[0-773]
HP56/知4/技5
・シャンタール/34/9/10 凍結
・氷雪削り/15/0/6 防御無視
・雪華/5/0/1
・凍土/0/45/6
――誰かの敵意と向き合うと、いつも、心配そうな幼馴染の顔が思い浮かぶ。
「リューシャ……あんた、戦いになると意外と血の気が多いのね。
仕事してる時はあんなに、どんなことにも動じません!みたいな顔してるくせに」
「別に怒ってないわ」
「怒ってないってば。いいからちょっと、こっちに来て座りなさい」
「ほらリューシャ、……とにかくよく聞いて。
いい?【回復スキルの攻撃力は0だとみなして行動】なさい。もちろん戦闘中の話よ。
いいわね、見た目や起動の遅さなんかに釣られちゃダメ。
それで斬られるわけじゃないんだから、気にしないで無視しなさい。
わかった?じゃあ復唱して。いいから復唱しなさい。
はい。【回復スキルの攻撃力は0とみなします】。よし!」
「それにあんた、シャンタールをきちんと御せるようになったわけでも、戦士になったわけでもないんだからね。
わかってると思うけど、不利ならはやめに逃げるのよ。いいわね?」
「とにかく、……とにかく、無茶、しちゃだめよ」
――うん、わかってるよ、ヴェーラ。
0:戦闘は可能な限り回避する。
1:戦闘開始時には「雪華」。
2:相手HP-((5-相手防御力)*相手残ウェイト)≦0なら「雪華」。
3:相手が回復、かつ残ウェイト8以上なら「シャンタール」。
4:相手防御力0、残ウェイト2以上なら「雪華」。
5:相手残ウェイトが11以上なら「シャンタール」。
6:相手残ウェイト7以上、(5-相手防御力)*6≧16なら「雪華」。
7:相手残ウェイト7以上なら「氷雪削り」。
8:相手が防御無視でなく、攻撃力11以上なら「凍土」。
9:相手が防御無視でなく、攻撃力10以下なら「シャンタール」。
10:相手が防御力0なら「雪華」。
11:相手が何も構えておらず、相手の最新同時選択スキルの行動ウェイトが1なら「凍土」。
12:相手が何も構えておらず、相手の最新同時選択スキルの行動ウェイトが7以上なら「雪華」。
13:さもなくば、「雪華」。
女。
刀匠(フリーランス)。
永久凍土の地に生まれ育った刀匠の女。
故郷の凍土から太古の氷を削り出し、氷雪の妖刀魔剣を造り続けている。
仕事ぶりはやや気まぐれだが、作品の質は確かで依頼も絶えない。
ソウルスミスとは取引先のひとつとしてそれなりに付き合いがあり、技術提携も行なっていた。
数カ月前、「シャンタール」という名の妖刀を作成。
その後シャンタールを手に、その主を探すため故郷から出奔。
しかし途中立ち寄ったリリオットにて精霊の加工技術に興味を惹かれ、当初の目的は置き去りにされた。
現在はリリオットに逗留し、好奇心の赴くままに鉱山や職人ギルドに足を運ぶ日々を満喫中。
故郷に置き去りの秘書ヴェーラには、「技術向上のためのやむを得ない措置」、との一報を届けたきりである。
もちろん単なる言い訳にすぎない。
戦闘時には蒼い片刃の妖刀、シャンタールを振るう。
その他、凍土掘削用の斬撃系魔法、および刀身調整用の結晶生成魔法を攻撃に転用。
雪上戦において、雪華による吹雪の中から放たれる不可視の斬撃は無類の威力を誇った。
一方で、周辺気温と魔法攻撃力が反比例するという厄介な性質を抱えている。
凍土と称する防壁魔法は自作だが、これは刀身素材の掘削中に頻繁に小規模雪崩を引き起こすためである。
やさか
ツイッター yasaka1117
リリオットを訪れる者たちは、幾つかの宿を、主に懐具合によって選ぶ。
リューシャもまたそれにならって、その内のひとつに身を寄せていた。
据え付けられた机に灯をともし、開いた手紙に綴られた几帳面な文字の並びを眺めて、リューシャは微笑む。
見慣れた文字だが、改めて見るのは数カ月ぶりになるだろうか。
故郷に山積した依頼を放置してリリオットに腰を据えてからしばらく経つ。
所在は知らせていなかったが、ヴェーラは探し当てたらしい。
幼馴染でもある秘書は、もったいないほど優秀だ。
ソウルスミスの支部を経由して届けられた書簡には、なんだかんだと文句を言いながらも、リューシャの身を案じる色が端々に見えた。
幼馴染として長く共に在ったせいか、ヴェーラの考えていることは手に取るようにわかる。
ヴェーラもまた、そうなのだろう。
リューシャはペンを取り、便箋を前に少しだけ考えこむ。
*
久しぶりの連絡になって悪いと思ってる、……なんて書いても信じてもらえないと思うから正直に言うよ。
わたし、もうしばらくそっちには帰らないつもり。
リリオットの精霊技術は面白いよ。今、すごく楽しい。
できるものなら、自分の剣にも精霊を宿らせてみたいくらいだ。
精製技術なんかの関係は企業秘密や秘法の類も多くて、部外者のわたしにはなかなか底が見えないけどね。
一般公開されてる鉱山やギルドの見学ツアーはひと通り見て回ったから、今はこれからどうするか考えているところ。
依頼のほうは、きみに任せておけば安心だと思ってる。
適当に、うまく処理しといて。
Lyusya
*
書き終えた手紙を閉じるべくペンを置きかけて、ふと思い直す。
サインの前に一筆、「愛をこめて」と書き足した。
そして、今度こそ便箋を折りたたむ。
「……とりあえず明日はソウルスミスの支部に寄って……それからどうしようかな」
リューシャは笑って、ランプの灯を消した。
ソウルスミス、リリオット支部。朝から賑わうその一角に、リューシャは佇んでいる。
商人、職人、傭兵に物乞い。目を引くところでは、併設されたリソースガードの仲介所でコインを積む女。
リューシャは申請書類の審査を待ちながら、彼らの装備を見るともなく見ていた。
「……やっぱり、精霊憑きの装備が多いなあ……」
実用品としてはもちろん、ある種のステータスなのだろう。羽振りのよさそうな者は、多くが精霊武器を持っている。
その質はリューシャの目から見てもまちまちだが、それでも普通の刀剣に比べれば性能は段違いだ。
「精霊武器がほしいんですか?
リリオットでは、それなりの武器屋に行けばどこにでも置いてあると思いますよ」
もちろん普通の剣より値は張りますけど、と微笑んだのは、先程リューシャを担当した受付の少女だった。
リューシャは彼女の差し出した書類を受け取って確かめながら尋ねる。
「わたしは武器そのものよりも、加工技術のほうに興味があるね。
……どこか、わたしのような余所者でも技術提携してくれるような鍛冶屋を知らない?」
「うーん……難しいかもしれませんね。
精霊加工は、リリオットが他の街に差を付けられる一番の技術だもの。みんな企業秘密にしたがるから」
困ったように笑って少女が続ける。
「どうしてもっていうなら、リソースガードに傭兵登録してみたらいかがです?
街でクエストをこなしていけば、そのうち信用されるようになります。
リューシャさんはソウルスミスとの取引実績もあるから、すぐに採用されると思いますし……
あっ、書類不備で申請を却下された旅人もいるんですけどね。最近だと、白い髪の……」
少女のいつまでも続きそうなおしゃべりに、リューシャは軽く微笑んで、サインした書類を示した。
それを見て、彼女のなめらかな舌がようやく止まる。
「……あら、ごめんなさい。じゃあ、提出されたお手紙は送付しておきます。またのご利用を」
「ええ、よろしく」
頭を下げた少女にチップを握らせて、リューシャはソウルスミスをあとにした。
職人街へと足を向けながら、今後のことを考える。
ヴェーラに居場所がバレた以上、この先長期間リリオットに留まることは難しい。
放っておけば、遠からずリューシャを連れ戻しに来るだろう。こつこつと信用を稼ぐ暇はない。
互いに与えることができないのなら――技術は目で盗むもの。
それもまた、職人の常道だろう。
職人街には、メインストリートに溢れる人々の喧騒とは種類の違う騒がしさが満ちていた。
鋼を打つ鎚の音。徒弟を叱る親方の怒鳴り声。
道の端では、ドブをさらっている黒髪の男が「下っ端最高ぅーっ!」と叫んでいた。
貧民街へ続く道にはさらいあげた泥の山が転々と残っており、どこからドブさらいを続けてきたのか検討もつかない。
本人はいたく楽しそうだが、彼の黒髪もあってか、街の人々からはかなり異様な視線を向けられていた。
しかも、彼が使っているのはスコップではなく、幅広の刀身をした大剣だ。
リューシャが見れば、その青白い刀身が氷によるものだとすぐに分かる。
思わず足を止めて観察してしまったが、幸いにもリューシャの作品ではないようだ。
刀身の変質を最小に抑えられるのが凍剣の利点とは言え、自作の刀でドブさらいをされれば、さすがに今後の取引について考えてしまう。
「まあ、自分の剣をどう使おうと持ち主の勝手だけど……
できればシャンタールの主には、剣を剣として真っ当に振るってほしいなあ」
……とはいえ、シャンタールほど頑迷に人手に渡るのを拒む刀は珍しい。
相応しい引き取り手がいれば、主がシャンタールでドブさらいをしようとリューシャが文句を言う筋合いではない。
リューシャは軽く首を振って、彼の横を通り過ぎた。
そうして軒を連ねる工房の中から、これまでに目をつけていた幾人かの親方を尋ねて歩く。
だが、数件を回ってもリューシャの言葉に頷く者はいなかった。
精霊加工は、リリオットの職人が何代にも渡って研鑽してきた技術の結晶。
街の人間ですらない者を相手に、そう簡単に話すことはできない。
皆が口を揃えてそう言う中、一人の老職人が、リューシャに向けてぽろりとこぼした。
「精霊技術を、儂があんたに教えることはできない。
……そもそもリリオットの一部じゃあ、これ以上精霊を掘るのはやめようという連中もおる」
「精霊の発掘をやめる? ……精霊の発掘と加工は、リリオットの主要産業でしょう。それなのに?」
リューシャの言葉に、老職人は困ったように頬を掻く。
「このまま精霊を掘り続けると、大いなる災いが人々を襲う……とかなんとか。
儂も詳しくは知らん。単なる噂だが、そういう連中もいるってこった。
……さあ、悪いがもう帰ってくれ」
それだけ早口に言うと、老職人は立ち上がり、傍らの工具箱を手に工房の奥へと引っ込んでいった。
「……ちぇー。正式認可の鍛冶屋は、どこの国でも頭が硬いんだから」
職人街を端から端まで練り歩いたあと、リューシャは広場の隅でベンチに腰を下ろした。
名物だとかいうあられ揚げの温かい袋を開き、いくつかまとめて口に放り込む。
「未精製とはいえ、低質の精霊はこんなひと山いくらで売ってるのに……」
その一方で、中級以上の精霊を扱う技術については、みな驚くほど口が堅い。
確かに、不用意な技術の外部流出は職人にとって危険な行為だ。リューシャとてそれは身に沁みている。
だが、リリオットの秘密主義は行き過ぎている気がした。
リューシャは外部の人間だが、今のところ、慣例的な技術提携、あるいは技術交流の申し入れの形式を外れたことはしていない。
それでもなお、誰ひとりとして迷う素振りすらなく、即答でノーを突きつけてくるとは。
「リリオットの職人は、みな恐れているんですよ」
不意に、誰かがリューシャに声をかけた。
視線を上げると、緑のローブを纏った女が微笑んでいる。リューシャよりも淡い色の金髪が、さらさらと風に揺れていた。
「あなたは?」
「ああ、わたしはメビエリアラと申します。ヘレン教で教師をしているのです。あなたは、旅の方でしょう?」
隣に座ってもいいですか、と尋ねた女に頷く。
するとメビは、宗教を志す者に特有の教えを説くような語り方で、リリオットで巡る迫害の輪について教えてくれた。
リソースガード、エフェクティヴ、ヘレン教。三年ごとに入れ替わる仮想敵。
「ソウルスミスに属する者の立ち位置は、その中で少しだけ特殊なのです」
メビは言った。
リリオットもまた、ソウルスミスの持つ物流網に各種の輸出入を大きく依存している。
