない。本当に、私たちの旅は、はてしない物語だったんだよ。そうだ、アンナ。君は見たかい。今日のあの、可愛らしい客人を。聞けば東の国の侍だという。真昼を散歩していたら、やたら大きな看板の店をみつけたんだ。なんであんな大きさなんだろう。そこで彼女は──彼女と呼ぶべきだろう──箒を抱えて歌を歌っていた。歌の調は巧緻に揺らぎ、鮮麗な展開が空を焦がす情景を想起させた。私は目を見張ったものだ。というのも、彼女の歌は生き物のそれであるにも関わらず、あれは、作られた人間の形をしていたからだ。だからアンナ、今一度、退屈の奴を憎んでやろう。『さまよういとしき小さな魂よ、私の肉体に仮に宿った友よ、おまえは今どこへ旅立とうとしているのか』──しかし、平穏な余生など、そのようなものはご遠慮願いたい!ご覧、幕が上がったんだ。今こそ私には、着飾る為の舞台衣装が必要だ──そうとも、マダム・コルセットが薦めるような、それはいっそう優れた衣装でなくてはなるまい。そうだろう、アンナ……」
仮面の男は月と星の夜を、恋人と共に屋根の上へ、柱時計の発条を巻いて、千夜一夜を刻めるように。
カラスを連れて、展示室の一つへと案内した。扉を開けると、壁にかかっているもの、棚に飾られているもの、展示台に置かれているものなど、二十四個の時計が展示されていた。
「この部屋の時計を総て手入れして下さい」
「解りました」
私が手入れ道具の箱を差し出すと、カラスは手入れ道具を手に取り、早速仕事へ移った。カラスの仕事ぶりといえば、見事なものだった。
発条の緩んでいる時計や、重しの落ち切りそうな時計は巻き直し、部屋を飾っている時計の名札をちらと見ては、それが水気に弱ければ乾拭きを、特殊なものならば薬を用いて拭き、さもなくば水拭きを行う。指示した通りに、素早い動作で手入れを仕上げてゆく。しかし、ふいにカラスの手が止まった。
「サルバーデル様。あの、これは……?」
戸惑う様子でカラスが私の方を振り返った。私は、なんだろうと思ってカラスの傍へ寄ると、どうやら『見えない時計』と綴られた展示台を前に──その展示台の上には何も無いのだ──成す術を無くしているらしかった。
私はカラスの耳に届かぬよう小さな声でクスクスと笑うと、大真面目な声で言った。
「それはご覧の通り、見えない時計ですよ。どうぞ、丁寧に磨いて下さい」
私がこんな事を言い出すものだから、カラスは神妙な顔つきをして、展示台の上の空に向かって何度も手入れ用の布を近づけたものだ。しかし、いくら探しても時計の表面に布をうまく当てられないと見えて、カラスは何度も頭上に疑問符を浮かばせていた。
その様子を見ていると、ついに堪らなくなって、私は大きな声を出して笑い声をあげた。
「ははは、それは嘘に気付くまでを量る時計とも言うんですよ。嘘吐きの街で仲良くなった男から買い取ったが、結構な値がしたものだ」
そう聞くや否やカラスの表情は一瞬真顔になり、えっ?という表情を浮かべたが、直ぐ揶揄われた事に気付いて、溜息に近い笑い声を漏らした。
「そんな、あはは……面白いジョークですね」
私は、自分ではかなり愉快な冗談だと思っていたので、はて、何処か面白く無かったかなとひとしきり考えると、誤魔化すように咳払いをした。
「カラスさん、貴方は物覚えが早いです。この様子なら、私が見張らずとも問題無さそうですね」
カラスは嬉しそうな表情を浮かべ、丁寧に返事を返した。
「お褒めに与り光栄です。サルバーデル様」
「さて、私は少し、散歩へ出かける事にしよう。解らない事は私のお仲間に尋ねて下さい。昼食も彼等が用意してくれるでしょう」
「畏まりました。お気をつけていってらっしゃいませ」
カラスはそう言うと深くお辞儀をした。私はカラスの言葉に頷くと、背を向けて部屋から出る際に一言添えた。
「これからは、あまり大切なものを落とさぬように……」
「……回りくどい真似をしおって、この老いぼれをどうするつもりじゃ」
夜空の下、月灯りがリリオット卿の表情を奇しく照らし、その魔力の成す業か、まるで嘗ての威厳を取り戻したかのような卿とその従者の姿が其処にあった。
「ごきげんよう、リリオット卿」
そう言って私は挨拶をしたが、卿の表情は険しく、私を睨んでいた。卿のそんな態度に、私は少し腑に落ちかねた。