それ故、リソースガードが迫害の対象になっても、その上位組織であるソウルスミスに直接牙をむく市民はほとんどいないのだと。
「みなその立場を手放したくないのです。ソウルスミスの認可は免罪符のようなものですね」
「……なるほど。外部の人間と技術交流に手を出して、職人仲間から浮き上がるようなことも避けたいわけだ」
道理で、どこもかしこも判で押したような対応ばかりのはずだ。
リューシャがため息をつくと、メビは控えめに、お役に立てましたか、と尋ねる。
「ええ、とても。ありがとう」
「いいえ。……あなたとはお話ししておいたほうがいいと感じたのです。予想通り、楽しい時間でした。ご縁があれば、またいずれ」
メビはそう言って立ち上がり、軽く一礼すると、リューシャを残して広場を去っていった。
メビと別れてからしばらく、リューシャはかりかりとあられ揚げを頬張りながら、行き交う人を眺めていた。
改めて意識してみると、確かに、この街にはどこか張り詰めた緊張感がある。
深く掘り進めた雪洞の中で、頭上の雪がきしりと鳴った時のような感覚。
雪は非情で、氷は薄情だ。畏れても慕っても、平等に溶け崩れて多くを押し流していく。
その微かな前兆を捉えそこねれば、人はみな、あっという間に呑まれて消える有象無象に成り下がる。
リューシャはその軋みを知っている。
リリオットは軋んでいる。
「この街……深入りしすぎるのは危険、だろうなあ。バレたらヴェーラに死ぬほど絞られそう」
目的以外を疎かにしがちなリューシャに比べ、ヴェーラは利益を得るよりも不利益を避けるタイプだ。
その危機管理能力はリューシャを幾度となくたすけてきたが、最近はそれに伴うお小言の時間も伸びる一方で閉口している。
今回に至っては、わかっていてどうして手を引かないの、と言われるのが目に見えるようだ。
「……だけど、引くのはいつでもできるし」
もちろん、フットワークを軽くすれば、その代償として公的組織のバックアップを得ることは難しくなる。
リソースガードに登録することも一応視野に入れてはいたが、それもやめておいたほうがいいだろう。
というか、“ソウルスミスの正当な財産を守る”集団に、技術窃取を目論む身で乗り込んだのが発覚するのは非常にまずい。
この街からは逃げ出せばそれまでだが、ソウルスミスは契約書を取り交わした正式な取引先なのだ。
柄やら鍔やらの素材の入手ルートを完全に新規構築してくれなどと言ったら、さすがの幼馴染にも愛想を尽かされかねない。
ソウルスミスの受付嬢が一応どうぞ、と渡してくれた傭兵の登録申請用紙を、くしゃりと握りつぶす。
傾いた陽の眩しさに目を細め、リューシャは立ち上がった。
周囲にも、一日の仕事を終えた人々の流れが渦を巻き始めている。
握りつぶした書類と食べ終えたあられ揚げの袋をまとめてゴミ箱に放り込み、リューシャもまた、その渦の中に溶けこんでいった。
夕暮れが藍に呑まれて消える頃、街は、昼とは違う色の衣を纏ってそこに立ち上がってくる。
精霊の光に照らされて、リリオットの夜は明るい。
しかし精霊灯の明るい光に照らされた表通りを一歩離れると、道端に立つのも、一段暗いオイル灯やガス灯が多くなる。
それより先は、薄い闇がそこここに淀む裏通り。
リューシャはその境界に立って、シャンタールの柄を静かに撫でていた。
軽く鯉口を切ってみると、刀身の放つ冷気が白く零れる。
この先にあるのは、昼には表出しない街の暗部。必然、血や欲のにおいが強くなるものだ。
「……お前は本当に癖の強い子だね。人斬り包丁に造ったつもりはないよ」
わずかに覗かせていた刀身を鞘に収め、リューシャはため息をつく。
踏み込むか、引き返すか。
普段のリューシャならば躊躇はしない。だが、この街で派手に動くのは遠慮したいというのが正直なところだった。
ヘレン教への、そして黒髪への態度を見ていれば、この街が異物排除に躊躇しないのは明白だ。
できることなら、敵を作るのは最小限に抑えたい。
「ねえ。……あなた、ひょっとしてリューシャさん?」
考えに沈んでいたリューシャに、誰かが後ろから声を掛けた。
振り向くと、深くフードをかぶった少女が立っている。
「そうだけど、あなたは?」
「あー、えっと。なんて言ったら伝わるのかしら」
少女はひとりでブツブツと「あのクソ野郎」「紹介状くらい書いとけ」などと吐き捨てていたが、やがて考えがまとまったのか、
「うちの師匠が、リューシャさんの凍剣を一本欲しがってるの。打ってもらえない?」
というようなことを、師匠への隠し切れない罵倒混じりに告げた。
リューシャはその言葉の端々から、ああ、と相手に思いあたったらしい。
「依頼主に検討はついたわ。じゃああなた、えぬえむさん、かしら」
「え、ええ。リューシャさん、もしかしてあいつの知り合いなの?」
「知り合いというか、あなたの師匠って……まあ、……この業界でも目立つ人だから」
濁した。人のことは言えないが、彼はなんというか、目的のためには手段を選ばなすぎることで有名だ。
「打つのは構わないけど、正規の依頼として請け負うと残念ながら二年は待つわよ」
「げっ。そんなに掛かるの?」
「ええ、……ただし。あなたがこの街でわたしのお願いを聞いてくれるなら、特別に依頼を一番頭にねじ込んでもいい」
ぴ、と指を立てて笑んだリューシャに、えぬえむは少し考えて、聞くだけ聞くわ、と頷いた。
「……つまり、精霊の精製とか、加工の技術者に関する情報がほしいってことね?」
リューシャの逗留する宿の食堂で、えぬえむはそう確認した。
グラスを置いたリューシャが頷く。
「そう。外部の人間にも技術を提供してくれるような相手ならもっといいけど、交渉まではしなくていい」
「ふーん。でもあなた、ソウルスミスに顔が利くんでしょ?紹介してもらえばいいじゃない」
「ソウルスミスの認可を持ってるところはだいたい回ったけど、あれはダメね」
リューシャは肩をすくめて、メビが教えてくれたリリオットの現況についてをかいつまんで説明する。
えぬえむは精霊炊きと呼ばれる煮込みをもくもくと咀嚼しながら、その話をふんふんと聞いていた。
「なるほどね。それで、アングラな技術者を探して欲しいってわけ」
「ええ。……ただ、まあ、できる限りでいいわ」
リューシャは酒を片手に、ちら、と店内を見回して声を潜める。
「……この街は、なんだかキナ臭い。深入りは危険かもしれない」
「危険?」
「消えた街の予算がどうとか、なんとかいう計画が進行中だとか、精霊をこれ以上掘るのは危険かもしれない、とか」
ひとつひとつ指を立てて数え上げる。
宿の食堂で語られる世間話、職人街の徒弟たちの噂、広場で飛び交うゴシップ。
多くを語ろうとする者はいないくせに、みななんとなく、何かが起ころうとしているのを感じているらしい。
周囲で酒や食事を楽しむ人々の中にも、どんな裏のある人間がいるかわからない。
「……とにかく、無理をさせたいわけじゃないわ。それらしい情報があれば、わたしに回してほしいってだけ」
街の状況を考えれば、認可を持っていない職人が“そういう”活動に従事していることは十分に考えられる。
そう言ったリューシャに、えぬえむは軽く眉を寄せた。
「でも、何も手に入らなかったら二年待ちでしょ?」
「あら、わたしはそんなに狭量じゃないわ。……秘書には怒られると思うけど」
いたずらっぽく微笑むと、リューシャはポケットから一枚の紙を取り出す。
紙には枠線が切られ、依頼主の名前、希望の仕様などいくつもの記載項目が羅列されていた。
「これ、依頼用の書類。記入が終わったら、この宿のフロントに、わたし宛に言付けしてくれればいいわ」
もちろん情報もね。
そう告げて、リューシャはぱちりとウインクした。
えぬえむの去った食堂で、リューシャは隅のカウンターに席を移し、一人で酒を飲んでいた。
この宿には、商人や職人、あるいはリリオットにコレクションを求めるマニアなど、ソウルスミスに縁のある者が多い。
かくいうリューシャがここに宿を取ったのも、ソウルスミスの受付嬢が薦めてくれたためだ。
周囲の会話に耳を澄ますと、やはり、商談や情報交換が多い。
真っ当な値切り交渉が盛り上がっているテーブルもあれば、密輸と思しき契約についてこそこそと喋っている男たちもいる。
製鉄の技術はどこの親方が信頼できて、いや、大量生産用に必要なそこそこの質ならあそこの店が格安だとか。
精霊の精製はあの工房、武器加工は、防具なら、魔具は、生活用品は……。
「お姉さん、一人かい?」
聞き耳をたてて雑多な情報を拾い上げていたリューシャの隣に、見知らぬ男が席を取った。
薄汚れ、ほつれた服。彼の頬にはヘラヘラとした笑みが浮かんでいたが、それもどこか不自然だ。
商人の身なりや振る舞いではない。かといって、職人という感じもしない。
「なあ、アンタ、リューシャさんだろ?今日アンタのことを職人街で見かけてさあ……」
「……つけてきたわけ?」
リューシャの鋭い視線が、男を上から下までぎろりと舐める。
帯剣者。剣の質だけが、身なりとはかけ離れて高い。
「いやあ、俺もアンタみたいな旅の女にこんなことしたくなかったんだけどさあ……」
笑う男の手が、その剣に伸びた。
瞬間、リューシャは手の内のグラスから、男の顔にむかって酒をぶちまける。
反射的に目をつぶった男の顔を、グラスを投げ出した手が撫でる。
指先の軌跡に咲く雪の華。
ガラスの砕け散る音。
顔面が氷結した男の悲鳴。
流れるようにシャンタールを抜いたリューシャが男の襟首を引っ掴み、冷たい刀身を、その首元にぴたりと押し当てた。
「お、お客さん……揉め事はちょっと……あの」
「ごめんなさい、割ったグラスは後できちんと弁償するよ。……大丈夫、血も流れない。流れる前に凍るから」
目を潰された男にもわかるようにか、その声はわざとらしいほど楽しげだ。
「さて、……服装からして貧民街の人かな?」
「お、俺は」
「いくら貰ったのかしらないけど、金で命まで売る気がないなら……」
シャンタールをぴたぴたと遊ばせながら、リューシャはにっこりと言う。
「誰に頼まれたのか、素直に吐いてくれると嬉しいな」
目の前の男の手から、からん、と小さなナイフが落ちた。
死角で用意されたそれを落とさせたのは、男の腕を締め上げる紅い糸のようだ。
「事情も知らない奴に口出しされたくは無いだろうけど。殺しあうにしろ話しあうにしろ、場所を変えたほうが良くないかな?」
驚いて顔を上げると、見事な白髪の女が、その糸を手繰りながらリューシャたちに近づいてくる。
足取りに迷いはない。リューシャに対する敵意も感じられない。……少なくとも、今は。
「できれば、私も聞きたいことがあなたにあるんだけど……取り込み中みたいだしね」
近づいてきた女は、男の腕を巻きついた糸ごと無造作に捻り上げる。
ここじゃあ迷惑だから外に行きましょう、と言うが早いか、彼女は男を引きずるように連れて行ってしまった。
リューシャはその後ろ姿を追う前に、カウンターで顔をひきつらせたマスターに銀貨を一枚差し出す。
「グラス代はこれで。余分は迷惑料として受け取ってちょうだい。……代わりにひとつ。彼女、お知り合い?」
「え?ああ、えーと……」
名前はソフィア。リソースガードの傭兵で、同時にリリオットで骨董屋を営んでいる。
鍛冶屋を始めとする職人を中心に、この宿でもしばしば何かしらを聞きまわっているようだ。
そこまでを手短に聞き出すと、リューシャはマスターに礼を告げてカウンターを離れる。
食堂を出れば、人目を避けてか、ソフィアが奥まった裏口を抜けていくところだった。
リューシャもそれを追い、路地に抜ける。
「……とりあえず、こちらの尋問を先に済ましておきましょうか。
あなた、わたしに聞きたいことがあるならちょっと待っててね。すぐ終わるから」
人通りの絶えた夜更けの裏通りで、リューシャがシャンタールを手に、ソフィアに告げた。
ソフィアもそれに頷いて、紅い糸をぎりっと締めあげる。
「さてと。まず、あなたの持ってる剣、借り物でしょう。……雇い主は職人街の誰かかな?武器屋の親方?
数は多すぎてちょっと絞り切れないけど、名前を吐く気はある?……そう。じゃあいいわ。
知りたいのは、どっちかっていうと理由のほうだからね」
半分凍りついた男の顔色を観察しながら、リューシャは淡々と質問を重ねる。
シャンタールで軽くつついてやれば、男はだいたいのことをぼろぼろと喋った。
「……ずいぶん手馴れてるのね」
「ま、技術目当ての産業スパイなんかを結構扱い慣れてるから……、うん?」
呆れたようなソフィアに答えていたリューシャが、ふと言葉を切って男に向き直る。
零れた言葉に、リューシャの瞳が、興味深げにきらりと光った。
“ジフロマーシャ主催の、精霊精製競技会”。
精霊精製競技会。
男の話を要約すれば、彼の雇い主はリューシャをその競技会に備えたライバル工房の回し者だと考えたらしい。
見たところ旅人の上、帯剣者とはいえ女が一人、軽く脅せばリリオットから出ていくだろうと思った……。
そう語った男は、声が半分泣いている。目元が氷結していなければ普通に泣いていたかもしれない。
これ以上つつきまわしても何も出てこないと判断して、リューシャは男を解放した。
「いいの?」
「ええ。死体を埋めとく雪もないしね」
「えーと……ジョークなの?それ」
故郷の凍土なら、処理に困る死体は適当に掘削した雪原に埋めておくだけで、大概二度と出てこない。
リューシャ自身が人間を埋めたことはないが、掘り当てたことは二回ほどあった。
そんなことを言って白い目を向けられても意味がないので、軽く肩をすくめるに留めておく。
それをどう解釈したのか、ソフィアは気を取りなおしたように、精霊精製競技会について詳しく説明してくれた。
聞けば腐るほど裏のありそうなイベントだが、内実がどれだけ汚泥にまみれていようと、リューシャの興味を削ぐには至らない。
加えてソフィアには、リソースガードとしてリューシャを咎める気はないらしい。
骨董屋が職人のする事に口出ししてもね、と言って、小さな手帳を投げ渡してくれた。
「リリオットのめぼしい武器職人のリストだよ。ソウルスミス所属者からそうでない人まで、色々ね」
むしろそれを対価に頼みごとをしたいと、ソフィアは一振りの剣を差し出す。
純白の剣、追憶剣エーデルワイス。
「……、これはなかなか……」
「……魔剣、詳しいの?」
「一応、魔剣つくりなんて呼ばれる身だからね」
今はリューシャの腰にあるシャンタールも、一度手を離れた後、所有者を三人殺して戻ってきたという曰くつきである。
しかし、エーデルワイスはそれよりも度を越して複雑だ。
「……炎の力が混じってるね。わたしは炎とは相性が悪いからなあ……」
「……やっぱりわからない?」
肩を落としたソフィアに、リューシャはしばし考えこむ。
「そうね……さっきの宿に、えぬえむっていう黒髪の女の子がいる。
あの子の師匠の鍛冶屋は、そういうややこしい武器が好きだっていう噂よ」
「えぬえむさん、ね」
「あとは、今日見かけた黒髪の男のひと。彼の凍剣も、たぶん呪われてる。解く気があるなら調べているかも。
……名前はわからないけど、ドブさらいが趣味でなければ、リソースガードのクエストを受けてたんじゃないかしら」
こんなことしか教えられなくてごめんなさい、と詫びたリューシャに、ソフィアが首を振る。
今後も何かわかれば“螺旋階段”に、と取り決めて、ソフィアは路地を去っていった。
夜が明けた。
リューシャは枕辺のシャンタールを掴み、眠い目を擦りながら起き上がる。
ソフィアから貰った手帳を端から検分していたせいで、ベッドに入ったのは窓の外がほのかに明るくなってからだ。
あくびを噛み殺しながら食堂に降りていくと、フードをかぶったえぬえむが出ていくところだった。
「元気ねえ……」
駆けていく後ろ姿を見送って、リューシャはとりあえず席に陣取る。
温かい紅茶をゆったりと啜る、少し遅い朝。
ぱらぱらと手帳のページを遊ばせながら、リューシャは一人、今後の予定を考えていた。
ソフィアの手帳は確かに興味深いが、そこに記された職人たちは、やはりソウルスミスに所属する者が多い。
一方そうでない者は、ほとんどがリューシャのこれまでの行動半径を外れた位置に居を構えているようだ。
昨夜のようなことが起きないとも限らない以上、できるなら、未知の区域に無策で突っ込むような真似は避けたかった。
ましてこの街の技術者には、おそらく一定数のエフェクティヴが混じっているはずだ。
不用意に余計な摩擦を起こした場合、リューシャの手には負いきれない事態になる可能性は十分にある。
「……うん。接触の前に、きちんと準備を整えますか」
どれだけ急いでいようとも、雪洞は、周囲を揺るぎなく固めながら進まねばならない。
ましてそれが軋みを上げているのなら、なおさら。
故郷でならヴェーラのフォローにすべてを任せてもいい。
だが、こんなところで雪崩を起こしても、リューシャを掘り返してくれる幼馴染はいない。
凍土の地を離れ、リリオットは故郷よりもずっと暖かい。
なのに、預ける相手を見失った背中は少しだけ寒かった。
故郷を想うと、シャンタールが震える。
「……お前も、故郷に帰りたい? だからわたしのところに戻ってきたの?」
リューシャはそのかすかな振動を、柄に手をやってそっと抑えた。
そうすることで、自分の迷いを抑えたかったのかもしれない。
シャンタールが沈黙したのを確かめると、リューシャは席を立ち、今日もリリオットの街へと踏み出していった。
リリオットは広い。
そして当然、そのすべてが観光向きの技術都市というわけではない。
メインストリートの周辺はともかくも、街の辺縁部になるにつれ、未整備の区画が多くなる。
物乞いの姿はむしろ少ないが、やはり住民の服装は中心街に比べて貧しい。
崩れかけた塀や、轍の跡が深く残った未舗装の道も目立つ。
しかし午前中いっぱい歩きまわって一番目を引いたのは、目の前にある、なにやら壊滅しかけた一件の酒場だった。
酔っぱらいの喧嘩で荒れてしまった、などというレベルではない。建物自体が、わずかながら歪んでしまっている。
老朽化というには、壁に入ったヒビのあとが生々しい。
傾いて見づらい看板に目を凝らすと、店の名は『泥水』とある。
「……何があったのかしら」
ソフィアの手帳によれば、このあたりにはソウルスミス非加盟の武器職人が数人いるはずだ。
明記はされていなかったが、この街並みの雰囲気からして、リューシャは彼らがエフェクティヴ所属だと考えていた。
エフェクティヴのいわゆる《義賊》活動についても耳にしているが、いくらなんでもこの区域でそんな活動はしないだろう。
だとすれば、試作の精霊武器でも暴走させたのだろうか。
昼時が近いためか、『泥水』には鉱夫の男たちが何人も出入りしている。
傾きかけた店構えにもかかわらず、繁盛しているようだ。
……気になる。
リューシャはさして考えこむこともなく、興味の赴くままその扉に手をかけた。
「いらっしゃ……おっと、旅の人かい?」
「そうよ。もしかして、一見さんはお断り?」
「いや、そんなことはないがね。お嬢さんの口にあうようなもんは、この店にはないよ」
主人が訝しげな顔をするのに構わず、リューシャはカウンターに腰を下ろす。
「おすすめは?」
「……泥水って安酒だ。こいつはお嬢さんにゃキツイと思うが」
「それでいいわ。それから、適当に食事を」
主人は微笑んだリューシャを珍しげに眺めながら、まず酒を注いでくれた。
アルコールの匂いがぷんと鼻を突く強い酒。
周囲の男たちの物珍しげな視線を一身に集めながら、リューシャはそのグラスを一気に呷った。
「……あら、わたし結構好きよ、こういう酒」
咳ひとつなく泥水を干したリューシャに、泥に汚れた男たちがおお、とどよめいた。
リューシャが三杯目の泥水を飲み干した瞬間、扉が叩きつけられるように開いた。
店内のざわめきがさっと凪ぎ、みなの視線が、そこに立つ鎧姿の男達に集まる。
扉を開けた男の他に、同じく騎士が三人、そして女が一人。公騎士だ、と誰かが囁いた。
「私は第三精霊発掘顧問、リット・プラーク」
上質なショールをなびかせて悠々と入ってきた女は、身分と名前を高らかに宣言する。それだけで十分だと思っているようだった。
プラークはステージでも歩くように店の中央まで進むと、手振りだけで公騎士に命じ、店内の鉱夫たちを壁際に追い立てさせる。
そしてその目が、ふとカウンターに座るリューシャに留まった。
「……そこの貴女。採掘者には見えないわね。こんな店で何をしてるの」
「顧問、このお嬢さんは」
カウンターの中で声を上げた店主をプラークが目線で黙らせる。
「お前には聞いていないわ。貴女。答えなさい」
「……わたしは刀匠です。採掘者ではありませんが、工房の仲間にここの馴染みがいるので」
リューシャは至極あっさりと嘘をついた。
通りがかりだと言ってもどうせ信じそうにはなかったし、それを察してか、周囲の鉱夫たちや主人もあえて何か言おうとはしない。
プラークは疑わしそうな目をしていたが、リューシャが腰のシャンタールを鞘ごと抜いて渡してみせると幾分表情を和らげた。
リューシャはそのまま、鉱夫たちに倣って壁際に移動する。
鉱夫たちが全員移動したのを確かめると、プラークは店主に近づき、何かを問いただしはじめた。
内容は壁際にまで届かなかったが、そこから始まった拷問一歩手前の尋問を見れば、店主が知らない、と答えたのは確かだ。
その尋問は、店の扉がもう一度開くまで十数分は続いただろうか。
入ってきたのは、まだ十代半ばにも届かないような少年だった。
面食らったような少年を与し易しと見てか、プラークは尋問の矛先を変える。
やがてリューシャは、少年に「部外者の前では話せません」と名指しされたおかげで店を追い出されてしまった。
だが。
「休憩所から鉱夫長を呼んで下さい。お願いします」
「え?」
ばたん、と扉が閉まる。
……なるほど、少年と思って侮らないほうがいいようだ。
リューシャは一瞬だけ迷ったが、すぐに鉱夫たちの休憩所に走りだした。幸い、このあたりの道は午前中に確かめてある。
採掘所の揉め事にも興味があるが、なによりシャンタールをプラークに預けてきてしまった。
リューシャは走りながら、少しだけ笑う。
殴られていた店主には悪いが、……首を突っ込むいい口実ができた。
鉱夫たちの休憩所で、ガタついた扉が音高く開いた。
そこに立っていたのは鉱夫の一員ではなく、少しばかり髪を乱したリューシャだった。