「その反応は、ちと不服ですな。狼が吠えるのはつかの間の蝋燭が消えるまで。こうして私が照明を落とさねば、どうなって居た事か」
私はそう言うと肩を竦め、首を横に振った。
「そのような奇妙ななりをして、一体何を信用出来る。仮面を外したらどうかね」
「そのようなことは、まるで無用の心配だ! もし私が貴方なら、自分の仮面の中よりもマドルチェ様の安全を考えますがね」
私がわざと大きめの声でそう言い放つと、卿は激しく瞬きし、震えた声で問いかけた。
「何か知っているというのか」
卿はそう言うと急に押し黙った。私の言葉を待っているようだった。間もなく、私は語り出した。
「ムールドという男は、彼奴は危険です。──彼奴がマドルチェ様を攫ったのは、魔女の水晶でマドルチェ様の心を操るため。彼奴が今宵訪れたのは、卿の命を奪うため。彼奴がマドルチェ様を帰らせたのは、その罪の総てを負わせるため」
私はそれだけ言ってから一呼吸置き、最後にこう付け足した。
「此の脅威についてよく知る私だけが、魔女の水晶を砕き、マドルチェ様を取り戻す事が出来ましょう」
私がそれだけ語り終えると、卿は訝しげに眉を潜め、よりいっそう懐疑の瞳を私に向けた。
「魔女だと、妙な事を言い出す」
リリオット卿! と私は叫んだ。
「大切なものは今や狂気の亡霊に憑かれ、やがて退屈である事にすら疲れたのです。もはや脅威は貴方の想像している以上に大きな獣へ、その姿を変えようとしている。つまり私が何者であれ、私は貴方の味方だと、そう言わざるを得ない。リリオット卿、どうか事態をご理解下さい」
私は半ば彼を宥めるよう、十分に気を使ってそう言った。だが、リリオット卿は肩を震わせた。
「馬鹿馬鹿しい……、馬鹿馬鹿しい! そんな戯言など──」
しかし、従者が卿の肩を掴んだため、其処で言葉は途切れた。
卿は暫く言葉を詰まらせたが、急に肩を落とし、項垂れた。
「本当に、マドルチェを救えるのはお前だけなのか」
卿は信じたく無い、という風に弱々しく言葉を発したが、私が「いかにも」と伝えると、また小さく息をつき、それから弱々しい声で言った。
「良いだろう、時間をくれてやる。だが、マドルチェに少しでも危害を加える素振りを見せたなら、その時は……」
従者が動き、風切り音が私の耳元を霞めた──蝶模様の短剣が一瞬見えた──すると、私は何だか愉快になってきて、歌を歌いながら二人と別れる事にした。
「口先だけで実のない男は、雑草だらけの庭のよう──」
マドルチェが右手を翳すと、耐え難い苦痛が私を襲うのが解った。
間もなく意識が遠のきだし、眼前に噴き出した眩きは湯気のように渦を巻いて、視線で追い切れぬ速さのまま肥大して行く。
身体が熱い、それでいて悪寒がする。心臓が出鱈目に時を刻み、もう壊れそうだ。視界は捻じ曲がりつつある。──だがしかし、彼女が手を下すと共に苦痛は夢のように引いた。
つい今まで、すぐ傍の空を漂っていた目も眩むような輝きも、ふいに私の身体にすっかり収まり消失してしまった。
「何故でしょうね」
マドルチェは目を見開き「どうして」と、唖然とした表情を向けて呟いた。
「──じっさいの所、何故なんでしょうね。如何して死なないのでしょうね。私は、旅が好きでした。未知の冒険に心躍らせました。時計が好きでした。美しい彼等の元に在れる事を心から喜びました。仲間や友達と共に喜びを分かち合う事もあれば、別れの日には涙を流しました。そういった大切なものの一つ一つを、私は心から愛しているのです。そういったサルバーデルという一人の人間は、御伽話の、ブリキの木こりでもなければ、案山子でもない筈なのに。そうだ、総て夢に違いない。我々がそれを考えるよりも早くに夜が来るのだから。眠りは我々から考えを奪い去ってしまう。まだやりたい事もあったのに。やり残した事ばかりだ。私も純粋であった頃に戻りたかった。だがしかし、君はそんな事を気にしなくて良い。総て忘れたまえ、楽しみごとの前の晩には誰もが眠りに落ちるべきだ。だってそうでしょう。夜の間は、夢が強くて全く、仕方ないのですからね……。さあ、おやすみなさい!」
「マドルチェ様」私がそう呼びかけると、床に崩れ落ちていた彼女は瞳をゆっくりと開けて、虚ろに視線を彷徨わせていたが、その先に私を捉えた。
「貴方は、誰?」静かに口を動かして彼女が言った。
「……そんなことよりも、外でお爺様がお待ちですよ」私はそう言って窓の方へちらと目をやると、見下ろした先に二人の姿を見た。
「おじいちゃんが?」と、彼女が心配そうに尋ねた。
「ええ。──今まで、本当に辛かったですね」
彼女の元へ歩み寄り、手を差し伸べると、おずおずと戸惑った彼女だが、仕舞にはそっと手に捕まり、その身体を引き起こす事が出来た。
「きっと、解って貰えますよ。勇気を出して、お爺様に本当の気持ちを話して御覧なさい」
私がそう言って微笑むと、マドルチェは小さく頷き、ぱたぱたと足音を残して部屋の外へと駆けて行った。
それから私は、床に散らばった水晶の欠片を拾い集めると、誰も居ない部屋を出た。
じきに夜が明ける。
「おかえりなさいませ……って! ままま、マドルチェ様!」
「おじゃましまーす!」
マドルチェを連れて時計館へ戻ると、出迎えたカラスは吃驚仰天してきゃあきゃあと叫んだ。
「ふふふ、お客さんですよ。落し物を探すついでにね」と私は言った。
マドルチェは両手を背に隠して──こっそりと箱を背に隠しているのだ──カラスの傍へ近づいた。
「この前は道案内ありがとう、カラスさん!」
「へっ、あっ、いえいえ! 当然の事をしたまでですよ」そう言うとカラスは照れた様子で頭を掻いた。
「それで、お礼にって、おじいちゃんが持たせてくれたの」
マドルチェが背に隠していた箱を前につき出すと、カラスに向って「開けてみて」と言った。
私はきっと、あれは、絡繰り箱に違いないと思っていたので、もしそうだとしたらカラスはどんな反応を示すのだろうかと、よくよく注意深くカラスに注意を向けていた。
しかし、カラスが箱を空けると、どうも特別に仕掛けがある訳でも無いらしく、それどころか 彼女は瞳を輝かせるのだった。
「わあっ」
目をやれば丁寧に組まれた紙の箱の中に、苺のホールケーキがすっぽりと収まっていた。
「おやおや、それでは折角ですから、お茶でも淹れて一緒に召し上がる事にしましょうか」
私は近くに居たネクタイの仲間に声をかけ、お茶の仕度をするよう伝えると、調子良く一つ手を打った。
「ではカラスさん、彼女を応接室まで案内して下さい」
「解りました。……それではお嬢様、どうぞ此方へ!」
「わーい!」
カラスに連れられるマドルチェの後に、私も続いた。
張りつめた後には、紅茶の香りの、私の心をなんと穏やかに慰めてくれる事だろうか。
連続する幸福に劇的さは無い。ならば、私は少量の毒を飲もう。幸福たらしめる為に。
ケーキナイフを操り、カラスは私の分のケーキまでをも切り分けようとしたが「お腹が空いていないので、私の分は結構ですよ」と言って断った。
それから私は他愛ない世間話を持ち込んだつもりが、マドルチェにとってそれは余程面白かったらしく、随分とその、在り来たりな肴で盛り上がってしまった。──じっさいのところ、このテーブルを囲んでいるのは、つい最近になるまで全く関わりの無かった三人なのだ。私にはそれが愉快でたまらなかった為、その後の話には其々の思い出話に耳を傾け、一時を楽しんだものだった。
「……それでね、お爺ちゃんが優しくなって、これからは自由に外へ行っても良いって!」
「わあ、良かったですね。それは本当に、良かったですね……」カラスはハンカチを片手に、涙を浮かべて頷いていた。
それから、ふいにカラスとマドルチェがこちらに目を向けた。
「サルバーデル様のお話もお聞きしたいです」
「そうね、気になるわ!」
二人とも期待を瞳に灯すので、私はううむと考えた。
「幾多の街をも廻った私は、其の話の多くを旅先に配ってしまったから。さあ、どうしたものか……」
しかし、積もる話も冒険譚も抱えていた為に、まぁ、出し渋る事も無いだろうと考えて、私はこう語り出した。
「かつて──」
「私は、最初の友達に、ある一つの物語を伝えた」
「役者として、舞台へ上がってみませんか?」
こう言って私は、カラスとマドルチェの二人に提案をした。
「えっと、役者ですか」
カラスが首を傾げて、言葉を聞き返した。
「ええ、先程話した物語。其れを、このリリオットで上演しようと思うのです。リリオット卿が丁度、何かこの街で楽しい事を出来ないかと仰られていたので」
私は右手の人差し指をピンと立てて顔の傍まで持ってくると、指で空を一つ掻き混ぜた。