何人かの鉱夫が見慣れない顔に怪訝な表情をするのに構わず、リューシャは平然と休憩所に踏み込んでいく。
「誰だいアンタ。ここは鉱夫の休憩所だ、部外者は遠慮してくれんかね」
「わたしはリューシャ。鉱夫長はどなたですか」
「……俺だが」
リューシャが問うと、壮健そうな中年の男が一人、声を上げた。
「なんだねアンタは。新しい査察官かい? 査察なら作業場へ行ってもらいたいね」
「鉱夫長。単刀直入に言いますが、『泥水』へご同行願います。大至急」
「……『泥水』へ?査察官に業務時間中の飲酒をすすめられるとは思わなかったな」
周囲の男たちが、鉱夫長の冗句に笑いを立てる。
それに軽く片眉を上げて、リューシャはかんかん、とヒールを鳴らした。
「大至急、と言いました。
……『泥水』のご主人が現在リット・プラーク第三精霊発掘顧問とかいう女に暴行を伴う尋問を受けています。
『泥水』には顧問の女と、公騎士が四人。
わたしは部外者ということで放り出されましたが、入れ違いになった少年に鉱夫長を呼んでくれと頼まれました。
まあ、みなさんが『泥水』のご主人を見捨てるおつもりなら、わたしはそれでも構いませんが」
淡々とした言葉が積み重なるにつれ、周囲の男たちから笑いが引いていく。
絶句した鉱夫長に、リューシャは肩をすくめた。
「どうします」
「馬鹿野郎!どうしてそれを早く言わねえんだ!!」
鉱夫長ははじかれたように立ち上がって怒鳴った。
ほとんど罵声に近い勢いで近くの鉱夫にいくつか指示を飛ばすと、リューシャを突き飛ばすようにして休憩所を走って出ていく。
「おっと」
たたらを踏んだリューシャも、すぐにそれを追って踵を返した。
あっという間に追いついてきたリューシャに気づくと、鉱夫長が声を荒げる。
「査察官がなんの用だ!」
「まず誤解を解いておこうと思いますけど、わたしは査察官ではありません」
「じゃあどうしてついてくる!伝言なら受け取った、もう用はないぞ。部外者は引っ込んでろ!!」
苛立たしげに叫ぶ鉱夫長に、リューシャはしれっとした顔で嘯いた。
「顧問の女に刀を没収されました。あれを取り返さないと」
実際は自分から手渡したのだが、そんなことをわざわざ言う必要はない。
この際だ、不都合や多少の無理はプラークにおっかぶせてしまえば、どうせ彼らはあの女や公騎士の言い分など聞くまい。
「……巻き込まれても知らんぞ!!」
「ええ。わたしのことは、どうぞお気になさらず」
吐き捨てた鉱夫長に応えて、リューシャは何食わぬ顔で『泥水』への道を駆けていった。
「お前はここにいろ。……後からすぐに仲間が来るが、そいつらを邪魔するんじゃないぞ」
鉱夫長の言い方にはとりつく島もない。
食い下がっても意味がないと判断して、リューシャは素直に頷き、数歩下がる。
そこから先はあっという間だった。
休憩所の方から手に手にボウガンを持った男たちが現れたかと思うと、統制された動きで『泥水』を取り囲む。
窓辺に展開した彼らが鉄の矢をつがえ、一斉に放つ。
少しすると、割れた窓からプラークがヒステリックに叫ぶのが聞こえた。
「公騎士連中は一網打尽か……」
思ったよりやるな、エフェクティヴ。
数歩離れたところに待機していたリューシャが、軽く口笛を吹く。
窓辺に展開した男たちが苛立たしげにリューシャの方を振り返り、口を開こうとした瞬間。
ピィィィィィィィィィィィィィィィィィ!!
口笛よりもはるかに盛大な警笛の音。
『泥水』の中から響き渡ったその音に、全員が反射的に身を固くする。
「――公騎士団の危険信号音!」
リューシャ以外の全員が、その音の意味を知っているらしかった。
男たちが浮き足立ち、リューシャは周辺に意識を走らせる。
殺気の発露。十よりは多く、十五には足りない。まだ目に見える位置にもいない。が、四方の通りをすでに囲まれていた。
狙ったとはいえ、非常に綺麗に巻き込まれたと言えよう。
「うぅん、見事なお手並み」
「バカを言ってる場合か!女だからと見逃してもらえる相手じゃない、お前も当然戦ってもらうからな!!」
「んー……戦えなくもないけど、この街はずいぶんあったかいからなあ……。弓兵ばっかりだし」
リューシャにとっては、リリオットの気温は高すぎる。
結晶の生成に有利なほど湿度が高いわけでもなく、かといって、装填に時間の掛かるボウガンに斬撃魔法の援護を任せるのは不安がある。
まして相手が十人以上となれば、空手では冗談抜きで死にかねない。
「ちょっと、そこの人。『泥水』の中にいる顧問の女からわたしの刀を回収してきて。
……あ、鞘から抜いたら死ぬかもしれないから気をつけてね」
「死ぬ!?」
「いいから速く」
言うだけ言うと、リューシャは腕を伸ばして空を撫でた。
腕の軌跡に白く輝く氷壁が生まれ、周囲の建物の壁ごと道を塞ぐ。
凍土と名付けた防御魔法。雪崩に耐える防壁だ。最高の条件とはいかないが、人の手で越えるのにはいくらか時間が掛かるだろう。
問題は、相手の接近速度にこちらの対応が間に合うかどうか。
包囲殲滅戦はさすがに勝ち目がない。最低限、相手の進行方向を絞る必要がある。
「……あとは、炎熱使いがいないことを祈るばかりね」
リューシャは小さく呟くと、相手の進路を塞ぐべく、『泥水』の周囲を凍らせに走った。
二方を塞いで時間切れが来た。
地震のような振動とともに離れた位置で黒煙が吹き上がったかと思うと、『泥水』の正面で男たちの声が錯綜する。
悲鳴は虚空を裂き、そして絶える――ボウガンの射出音など一度も聞こえないまま。
塞いだ氷壁の前に立っていたリューシャには、ほんの僅かな猶予があった。
今ならまだ、正面の敵は逃げ出した非戦闘員を追っている。
逃げるか、戦うか。
二正面を相手に戦える相手ではない。が、シャンタールは未だ『泥水』の中だろう。
「……他の剣なら置いてってもいいんだけど」
シャンタールはだめだ。あれは使い手を選り好みしすぎる。
事態がここまで逼迫すれば、置いていったシャンタールがリューシャの手に戻ってこないのは明白だ。
だとすれば、公騎士に渡るにせよエフェクティヴの手に残るにせよ、手にした者が何人死ぬかわかったものではない。
仕方ない、と呟いて、リューシャは『泥水』の砕けた窓に忍び寄った。
『泥水』。
先ほどまで鉱夫たちが談笑していた酒場は、今は……控えめに言って、二度と買い手がつかないだろう惨状を呈している。
やったのは、スリングのようなものを手にした長身の男か。少なくともプラークにはできないだろう。
外からでは見えないが、男の様子からして、カウンターの中にもう一人、だろうか。
これ以上ぐずぐずしている暇はない。
リューシャもまた、見つかれば殺される。
窓辺から狙いを定め、リューシャが鋭く腕を振る。
バキィッ、と音を立てて、『泥水』の扉が氷に閉ざされる。
男が扉を振り返るのと同時に、ガラスのなくなった窓からリューシャが飛び込んだ。
「なんだ、女!?」
上がった声に一切取り合わず、容赦なく、躊躇もなく、超高硬度の永久凍土を削り取るための斬撃が男の首を狙う。
不意打ち一閃。
太い血管がまとめて断ち切れたはずだが、血は出なかった。傷口は純白に凍りついていた。
「……正面からやりあったらわたしが死ぬでしょうね。運のない奴」
崩れ落ちた男を一瞥すると、リューシャはカウンターの裏を覗きこむ。
そこにいたのは、リューシャと入れ違いになったあの少年だった。
「あ、あなた、さっきの……?」
「裏口は?」
「え?」
「裏口。……まさか表のも相手にしろとか言わないわよね。わたしには無理よ」
リューシャは言うと、血みどろの店内をぐるりと見回す。
頭をなくした鉱夫長の手にシャンタールを見つけると、その手から柄を引き剥がした。
刀身を抜いて傷のないことを確かめてから、リューシャはちらりと少年に視線を投げる。
「その男が死んだのに気づかれる前に逃げないと、今度こそ死ぬわよ。
……心中するつもりなら止めないけど、裏口の場所を教えてからにしてね」
どうするの、というリューシャの問いに、少年はゆっくりと立ち上がった。
少年の虚ろな目が店内を見回し、無惨に切り刻まれた日常を視界に収める、その遅々とした挙動。
無理もないとは思うが、少年が今日のうちに彼らと再会したいのでなければ、呆けていてもらっては困る。
「呆けたくなる気持ちはわかるけど、しっかりして。
このままここにいたら、あなたもすぐに彼らの横に転がることになるわよ」
言ってだめなら横っ面を叩くくらいはしてやろうと構えていたリューシャの予想に反し、少年の返答はしっかりしていた。
裏口は、厨房から倉庫に抜けて左。
少年の声に従いかけたリューシャとは対照的に、しかし、少年はプラークのもとに向かう。
プラークを連れて基地へ戻る。
少年のその言葉にリューシャは呆れ返ったが、どうやら彼は本気らしい。
少年は真剣な目で、じーちゃんがまだ基地にいるんだ、と言った。
生きているか死んでいるかもわからない相手をたすけに行く。
それは確かに正しい行動だが、今この状況に限って言えば、拾った命を捨てに行くようなものだ。
リューシャは正しくない。正しくなくていい。
結果的にたすけたことになったが、リューシャは少年の命に責任を持つ気はない。
言葉で止まらないのなら、これ以上粘る余地もない。
だが、そう切り捨てかけたリューシャの耳に、少年の言葉が滑りこむ。
「ここで暴れた精霊は僕が精製したものです。喋る精霊でした。
後で詳しく話します。でも、その前にじーちゃんを助けて下さい。僕の師匠なんです」
それはプラークに向けられた言葉だったが、リューシャの足を止めさせるには十分だった。
プラークの手を引いて隠し階段を降りていく少年の背を見ながら、めまぐるしく思考が回る。
「……心中は止めないんじゃなかったんですか?」
最終的に打算が勝った。
ここで引かないからヴェーラの気苦労が絶えないのだが、染みついた性質はこの土壇場で変わるほど柔くない。
リューシャは少年に続いて階段へ降り、彼の皮肉を笑ってやった。
「それと……不吉なことを言うようだけど、一応聞いておくわ。
君は、そのじーちゃんとやらが死んでた場合、どうするつもり?」
「そんなこと……今は考えてません」
「そう。ちなみに、わたしは最悪の場合君を見捨てて逃げるから、そのつもりで」
あっさり言ったリューシャの顔を、少年がちらりと見上げた。
「……貴女にはいないんですか?