「このリリオット中を幸福に包む、それは大きな催し物となる事でしょう」
「面白そう!」
マドルチェがテーブルに乗り出してきた。
「ええ、ええ、そうでしょうとも。お二人とも、素敵な魅力を持っていらっしゃる。綺麗な衣装で着飾って舞台へ上がれば、誰も名優として不十分とは、まさか言えぬ事でしょう」
「わ、私は気恥ずかしがりなので……」
カラスが脇に目をちらちらと反らして、小さな声で呟いた。
「カラスさんは必ず出て下さい」
「あ、はい」
沈みかけの陽は空を焦がし、街並みを紅の色に塗り潰していた。一度は訪れた場所でさえ、また別の時にその姿は大いに異なっている。時に、残酷を思わせる程にも。
君は、本当は気付いているのだろう。思い出さないふりをする事すらも偽り、なのではないかね。
建物から出てくる少年の姿を見つけた。凛々しい顔つきをして、白いローブを纏っている──尤も、建物の影から踏み出すと共にその色も姿を変えてしまった。私は彼の傍へと近付くと、彼が此方に気付くのを見て、それから語りかけた。
「美少年の君よ、その力に魅せられてしまっては、時のきまぐれな砂時計も、いのちを刈る鎌も無力になる」
少年の表情をも夕日は焦がす。
「お迎えにあがりました。不死の王、ウォレス・ザ・ウィルレス様」
揺るぐ音を響かせながらも馬車は進む。
こうして自動で動く乗り物に乗っていると、その窓はさながら額縁となりて、飾られた絵は、まるでリリオットの街並みの行進を描いているかのように思えた。──その行進の、なんと奇妙な事だろうか! その行進と言えば、端では無く真ん中だけを空けて、規則的に前進する街灯もあれば、形の合わぬ建物の群れが気まぐれにゆっくりと通り過ぎて行くのだ。空の色もちょうど赤と青の交わり初め、夜は星の浮かび上がる頃合いで、その光景を幻想的に彩っていた。
「儂はもう、お主の言うウォレス・ザ・ウィルレスでは無い。何故お主は、儂に御伽話の服を着せようとするのじゃ?」
沈黙を破り、ウォレスが問った。
「其れを望むものがあるからです。その為に舞台が存在する。──貴方様の名演を、誰もが心待ちにして御出でです」
行進に目を向けたまま、私は其れに応じた。
「『舞台に上がれ。歌い踊れ』か。ならば、お主の言う舞台とはなんじゃ?」
「精霊の街リリオット、その全土」
「意気地なしのライオンが何度も死を味わい、実は総てを知りながらも最後は少女と別れたように。御伽話は今、最終章の頁に移ろうとしています。やがて街を常闇が覆い、羊が溢れ出し、リリオットは最後に夢を見るでしょう。──それは幼い頃、暖炉の炎のはぜる傍で聞いた夢。楽しみごとの前の晩には誰もが眠りに落ちます。だから我々は参りましょう。御伽話たらしめる為に」
ウォレスは少し考える素振りを見せてから、こう返答した。
「ただの夢など見飽きた。だがリリオットの見る夢はさぞかし美しかろうな」
相掛け岩と精霊の広場、──リリオットの街の特色たる、精霊採掘における資源置き場。其れは名に恥じぬ程にひらけた地だった。
其処に数十日とかけて巨大に、巧緻に組み立てられた装飾の舞台は、それだけで一つの芸術とも言えるだろう。
作らせた72個の金属の像は大きく、小さく、尖ったような形もあれば、ひしゃげた形の物も、抽象的な形のそれらは観客席を囲むように並べられていた。
広場のあちこちに、其処で争いが起こらぬよう、大勢のリソースガードの傭兵達が配備されている。
我々が十分に街の端から端まで逍遥したお陰か、黒髪も、金髪も、地位ある者も、乞食も、こうして舞台から眺めると沢山の姿を見る事が出来た。
畜群ともなったざわめきの音は、まるで大海、その波の調のように、或いは不気味な獣の声のように私の耳へ届いた。
「ようこそ御集まり頂きました、紳士淑女の皆様」
私は舞台へ上がり、大衆に大きく手を広げて礼をする。
波の音は静まった。
「──本日当舞台へ御出で下さった事は、真の幸福、感激至極で御座います」
「さてさて、本日お目にかけます演目は、未だ誰も見ぬ世にも珍しい一つの物語。演目を披露するは、20人の名優たち。
皆様は、もしも自らが物語の中の登場人物であったなら、そして、もしも美しく楽しい物語の主役であったならとお考えになった事はおありでしょうか?
想像より広く、期待よりも高く、──そして時に喜ばしく、時に悲しく、此処にあるのは幾個の物語で御座います。
たかが劇と言わせはしません。ご覧下さい、そうは言わせぬ程の鮮やかさを。アーネチカ、ある少女の物語を!」
再び私が大きく礼をすると、舞台は拍手に包まれ、幕が昇りはじめた。
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「アーネチカ、君の腕は大したものだ! 我がサーカスにおいて君の評判は、絶えず窓辺から差し込む月明かりのようだ。私も団長として鼻が高い」
仮面に表情を隠したまま、団長が笑う。
アーネチカを含めた13人の団員達と1人の団長はサーカス・テントの脇に燃える焚火を囲っていた。
「ありがたいお言葉です。団長」
「さて、いよいよ明日は、我々の最後の公演だ」
「この日の為に、今まで練習をつんで参りました。どれも難しい演目ばかりですが、必ずや成功するでしょう」
団長は頷くと空を見上げて語り出した。
「思い返せば我々は、このサーカスの行き着く先、別々の街で出会ったものだ。私を含めた誰もが、みすぼらしい人生を送っていた。──しかし、だからこそ我々は知ったのだろう。見えぬもの達がある事を。そして、そんな者達も人の心を照らす程の輝きを持っている事を。だからこそ」
「その剣も私を殺せぬ」
アーネチカと暴君を除いた12人が糸が切れたように崩れ落ちる。
暴君が言う。
「無駄だ、万の軍勢を動かしたところで、故郷を持たぬ者に私は裂けぬ」
アーネチカは叫ぶ。
「貴方は自らを飾る為だけに、多くの者を無情にも殺した」
暴君が笑う。
「ほう、そうかね。……だが、意思の薄い彼らを殺める事の何が悪い。彼らを幾らでも殺す事の何が悪い。彼らは悪人だというのに!」
「貴方がそう作ったのだ」
「良き王である為だ。それによって救われるものはあまりにも多い。──そうとも、多過ぎたのだ!」
暴君が再び笑おうとした時、それをアーネチカが斬りつけた。暴君は咄嗟に身を翻す。
暴君の腕が裂かれ、血が滴り落ちた。
「お前は、その意思は……」
暴君が逃げ出し、アーネチカはそれを追った。
アーネチカが歌に誘われるまま顔を出すと、紳士が佇んでいた。
「お嬢さん、踊りへ出かけましょう」
アーネチカは困った顔をする。
「でも、一人では外に出てはいけないって」
「なに、新月の夜に紛れれば、誰も気付かぬ事でしょう」
紳士が優しく囁いた。
「私なんかが行っても良いの?」
「勿論ですよ、お嬢さん」
アーネチカはうんと迷ったが、ついにその小さな手を差し出した。
「良いわ、何処へでも連れて行って」
紳士が少女の手を取る。
「宜しい。其れでは参りましょう! 開いた窓からこぼれる灯りを置き忘れ、歌と踊りの夜会へ。……だけどアーネチカ。私は、もういかなくては」
ふいに紳士が手を放した。
幕が下り始める。
「待って、サーカスの最後の公演は、暴君の結末は、舞踏会の続きは……」
「時の針が止まる時、総ての魔法が解ける時、どんなに美しい衣装だって片付けなくてはいけない」
「続きは、君が綴るんだ」
幕が落ちた。
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アーネチカはある朝目覚めると、自分の姿がみすぼらしい娘になっている事に気が付いた。
あれ程美しく、アーネチカを飾り立てた衣装は何処にも見あたらない。
騎士の名を呼ぶが、返事も、姿も無かった。
部屋の壁にある大きな窓から外を眺めると、世界を黒い幕が覆っていた。
目を開けているのが怖かった。
目を閉じてしまうのが怖かった。
アーネチカはもう一度騎士の名を呼んだ。
ふいに、アーネチカは、手に何かを持っている事に気が付いた。
其れは、空を飾るだけの、何の変哲も無い一つの衣装掛け。
アーネチカは其れを見て思い出す。騎士と出会ったあの日の事を。