たとえ死んでるかもしれなくても、どれだけ危なくても、助けずにはいられない人」
「いないわ」
リューシャは即答した。
「ヴェーラは死なない。わたしはそれを信じているし、彼女もわたしを信じてる。
どちらかをたすけるために互いを犠牲にするのは、双方の信頼に対する裏切りだわ」
だからもちろん、わたしは生きて帰る。たとえ君を犠牲にしても。
リューシャはきっぱりと言い切って、行きましょう、と少年を促した。
オシロと名乗った少年とともに暗い地下通路を抜けていくと、降りてきたのと同じ構造の扉が頭上に現れる。
「……開けますよ」
オシロがその扉に手をかけて、そっと押し開いた。
その瞬間、灰だか埃だかわからない何かが、土煙をあげて通路に雪崩落ちる。咳き込むと、空気には黒煙のにおいが混じっていた。
たしかにここは、爆破されたエフェクティヴの基地であるらしい。
「この部屋、どこだかわかる?」
「さあ……僕も全部の部屋に入ったことがあるわけじゃないですから」
白く汚れたスカートをはたきながら、リューシャはあたりを見回す。
オシロも同様に周囲を確かめると、右手の壁にある、倒れた棚に塞がれた扉へ近づいた。
「ここから出られそうですよ」
そう言いながら、オシロは早速棚を押し動かそうとしている。
手を放されたプラークは所在なさげに立ち尽くしているが、積極的に逃げるつもりも、二人を邪魔するつもりもないようだ。
放心している、というのだろうか。自分の目的を見失ってしまったように見える。
リューシャはその様を無害と判断して、オシロに近づき、自分も棚に手をかけた。
「ねえ、オシロくん。君のじーちゃんを回収したら、ここからもう一度『泥水』に戻るつもり?」
相手が馬鹿正直に正面から出してくれるとは思えない。
基地を爆破した手口といい、『泥水』でのやり口といい、相手はあきらかに敵を殲滅させるつもりだ。
今『泥水』がどうなっているかは知らないが、仮に火を付けられていてもリューシャは驚かない。
「……それしかないんじゃないでしょうか。
基地の中にいるのが、『泥水』を襲ったのより少ないってことはないと思いますし」
『泥水』、と口にしたオシロの顔が、わずかに歪む。
感情が器いっぱいに満たされて、少しの刺激で溢れてしまいそうな危うさ。
「……苦しい?それとも怒ってる?」
不意に、リューシャが尋ねた。
「わたしは自分の知り合いを殺されたわけじゃないから、君にとってひどいことを言うかもしれないけど……
これ以上大切な人をなくしたくないなら、今は苦しくても悲しくても、それは凍らせておくべきよ。もちろん自分の命のためにもね」
「リューシャさんは、そうしてるんですか」
オシロは皮肉っぽく笑う。
リューシャはそれに、至極真面目な顔で、わたしはもとから氷の眷族だもの、と返した。
「でも、氷は融けるものよ。普通はね」
「……氷が水に戻っても、『泥水』のみんなは戻ってきませんよ」
頑なな横顔。
それを見たリューシャは、それ以上なにも言わなかった。
目当ての部屋を、オシロがすぐに見つけてくれたのは幸いだった。
だが、そこで見つけたオシロのじーちゃん……べトスコ老と、一緒にいた夢路という女性は二人ともほとんど瀕死の重症だ。
プラークまで動員して二人を背負い、地下通路へと駆け戻る。
だが、隠し扉のある部屋の扉を開けた瞬間、リューシャの眼前を鉄の棒が薙いだ。
反射的にシャンタールを抜き払い、相手に突きつける。
戦闘になるかと身構え、交錯した相手の顔を見る前に、えぬえむの声がリューシャを呼んだ。
次いで、オシロが驚いた声で、相手のことをダザさん、と呼ぶ。
知り合いなら話は速い。リューシャは即座にシャンタールを引くと、説明を求めるダザに向かい合った。
「今からわたしたちは地下通路から『泥水』に戻る。それから怪我人を病院に連れてくわ。あなたはどうするの?」
求められている説明は一切省いた。ダザは苛立ちをのぞかせたが、それも無視。
今ここで、長々と議論する気はない。
手を貸して目当ての人物を無事に回収したとはいえ、ここはまだ危険地帯にかわりなく、なによりリューシャも命は惜しい。
夢路をオシロに、べトスコ老をダザに任せ、再び地下通路へ潜る。
明かりの代わりに精霊砲を灯したえぬえむと先頭に並び、地下通路を早足に進む。
道中話を聞くと、どうやらえぬえむは別のルートを経由して、技術者であるべトスコ老に辿り着いたようだ。
正式な紹介状も持っているらしく、こんな状況でなければリューシャはおもいきり喜んだだろう。
ますます、べトスコ老を急いで病院まで運び込まなければならない。
「……だから、私が許可できるのはそっちの老人だけだって言ってるでしょう!?」
だが、辿りついた『泥水』の隠し扉を封鎖したところで、先に裏口を抜けたオシロたちのほうからプラークの声が聞こえた。
「どうしたの」
「この人が、公騎士団病院に夢路さんを連れて行くわけにはいかないって……」
ベトスコ老をえぬえむに預け、今にも鉄モップを振り上げそうなダザ。
オシロはオシロで、夢路を背負ったままプラークを睨みつけている。
「お前がどんなお偉いさんだかは知らないが、ふざけたことを言うな!