部屋中を引っくり返して漁った。
見つけた。石を、地図を。
アーネチカは物語の欠片を拾い集める。
欠片を手に取る度、アーネチカの周囲を光の粒子が舞った。
形のあやふやな光は彼女を慰めているかのようだった。
一夜限りの夢は朧げでこそ美しい。
泡沫は色々の輝きを受けて弾ける。
物語は終幕する。いつかは本を閉じねばならないのだ。
そんなこと、アーネチカにだってわかっていた。
目を閉じると、記憶の中で騎士がアーネチカを呼んだ。
アーネチカは返事をしなかった。
頬を暖かいものが伝った。
わがままなのはわかっていた。
でも――それでも。
大切な、大切な物語たちを胸に抱き、アーネチカは祈った。
―――――――もしも、果てをも超えられるのなら―――――――
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。
物語に雫が落ちた時。
欠片たちは輝きだした。
光の渦はアーネチカを白く塗りつぶし。
彼女に翼を織り上げた。
闇は晴れた。
部屋は花になった。
空に終わりは無かった。
アーネチカはどこへだって行けた。
迷うことなく飛び立った。
物語はアーネチカの全てを祝福した。
彼女はその大きな翼で風をも掴み、果てをも超えて何処までも行くのだ。
柔らかな微笑みを携えて。
――――――何処までも。
何処までも!
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二時間に渡るアーネチカの上演は無事に幕を閉じた。
夜を星が飾る頃、舞台は月灯りと精霊灯の下に照らされていた。
我々20人の役者は舞台袖から出て幕の前で一列に並ぶと、観客席から止め処無く拍手の大雨が降り注ぐ。
私は列から一歩前へ踏み出して、高らかに声を上げた。
「皆様、如何でしたでしょうか。皆様、お楽しみ頂けましたでしょうか。もしそうならば、我々も本望で御座います。その為の舞台なのですから。その為の役者なのですから」
私はエヘンと咳払いをすると、心のうちで笑った。さあ、喜ばしくも悲しくも時は来た。最後に退屈の奴を憎んでやろう。
「──いやいや! 勘違いなさってはいけません。夜明けを告げる鐘まであと暫く、まだまだ演目は御座います。古城に住む不死の魔法使い、自律する金属の少年、千の果てをも見通す女、金銀財宝の獣、鉄の竜、銅の虎、それから偶像たちのパレード! そして、最後に白い光に塗り潰されて、美しくも儚いこの舞台に幕が下りるのです。……それはリリオット中を舞台とした、何よりも大きな、正真正銘最後の催し物なので御座います」
私が此処までまくし立てると、人々の表情からは変化が見て取れた。訳も分からず微笑みを保っているもの、告知に無い演目に疑問を浮かべているもの。観客席の端々から囁きが浮かび上がり、其れは次第に数を成しどよめきへと変化して行く。
お構いなしに私は、次々と言葉を紡ぎ出し、強く叫び続けて行く。
「人は誰しも生まれつきの役者。何者でも無かったが故に、何者かになろうとするのです。綺麗な衣装で身を飾り、おとぎ話の主役に憧れて。しかし、やがてそれだけでは飽き足らず、さらに綺麗な衣装を探すでしょう。月夜の舞踏会か、それとも未知の冒険の旅か。──だが、あまねく物語には果てがある。これでおしまい、という時がやがて来る」
「ならば私は名優を集め、今ここに千夜一夜の果ての物語を紡ごう。この、お世辞にも美しいとは言えぬ不格好な舞台、其の終わりに、英雄達の姿を迎えて」
月灯りを遮り、大きな影が舞台を隠した。
『──まだない話をしよう』
騒ぎの影に紛れて私は夜を行く。
魔方陣から発せられる光は街中を昼間のように照らし、まるで水族館の中にでも迷い込んだかのような心もちであった。
しかし、この幻想的な姿も、あと十時間もすれば炎と冥王毒に飲まれ、総ては朽ちる。
私は足を運ぶ。舞台の総てを見渡す事の出来る、尤も太陽に近いあの場所へ。
『待ってください。私達の旅は、世界の果てを目指す旅は』
『親愛なる友よ、私の事は忘れなさい。来るべき時が来た、ただそれだけの事なのだ。ただ、それだけの事なのだ』
『やり残した事ばかりです』
『君は、まだまだ怒る事も、悲しむ事も出来る。私の代わりに生きなさい。世界とは、きっと面白いものだよ』
『嫌です』
『私の為に涙を流してくれるのかい。だけど、もう行かなくては』
『……さようなら』
『さようなら』
「解りません。あなたのような方がどうして、こんな事を……」
と、カラスが言った。
私はその言葉を、何処か遠くで聞いたような気がした。
「アーネチカの結末をご存知ですか」
私がこう言ってカラスに問いかけると、カラスは表情に疑問を浮かべ、答えた。
「『アーネチカは物語の果てをも超えた』でしょうか」
私は頷いた。
「そうです。──しかしそれは演劇として広く知れ渡っているもの。実際には、果てをも越える結末そのものが果てを象ったのです。其処にアーネチカは倒れ、もう誰も彼女には気が付きませんでした」
私はカラスに背を向けると、呟いた。
「果てとは、急に訪れる物です」
懐から見えない時計を取り出し、それを撫でながら私は語り出す。
「かつて──、私は、人に無条件で従う事のみを自分の価値として生きてきました。総ては歓喜と歓楽に振り分けられると、耐えた先に幸福が在るのだと妄信しました。多くの人が私を求めました。其れは嬉しかった。命令されればどのような事でもした。……しかしある日、私の力に興味を示さない者が現れました。彼は、私に一つの提案を持ちかけました。『世界の果てを目指さないか』と。彼は、行く先々の街で私のような者達を誘っては旅の仲間に加えました。旅の仲間は皆が魅力的で愉快でした。そのお陰か、私は旅の途中で哀しむ事も、怒る事も思い出す事が出来た。驚きました。こんなにも世界が鮮明だったとは。旅は楽しかった。何時までも続くと思いました。何処までも行けると思いました」
「……見えない時計。廃材を繋ぎ合わせた不格好な時計。不器用ながら、あの人へのプレゼントにと、そう考えていたんですけれどね」
私は見えない時計を丹念に眺めると、懐に仕舞った。
カラスの方へ向き直る。
「カラスさん、どうして貴方はカラスなのでしょうか」
そう言って私は問いかけた。
「私は、ある朝目覚めるとサルバーデルになっていた。しかし、本当は解っているのです。共に旅路を歩んだ彼は、もう何処にも居ないのだと。私では彼の身代わりにはなれないのだと。カラスさん、私は最早貴方の知るサルバーデルではありません。貴方の大切なものをも壊さんとする、ただの悪人です」
カラスの瞳の奥が、悲哀に染まっている。
「今も私は夢見ている。あの頃の、何処までも続く筈であった楽しい旅の幻を。冒険譚を。そして物語の続きを。もう二度と返らないと本当は知りつつも、望みを捨てられずに。私はもう、完全に狂ってしまった」
「意思を持たぬ者に私は決して殺せません。矢の雨は掠めるばかりで、剣は必ず空を斬る。この、夜と昼とが同時にくる物語という魔法において、私を打倒せるのは英雄のみ、──カラスさん、貴方なら私を討つ事が出来る。弱きものを活かし、守るために」
私は文字盤の仮面にそっと手を伸ばすと、それを取り外した。
被虐による痣と傷が、犬として生きた証が、私の顔に刻まれている。
しかし、カラスは驚かなかった。
私は弱々しく笑みの表情を作ると、言った。
「剣を抜きなさい。僕はもう止まれない。もう、どうにもならない。ただ、どうにもならないんですよ」
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サルバーデル/HP114/知1/技4
・哀/40/0/16/封印/防御無視
辺りは暗い。四方を暗幕が覆っている。何処からか低く、優しい声が聞こえる。