夢路だってお前らのせいで負傷したんだ。べトスコさんと一緒に、急いで治療する必要があるんだぞ!」
ダザが怒鳴りつけると、プラークは肩を震わせて一歩下がった。
「なんと言われても、私の権限では許可できないわ!」
「このっ……!」
鉄のモップが振り上がる。悲鳴を上げたプラークがそれを避ける。
「ちょっと、どっちも大声を出さないで。
このあたりにはまだ敵がいるかもしれないんだから」
『泥水』の中から追いついてきたリューシャは、そのやり取りに顔をしかめて言った。
「お前、じゃあ、夢路を見捨てろっていうのか!」
「そんなことは言ってない」
「だったら、」
ダザの言葉を遮るように、リューシャは鞘ごとシャンタールを抜き、振り下ろした。
短い悲鳴を残して、プラークが路地裏の地面に沈む。
「こいつはわたしとえぬえむで交互に背負うわ。
責任は全部こいつに被せて、知らん顔して三人まとめて担ぎ込みましょう」
そこから公騎士団病院までは、さしたる脅威もなく辿りつけた。
裏路地を選んだとはいえ、傍目にも重症の人間を二人に加えて、明らかに貴族とわかる女を担いで走っていたのだ。
敵との遭遇もさることながら、なんら関係のない市民や傭兵に見咎められなかったのは運が良かった。
なにはともあれ、プラークをダシに怪我人を癒師に任せる。
重傷者のついでに、目立つ怪我を追っていたダザも連れて行かれた。
リューシャにできるのはそこまでだ。
カフェテリアを兼ねた待合室で紅茶を啜りながら、リューシャもようやく、ほう、と息をついた。
紅茶の香りが肺を満たし、粘ついた戦闘の余韻を、血と煙のにおいとともに洗い流してくれる。
あとはベトスコ老と夢路の容態が安定すれば言うことはないのだが……
「ここの患者のほとんどは中流階級以上の方です。だから、私は精霊精製技師特有の病気についてはあまり詳しくないのです」
癒師の言葉によれば、怪我とは別に、ベトスコ老はなんらかの病を患っているらしい。
オシロはそれに察しがついたのか、青い顔をして、癒師に頼まれた調べ物に走っていった。
やることがなくなってしまったえぬえむも、宿に戻るという。
しかし、リューシャは去就に迷った。
オシロが去り、えぬえむが去った。
ここに残っているのは、リューシャと意識不明の重傷者が二名、暴れて麻酔を打たれたというダザ、そしてプラークである。
問題はプラークだ。
この女をどうするか。彼女が起きれば、なんだかんだと騒ぐことは目に見えている。
「……ダザに任せてばっくれようかしら」
その場合、ダザとプラーク、どちらが先に目覚めるかは運次第だが。
加えてダザには、説明を求められたところで何を言って何を言わないべきか、判断基準も情報もない。
これに関してはリューシャ自身が説明をざっくりと省いたので、恨み言をいう権利もなかった。
「……これはもしかして、ダザかプラークが起きるまで待ってなきゃいけない……?」
というか、プラークが先に目を覚ましたら、適当に言いくるめるのもリューシャの仕事になるのだろうか。
あのヒステリックな女を。一人で。
リューシャはかちん、とティーカップを置く。
癒師はダザについて、あと八時間は目を覚まさないでしょう、と言っていた。
八時間。
それより前にプラークが目を覚まさなければ、最長で八時間ここで待機。
――どちらにしても、とっとと逃げ出しておくべきだった。
リューシャはうんざりと溜息をつくと、とりあえず給仕に紅茶のおかわりを頼むことにした。
リューシャが待合室に居ついているうちに、オシロが図書館から帰ってきた。
オシロは大事に抱えたノートを黒髪の癒師に手渡して、くれぐれもじーちゃんを頼みます、と頭を下げる。
できる限り、と答えた癒師が去ると、リューシャはその場に残ったオシロを手招いた。
「おかえりなさい。……疲れているところ悪いんだけど、君に聞きたいことが山ほどあるの」
すでにえぬえむが宿に戻ってから三時間が経過しており、リューシャは完全に暇を持て余している。
ダザもプラークもまだ目覚めていない今、ここでオシロを逃す手はない。
リューシャはオシロにも紅茶を注いでやり、さあ、と精霊について聞き出しはじめた。
ずいぶん身に染みついた技術なのだろう、オシロの語り方には淀みがない。
しかしリューシャは、眼前に展開される精霊の精製技術を噛み砕きながら、どこかで違和感を覚えてもいた。
何故あるのか、何故動くのか、何故その性質があるのかさえわからない。
精霊。もとよりずいぶんファジーな命名だとは思っていたが。
「これは技術というより、むしろ……」
精神の力で動力を働かせる。回路を形成する。それは魔法と同じではないのか。
もちろん、エフェクトの発動に求められるものは置換されている。才能の代わりに加工技術を、媒介の代わりに精霊を。
精霊の精製加工を純粋な技術と呼べるかどうかは、リューシャの感覚から言えば微妙なところだった。
「どうしたんですか?」
「……いえ、気にしないで、続けて」
オシロは、リューシャにその気があるなら、エフェクティヴの技術者を紹介してくれるという。
昨日までのリューシャならば確実に迷わなかっただろう。が、精霊について知った今は違う。
リューシャの造る凍剣は、ただでさえ癖が強い。
シャンタールを極北として、精霊を付加するまでもなく主の精神にひどく敏感だ。
「……でも、そうね。どうするにせよ、選択肢は多いほうがいいわ」
リューシャはしばし考えたが、結局、職人の名前と所属している工房、身内を示す符丁を聞き覚えておくことにした。
それらをしっかりと記憶に刻むと、リューシャはオシロに向きなおる。
「ありがとう、オシロくん。……これでわたしの用は終わったけど、君はこれからどうするの?」
「え?僕は……って、どういうことですか?」
「プラークはまだ起きてないもの。逃げるつもりなら今のうちよ」
プラークが目を覚ませば、病院から動かせない二人やダザはともかく、オシロを確保しない理由はない。
「でも、僕はあの基地以外に行くところなんて……じーちゃんだって置いていけないし」
そう言って目を伏せるオシロに、リューシャはふむ、と頬杖をついた。
「……行くあてがないなら、わたしの泊まってる宿に来る?
近日中に精霊の精製を直に見せてくれるなら、当面の宿代を出してあげてもいい」
どうする?今度はリューシャがそう問う番だった。
「……ムカつく女」
言いたいことだけ言って去ったプラークのことを、リューシャはそう評した。
お嬢ちゃん呼ばわりされたのを、少しばかり根に持っているらしい。
彼女はオシロを連れて行ってもいい、と言って報告に戻ったが、その報告如何によって彼女の上がどう判断するかはわからない。
……この時点ではともかく、再び会うことがあれば、信用はできないだろう。
「あの……」
険しい顔でプラークを見送るリューシャに、二人の間で行き交った皮肉に顔をひきつらせていたオシロが声をかける。
「ああ、ごめんなさい。……とりあえず、君はもう宿に移ったほうがいい。疲れてるでしょう、顔色が悪いわ」
リューシャは目付きを和らげて、そう笑ってみせた。
まだ少年のオシロに、今日一日はとてつもなく長かっただろう。
リューシャが彼に提供してやれるのは、今のところ、とりあえずの宿くらいだ。
「ありがとうございます。……でも、リューシャさんは?」
もちろん、同じ宿に部屋をとってやる以上一緒に戻ってもいいのだが……
「……ダザがまだ起きてこないのよね。癒師の話じゃ、麻酔が抜けるまであと……三時間くらいかしら」
リューシャは肩をすくめて、足を組み替える。
魔法を多用して動きまわった上、今度はもう数時間も座りっぱなしで、身体の疲れが溜まっていないわけがない。
だが、ダザはエフェクティヴの基地で明確に説明を求めていた。
それを意図して遮ったのがリューシャである以上、説明責任を果たすつもりくらいはある。
「でも、リューシャさんも休んだほうがいいですよ。
ずいぶんたくさん戦ってもらって……助けてもらったんです。疲れてないはずないでしょう?
ダザさんには、次に会った時、僕から説明しますから」
だから休んでください、とオシロが重ねて言った。
自分のことのように困った顔をする少年に、リューシャは苦笑して折れる。
「わかった。じゃあ、ダザへの説明はオシロくんにお願いするわ。
……わたしも内部事情を知ってるわけじゃないし、知り合いから聞いたほうがいいかもね」
リューシャはそう言って立ち上がり、ぽん、とオシロの肩を叩いた。
「よし、それなら宿に行きましょう。君の部屋を取ってもらわなきゃ」
「お世話になります」
「おはよう」
「おっはよー」
宿の食堂に降りてきたオシロを、リューシャとえぬえむが迎えた。
「おはようございます……」
「よく眠れた?」
「うーん……ちょっと落ち着かなくて……」
えぬえむがアルティアにクッキーを与えながら、二度寝しちゃえば?と笑う。
「ベトスコさんのお見舞いなら、午後からでも大丈夫なんでしょ?」
「そうね。それに、もしも何かあったらこの宿に伝えてくれるように頼んであるわよ。
昨日は色々あって疲れてるだろうし、一日くらいゆっくりしててもいいと思うわ」
二人はそう言ったが、起きたばかりのオシロと違い、すでに出かける用意をしていた。
昨日は血で汚れていた服や靴も、今日はもうきちんと整えられている。
「お二人はどうされるんですか?」
「私は出かけるわよ。アイツの指令はまだ山ほどあるし」
「わたしも出かけるわ。何もわからないかもしれないけど、少し町を歩いて、昨日の影響を見てみるつもり」
どの程度の危険を見積もればいいのか理解しないことには、せっかくのツテも使えない。
危険が過ぎれば手を引くことさえも考えるべきだと、リューシャは冷静にそろばんを弾いていた。
せっかく技術を得たところで、リューシャ自身がそれを使える状態で帰郷できねば意味がないのだ。
「オシロくんが見てきてほしい場所とか、会ってきてほしい人とか、わたしが代わりに行ってきてもいいわよ」
「やっぱり、僕が出歩くのは危険だと思いますか?」
「……まあ、町に出るなとは言わないわ。でも、『泥水』や基地には近づかないほうがいい。できればラボタ地区は避けて歩いて。
一番いいのは宿からでないことだけど、ここもどれほど安全かはわからない。……そもそも全部杞憂かもしれないしね」
多くの商人を客として抱えるこの宿ならば、お抱えの傭兵も雇われている。
万が一襲撃があった場合、町中よりも少しは逃げやすいだろう。
肩をすくめてそう言うと、リューシャはカップを置いて立ち上がる。
確保されたラボタの住民から、どんな情報が、どんな形でどれほど漏れたか。
件の「喋る精霊」に関してオシロの名前が漏れていないとも限らないし、それがオシロに不利な形でない保証もない。
リューシャにとっては、オシロを確保されると、エフェクティヴに直通のラインが絶たれることにもなる。
でも、と微笑んだリューシャが、すれ違いざまオシロの肩を柔らかく叩いた。
「……オシロくん。わたしは技術者として尊敬できる相手を子供扱いするつもりはないわ。
だから、大切なことは自分で決めてね」
宿にいるなら、食堂なんかの料金はわたしにツケておいても構わないから。
リューシャはそう言って宿を出ていった。
ダザの家の戸を、誰かが叩いた。
ダザが警戒した様子で戸を開くと、見知らぬ男が一人、立っている。
「……なんだお前、こんな夜中に」
「すいませんね。手紙を頼まれたんです。これ、お渡ししましたからね。では」
客はあっという間に封筒をひとつ押し付けて、夜の闇に消えていった。
ダザは首を傾げて戸を閉めると、封筒を透かし見て、そこに紙一枚だけが入っていることを確かめる。
『二階で待つ』
白い便箋に、たった一行。名前もない。筆跡に見覚えもなかった。
ダザは顔をしかめてモップを手に取り、足音を殺して二階へ上がる。
二階といっても狭い屋根裏だ。そう何人も潜めるようなスペースはない。
「……誰だ」
絞った声に、影から現れたのはリューシャだった。
金髪をフードで隠し、シャンタールにも布を巻いて特徴を消している。
「名前は出さないで。一応、聞かれて足がつくと困るわ」
「……お前、どうやって入った?」
「あなた、監視されているようだったから。手紙をやったでしょう。そっちに目が行っているうちに、ガラスを切ったの」
「お前な……」
器物損壊を咎めかけたダザを、リューシャは鋭く静止する。
「ガラスならあとで弁償してあげるから聞いて。……オシロが消えたわ」
言うと、リューシャは懐に手をやって、オシロからの手紙を差し出した。昨日、ダザが眠っていた間のあらましも説明してやる。
話が進むにつれて、ダザの眉間はどんどんと険しくなっていった。
「……お前、どうしてあいつを放っておいたんだ」
「あら。一日張り付いて監視していればよかったのかしら。それとも宿に監禁しておけって?
あの子はそれほど子供じゃないわ。あなただってわかっているでしょう」
リューシャはそんなダザを軽くいなし、それより、と話を続けた。
「宿の主人の話からして、あの子は自由意志で出ていったわ。危険も承知してたはず」
「だから放っておけっていうのか?」
「放っておけっていうために、わたしがわざわざあなたの家を探したと思っているの?