暗幕を潜ると、また暗幕が現れる。しかし、潜る度に次第に歌声は大きくなって行く。やがて、歌われる詞が鮮明に浮かび上がる程にも声が近くなる。
十二回目の暗幕を潜ると、僕は劇場の観客席に座っていた。ふと舞台に目をやれば、背を向いたまま懐かしい姿で紳士が歌っている。僕が呆気にとられて席を立つと、乾いた靴の音が劇場に響き渡った。すると紳士は突然歌うのを止め、その背を向けたまま穏やかな声で言った。
「君には、つらい目にあわせてしまったなあ」
紳士がゆっくりと振り返る。文字盤の表情が見えた。
「馬鹿だね、私の代わりなんかしなくて良いのに」
僕は声を出そうとしたが、まるで自分の身体では無いかのように声は出しにくかった。震える喉をを絞るように、僕は一言ずつ言葉を発した。その間も、紳士は此方の言葉を待つかのように、舞台照明の中で佇んでいた。
「これは、夢?」
私のその言葉を聞くと、紳士は仮面の口元に手を当てて、小刻みに身体を震わせて笑った。
「ふふふ、夢かもしれんね。だけど、まぁ良いじゃないか、そんなことは」
「そんなことで良いんですかね……」
「言っただろう、時は容赦無く過ぎ去るもの。どんな楽しみにもいつか必ず終わりが来る。だけどそれは仕方ないのさ」
「相変わらずですね」
「それでいいんだよ、変わる必要は無い。たとえ、どんな悲しみや、怒りや、果てなんかが君を襲ったとしてもね」
紳士がコツコツと杖で舞台を鳴らした。
「総てを受け入れるのさ。そして、総てを知りながらも楽しまなくては、人生というこの舞台を。私は、君と旅が出来た事を、死して尚も一度だって悔やんだ事がないのだよ」
死んでから後悔なんて出来っこない。このナンセンスな台詞も、今となっては何処か懐かしい。
ブザーが鳴り響く。観客席と舞台とを遮るように、暗幕が徐々に落ち始めた。
「さあ、そろそろいきたまえ。別れの時だ」
「はやいです」
「そんなものさ」
紳士が再び背を向き、舞台の奥へと進んで行く。
折角また会えたのに、もうお別れなのだろうかと私が考えていると、その考えを遮るかのように声が聞こえた。
「最後に一つ、アンナは私の恋人だからね。恋人のフリもやめたまえ、いくら君とて許しはしないぞ」
暗幕が落ちる直前。幕を隔て、サルバーデルが仮面の奥でニヤリと笑うのが見えた。
僕は一瞬、その暗幕をも潜ってしまおうかとも考えた。しかし其れを止めて、代わりに呟いた。
「さようなら」と。
いつから眠っていたのだろう。気が付くと、カラスが心配そうに僕の顔を覗き込んでいた。揺らめく炎のような瞳が、涙で滲んでいる。僕の為に泣いてくれるのだろうか。
「カラスさん、無事で良かった……」
私は身体を起こそうとしたが、激痛が走りそれを断念した。
胸のあたりが熱い。視界が絵の具を混ぜるように揺らいでいる。
「サルバーデル様、動かないで下さい!」と慌ててカラスが言った。
「情けないですね」
私はそう呟くと、勲章を付けたお仲間に合図を送った。
彼はその場を離れると、直ぐに白塗りの柱時計を抱えて戻ってくると、カラスに差し出した。
カラスは、なんだろうと言わんばかりに不思議そうな表情を浮かべている。
声を出すのが苦しい。しかし、伝えなくては。
「……此れは、ある少女の宝物。しかし、今はもう動かない時計。そして物語の欠片の一つです」
私は息を少し吸うと、心を宥めながらも彼女に言った。
「カラスさん、まだ記憶にも新しいでしょう。貴方はこの時計と対になるものをご存知ですね。其れが最後の物語の欠片です」
咳き込む。背筋に寒気を感じる。
「──行きなさい。英雄が暗弦七片を総て揃えるまで、何も終わっていないのですから」
カラスは涙を拭うと、その瞳に意思を宿し、言った。
「お任せ下さい。……必ず、必ずや見つけてみせましょう」
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