あなたに指示を仰ぎたいのよ。……わたしには土地勘がないし、この街の情勢にも疎いから」
「指示?」
「あなた、いつ取り調べで身動き取れなくなるかわからないでしょう?」
リューシャが肩を竦めると、金髪がひと筋フードからこぼれて、割れた窓からのかすかな光に輝いた。
「……ひとつ聞きたい。お前は、どうしてオシロに肩入れするんだ?」
「自分のためよ。だから、過剰に期待されても困る。
ただ、彼は今のところ、わたしの目的に一番近いところにいるわ。仮に見捨てることがあっても、裏切ることはない」
そんな保証で満足かしら。
そう言ったリューシャは、ニヤリと人を喰ったような笑みを浮かべてみせた。
ダザから得た情報は、オシロの手紙とともに宿の暖炉で灰になった。
どちらも内容は頭に叩きこんである。下手な物証を残す気は一切ない。
朝早く宿を出たリューシャは、まずラボタ地区に向かった。
ラボタの人通りは、ひどくまばらだった。
ごく一部の建物を除いて封鎖はとけているようだが、公騎士の数が多い。それ以外の人影は、みなことごとく足早だ。
『泥水』の一件がよほど堪えたのか、明らかによそ者のリューシャに対して、人々の視線は刺すように鋭かった。
このまま坑道まで進めば、《叩き屋》や公騎士どころか、エフェクティヴに囲まれかねない。
「鉱夫の休憩所に向かうのも、目立ちすぎるか……」
坑道には何度か足を運んでいる。技術見学という名目も立つ。事実何度も訪れていることは、調べればわかることだ。
だが、リューシャが鉱夫たちの休憩所を訪れる適当な口実は思いつかなかった。
リューシャは考える。だが、歩みは止めない。
そのまま角を曲がった。二度、三度、蛇行を繰り返して監視のないことを確かめる。
そして淀みない足取りで、そのままラボタを歩き去った。
「……しかたない。予定変更」
ダザ自身ならともかく、やはり今のエフェクティヴによそ者のリューシャが接触を持つのは難しい。
エフェクティヴは良くも悪くも、リリオットに土着の組織だ。リューシャは、エフェクティヴに対して身の潔白を証明することができない。
ならば、手持ちのカードを活かすことを考えるべきだった。
そして、今この場で切ることのできるリューシャの手札は、技術と信頼。
自負ではない。矜持でもない。もちろんそれらを持ってはいるが、この場合に手札となるのは、純粋かつ客観的な評価だ。
ソウルスミスという巨大なギルドを相手に取り、十数年に渡って積み上げた技術者としての信用。
その蓄積を、容易に揺らがせるつもりはない。
「――こちらは、ジフロマーシャ本邸で間違いありませんでしょうか」
冷たく冴えた『仕事』の表情で、リューシャはジフロマーシャ邸の扉を訪う。
「ソウルスミス、パールフロスト支部加盟のリューシャと申します。
こちらが開催する“精霊精製競技会”の噂を耳にしてお伺いしました。是非担当の方とお会いしたいのですが」
そう告げて、ソウルスミス発行のミスリル貨を示す。
鋳造年度の明記されたその硬貨は、古いものであればあるほど、ソウルスミスとの長い取り引きの……ひいては信頼の証になる。
リューシャの手にある硬貨に刻まれた年度は、十二年前。リューシャの年齢を考えれば、ずいぶんな古貨だ。
「……しばしお待ちを」
言い置いて扉を閉めた侍女が戻ってくるまでに、そう長い時間はかからなかった。
「……本当にあなただったの。名を明かしてこんな所へ来るなんて、いい度胸ね」
ジフロマーシャを訪れたリューシャの前に現れたのは、不機嫌な顔をしたプラークだった。
行方不明と聞いていたが、どうやら無事ではいたらしい。
さしずめ、先日の失態についてどう責任を取らせるか内部で協議中、というところだろう。
失態を犯したばかりの今のプラークに、たいした発言権はない。
物証も目撃者もなしに、公式訪問したリューシャを処断できる裁量はないはずだ。
そう踏んだリューシャは、クス、と微笑んだ。
「一体何をおっしゃっているのかわかりかねますわ、プラーク顧問。
わたしはラボタで襲撃に巻き込まれたあなたと、そばにいた怪我人を病院に運び込んだだけでしょう?
その後のお加減はいかがかしら。少しは頭が柔らかくなっているといいのだけれど」
涼しい顔でティーカップを傾けるリューシャに、プラークの眉間が三割増しに険しくなる。
「ええ、おかげ様でね」
「精製競技会も、あなたが担当だなんて思いませんでしたわ。
競技会の担当者なんて、閑職に飛ばされたのはあの時のお怪我が原因?お気の毒さま」
「……あなた、いい性格してるわね」
「お褒めにあずかり光栄ですわ……と、言うべきかしら?」
そこまで言って、ふ、とリューシャの表情から温度が下がる。
「……いい性格をしているのはあなたもよね、プラーク」
リューシャの言葉に、プラークは一瞬息を呑んだ。
その反応に手応えを感じて、リューシャは一気にカマをかける。
「……オシロを確保したわね?先日とは、ずいぶん話が違うんじゃないかしら」
氷のような鋭い微笑。
ためらいのない断言に言葉を迷い、しかし、やがてプラークは息をついた。
「あなた……呼び出しの件を、あの子から聞いたのかしら。
あの子なら、誰にも言わずにまっすぐ来るかと思ったけど……思ったより信頼されてるのね」
プラークは正しい。オシロはリューシャに何も伝えてなどいない。
みごとに引っかかったプラークに、リューシャは内心でぺろりと舌を出す。
「さあね。あの子がどう思っているかは知らないわ」
エフェクティヴがオシロを保護したなら、オシロの性格から言ってなんらかのアクションがあったはずだ。
もちろん、なんらかの理由があってそれができない、あるいはこれ以上リューシャに関わるつもりがない、という事も考えられる。
だが、リューシャは賭けに勝った。
掴んだ情報の手蔓を前に、リューシャは冷徹な計算を巡らせ始めていた。
翌日。
プラークに用意させた見学席で、リューシャはオシロが粗霊を精製し始めるのを見ていた。
オシロには暴行を受けた痕跡があったが、動きを見る限り支障はなさそうだ。
精霊精製には門外漢のリューシャだが、オシロの求めた器具が現代のものから軽く見積もって二世代は前のものだとわかる。
だが、オシロが分離機とヘラで粗霊を分類していく手さばきには淀みがなかった。
器具が旧式であるだけに、リューシャには、その卓越した技術が輝くように見える。
技術者としてのオシロはリューシャの同類だ。リューシャはそう思う。
幼い時から、ただひたすらにひとつの技術を磨き続ける日々。
そうしてきた者だけが得られる感触。素材を前にして見える、根拠のない完成図。オシロにはきっと見えているはずだ。
彫刻家は言う。
掘り出すべきかたちは大理石の中に既にあり、かたちを造るのではなく、それを見出すのだと。
誰かが決めるのではない。すでに、“ある”のだ。
リューシャは凍土の氷の中に、オシロは精霊の中に、それを見出す。
オシロが彼のすべてを賭して競技会に臨んでいると知りながら、リューシャは笑みがこぼれるのを止められなかった。
高い技量の技術者を、その腕を愛するのはリューシャの性だ。
オシロに最高の環境を提供したら、あの技量はどこまで伸びるのだろう。……興味はあるが、今はその時ではない。
「……あの子なら、少なくとも、一次審査で落ちるようなことはないでしょ」
作業を中断して席を立ったオシロを見送り、リューシャもまた席を立った。
明日から先もとりあえず見学席を確保しておくように係の人間に託けて、会場を出る。
「さて、と……」
拘束中のオシロに会わせることはできないと、プラークからは念を押されている。
居場所がわかれば手がないでもないが、最低限、一次審査が終わるまで命の心配はしなくてもいいだろう。
問題は、ダザに事の次第を伝える方法だった。
当人に会うことはもちろん、手紙を出すにしても記録を残すことは避けたい。
……とすると、また適当な相手を捕まえて手紙を託すか。
リューシャは少し考えて、ペンを走らせる。
『今日、精霊精製競技会を見学してきたわ。
一人、いい腕の技術者を見つけたの。あなたもきっと興味をもつと思う。
居所の知れない子とはいえ、あの様子ならジフロマーシャのお抱えになれるかもね。
残念ながら声は掛けられなかったけど、そのうち引き抜きの話をしてみるつもり。
もう少し追いかけてみるから、続報を待っててちょうだい』
誰の手に渡ってもいいように、サインはしない。確定的なことも書かない。
問題は、この手紙を誰に託すかだ。閉じた封筒を手に、通りを歩きながら適当な相手を探す。
やがてリューシャの目に止まったのは、異国の服を着た白髪の少女だった。
「ちょっと、そこのあなた」
「ぎえっ!? 違います、つまみ食いしたいなんて思ってません!」
あられ揚げの屋台をとっくりと眺めていた少女に声をかけると、少女は悲鳴をあげて、文字通り飛び上がった。
「……ごめんなさい、そこまで驚かれるとは思わなかったんだけど」
少女に触れた手を中途半端に上げたまま、リューシャは目を瞬かせる。
その表情に我に返ったのか、少女ははっと礼を取った。
「お、驚かせて申し訳ありませんでした。私は東の国のサムライ、光陰相対流のカラスと申します」
「……いえ、こちらこそ、急に声をかけてごめんなさい。丁寧な名乗りをありがとう。それで、カラスさん。今、時間はある?」
カラスは少し首を傾げてから、はい、と答えた。
それを受けて、リューシャは微笑む。
もの慣れないふうのカラスの様子は、ここ数日ピリピリしていたリューシャの心をほのかに暖かくする。
「ありがとう。……そこの広場でいいかしら?それともお腹が空いてるなら、どこか入りましょうか」
「いえっ、広場で十分です!」
「そう?じゃあ、驚かせたお詫びにあられ揚げを奢らせてね」
リューシャは目の前の屋台であられ揚げの大袋をひとつ買うと、カラスを連れて広場のベンチに陣取った。
二人の間に袋を置いてカラスに勧めると、カラスは慎重な手つきであられ揚げをひとつ摘み、じっと見て、それから口に運ぶ。
ふわりと蕩けたカラスの笑みを、リューシャは優しく見守っていた。なんだか、餌付けをしているような気分だ。
「……はっ!ついあられ揚げに夢中になってしまいました!何か御用があったんですよね!」
しばらくあられ揚げに集中していたカラスが、不意にがばりと顔を上げて叫んだ。
リューシャはその様子に、口元をおさえて吹き出した。
「き、気にしないで。大丈夫よ」
ひとしきり笑ったあと、リューシャがコートの内ポケットから手紙を取り出す。
「あなたにお願いしたいことがあって……。ある人に、この手紙を届けてもらえないかしら。
相手は、ダザって名前の清掃員よ。できれば直接手渡してほしいの。……わたしからだってことも、秘密にしてほしい」
「そ……それはもしや、恋文というやつでしょうか……!?」
「こ……まあ、そういうことでも構わないけど……お願いできる?もちろんお礼もお支払いするわ」
封筒の上に銀貨を二枚重ね、カラスの手にそっと握らせる。
カラスは瞳をきらきらと輝かせて、リューシャの手をぐっと握り返した。
「お任せあれ!あなたの恋路のため、不肖このカラス、全力を尽くします!」
「恋路……。いや、いいわ。わたしのことは、くれぐれも秘密にしてね」
リューシャは微笑んで、だって恥ずかしいもの、と嘯いた。
宿の食堂で朝食を摂りながら、リューシャは今日もリリオットの軋みを聞く。
曰く、ヘレン教の教会が襲撃された。曰く、ダウトフォレストへの派兵が始まった。
中でも商人たちの槍玉に上がっているのは、昨夜のうちに黒髪ばかりが十数人も殺されたという話だった。
ここは、リリオットで黒髪を受け入れる数少ない宿のひとつだ。必然、黒髪襲撃に危機感を覚える者も多い。
「……カラスさん、大丈夫かしら。黒髪じゃあなかったけど、なんだか放っておけない感じの子だったのよねえ……」
おかげで、伏せておくつもりだった名前までこぼしてしまった。
情報が漏れることを心配しているわけではないが、何も知らないほうが彼女自身のためだ、とリューシャは思う。
カラスには、行きずりのリューシャの名前を律儀に隠し通そうとするような、まっすぐな純真さが見えた。
もしも巻き込んでしまった場合、それは非常に危うい気がする。
「競技会の見学に行く前に、少し探してみようかしら」
昨日の様子なら、一次審査が終わる明日まで、オシロが積極的に危険に晒されることはないはずだ。
それに、手紙が無事に渡っていれば、ダザから何か反応があるかもしれない。
とりあえずの方針を立て、リューシャは席を立つ。
昨日の広場を中心に、通りを行くリューシャの足取りは散歩をするように軽い。
だが、その視線は油断なくすれ違う人々を観察していた。やがてその目が、どことなくしゅんとしたカラスを見つける。
「……カラスさん。どうしたの、落ち込んでいるみたい」
「リューシャさん?リューシャさんですよね、ああ、またお会いできてよかった!」
カラスは潤んだ瞳で、ダザを探したこと、見つけたこと、呪いの気配に近づくこともできなかったことを切々と訴えた。
渡せなかった手紙を懐から取り出して、申し訳ありません、と詫びる。
「ああ、これであなたの想いが伝わらないなんてことになったら……!」
俯いたカラスを慰めながら、しかしリューシャは別のことを考えていた。
「ダザ、……彼、呪われてるの?」
「なんだ、呪われてるとは人聞きが悪いじゃねえか」
後ろから声を掛けられて、リューシャとカラスがばっと振り返る。
そこに立っていたのは、ニタニタと暗い笑みを浮かべたダザだった。
「ダザ……じゃ、ないわね」
半歩前に出ようとしたカラスを、リューシャが押し留める。
そんな二人に、ダザがモップの柄を振り上げた。
「今はオレがダザだよ!」
殺気に反応し、リューシャが反射的に雪華を放つ。
鋭い雪片はひとつ残らず弾かれたが、リューシャは即座に凍土によってダザとの間を塞ぎ、カラスの手を引いて走りだしていた。
「逃げましょう」
「え、えっ」
ここからなら、精製競技会の会場が近い。あそこなら警備兵がいる。
部外者のカラスを連れ込むとなるとまたモメるだろうが、やむを得ない。
……だが、走る二人が辿り着く前に、その会場で、工房の一棟が大爆発を起こした。
何が起きた。
あまりに突然の出来事に足が止まり、思考が空転する。
爆風の届くような距離でなかったことを幸いとするべきか。だが、逃げる先はなくなった。
原因は。規模は。あの規模なら死人も出ているだろう。では――オシロは?
まずい、と呟いて、リューシャはカラスを連れたまま現場に向かう。
現場では警備兵たちが慌ただしく行き来しながら、爆発した工房の周囲で怪我人を搬送していた。
周辺は封鎖が進み、じきに野次馬も追い出されるだろう。当然、リューシャたちも長くはいられない。
しかも、同じく爆発に惹かれたのか、撒いたと思ったダザがこちらに向かってきていた。
「すみません、競技会参加者の安否は」
「悪いが今はそれどころじゃない。今まさに生死の境をさまよってるような奴ばっかりだしな」
「リューシャさん、あの人が」
「……くっ」
カラスが袖を引く。だがリューシャには、リリオットの中で安全に逃げ込める場所を持っていない。
宿に戻ろうと思えばダザを完全に振り切るしかないが、女二人で彼の機動力に勝てるだろうか
ぎりっと奥歯を噛んだリューシャの手を、今度はカラスが引いた。
ダザの目を掻い潜るよう野次馬の集団を突っ切って走る。
カラスはリューシャがこれまで通ったことのない通りを抜け、入ったことのない区画に入る。
華奢な少女に見えたが、感心するほどの健脚だ。
やがて辿りついたのは、『最果て』という名の時計館だった。
時計館、というのも目にしたことがなかったが、サルバーデルと名乗った館の主は、輪をかけてお目にかかったことのないタイプだ。
痩せた長身にシルクハット、文学的な語り口。極めつけに、文字盤の仮面。
彼は二人が不意に現れた事情も深くは聞かず、リューシャをカラスとともに本格的なアフタヌーンティーに招いた。
柔らかな紅茶の香り、……いい葉を使っている。
リューシャは一口それに口をつけると、ふう、とため息をついてカップを置いた。
ふと、公騎士団病院の待合室を思い出す。あそこもいい葉を使っていた。
宿を提供しようかという提案に、照れくさそうに笑ったオシロ。
あの子の知識も腕も、あの爆発で失われてしまうのだろうか。
才能、適性、情熱、研鑽……すべて揃った確かな技術者が。
なんて惜しいのだろう。できるならあの才を、もっと高度な環境で伸ばしてやりたいとさえ思ったのに。
口数の少ないリューシャを慮ってか、カラスはティータイムの後、二階の自室を使ってくださいと提案してくれた。
ダザや、工房の爆発事故についても調べてくれるという。
「手が空いたら、また戻ってきますから」
安心させるように微笑んだカラスに礼を言って彼女を見送り、リューシャは静かに目を閉じた。
そしてそのまま、深い深い思考の海へ沈んでいく。
ダザの様子からすれば、戦闘になることも視野に入れなければならない。
ならばその果てに至る前に……考えることが、山のようにあった。
考えはまとまった。あとはどう行動するかだ。
危ない橋も渡るかもしれないが、……引き際を誤ることだけはすまい。
心を決めたリューシャが手持ち無沙汰に部屋を眺めていると、少ししてカラスが戻ってきた。
カラスはリューシャにクラッカーとレモネードを勧める。
それからダザのことを、そしてカラス自身のことを語り聞かせてくれた。
ダザの呪い。カラスの呪い。ダザは精神が、カラスは身体が、呪いによって変化してしまったらしい。
「ごめんなさい。つい自分のことを……わ、忘れてくださいませ……」
身の上話を恥じているのか、カラスはそっと目を伏せる。
……その仕草からして、元の姿でもきっと可愛いのに。
言いかけて、リューシャは口を噤んだ。さすがに失礼にあたるだろう。
そんなリューシャの内心をつゆ知らず、カラスが手に入れてきた瓦版を差し出した。
爆発事故についての速報。死者二十数名、怪我人、行方不明者は増加中……。
見出しに踊る自爆テロの文字。そのすぐ下に、エフェクティヴの犯行か、と添えられていた。
あの競技会には、ラボタで確保された技師も何人か参加していたはずだ。
本当にエフェクティヴの犯行だとしたら、彼らもまとめて吹き飛ばしても構わないと判断したのだろうか。
「……わたしだったら、少なくともオシロは救出したがると思うけど……」
資材の乏しい反体制組織で、あの精製の腕は貴重だったはずだ。
とすれば、捕まっていた技師……あるいはオシロ自身が?
「リューシャさん……あの、なんと言ったらいいか……あまり落ち込まないでくださいね……」
自分の考えに沈み込んだリューシャにカラスが寄り添い、たどたどしく慰める。
釘が刺さった腕。焼けた肌。仮の姿だとわかっていても、少女の腕としては見るに堪えない。
リューシャはそれを見て、飲み終えたレモネードのグラスに純白の雪を生成し、カラスの腕に押し当てた。
「ありがとう、カラスさん。……こんな霊傷があるのに、わたしのために手を尽くしてくれたのね」
「い、いえ、サムライとして当然のことですから」
ほのかに赤くなったカラスに微笑んで、リューシャは立ち上がる。
「本当に感謝してるわ。……だけどわたし、今日はもう行かなくちゃ」
「えっ?もう少しゆっくりしていっても……」
「気持ちは嬉しいけど……。
ああ、でも、何かわたしに出来ることがあれば、カラスさんもわたしを頼って。ね?」
リューシャは机の上からペンと紙を取り上げる。
そうしてそこにリリオットでの宿泊先と、ソウルスミス経由で手紙を送る際の連絡先をさらさらと書きつけた。
「また会いましょう」
ウインクをひとつ残して、リューシャはカラスの部屋を後にする。
そして――扉が閉じると、カラスに微笑んでいたリューシャの瞳は、すっと凍りついた。
ここからは、冷たく鋭い氷の時間だ。
『最果て』を出たリューシャは、ダザの影を警戒しながら職人街に足を運んでいた。
目当ての工房を訪れると、すでに何度目かになるリューシャの訪問に、職人たちが一様に振り返る。
「またアンタか。何度も言ってるが、この工房は、一般の見学は受け付けてないよ」
顔をしかめる者、苦笑する者、反応は様々だがリューシャはにっこりと笑ってみせた。
「今日は見学目的じゃないの。……この中に、『腐ったリンゴを再生する』ことのできる技師は?」
「……!」
リューシャの言葉に、工房の空気が音を立てて変わった。
だが、殺気立った職人たちにも、リューシャを融かすほどの熱はない。
「お前、それがどういう意味だかわかって言っているのか。……どこでその言葉を知った?」
「オシロという少年から。彼には『泥水』襲撃で貸しがあるの」
『泥水』の名に、エフェクティヴの男たちが口を開きかける。
それに先んじて、リューシャは更に続けた。
「言っておくけど、わたしは襲撃に巻き込まれただけよ。エフェクティヴに敵対するつもりはないし、参加するつもりもない」
「……だったらお前は、何をしにきた?」
「エフェクティヴには興味がないけど、オシロくんには興味があるの」
あっさりと肩をすくめたリューシャの気負いのない様に、男たちは武器に伸ばした手を下ろす。
その視線から疑いの色が抜けたわけではない。
それでもリューシャは涼しい顔をしている。疑われても痛くも痒くもない、とでも言いたげだ。
「聞きたいことは、さしあたりひとつよ。……あの子、無事なの?」
リューシャが発した問いに、男たちの表情が一様に苦くなった。
その顔に、リューシャがぴんっと片眉をあげる。
「死んだの?」
「……死んだほうがマシだったんじゃないか、アレは」
吐き捨てるような言葉。
よほどひどい状態なのか。それとも、身内の暗部でも見てしまったか。
リューシャにはそれを推し量るすべがないが、彼らがそう言うほどのことがあったのだろう。
「……会える状態かしら」
「無理だろうな。まだ生死の境を行ったり来たりさ。……いや、半分以上死んでると思うがね」
「じゃあ、あなたに言付けを頼むことは?」
男は眉をひそめて、保証はできない、と言った。
「オシロは多分、どこかに搬送されるはずだ。エフェクティヴで長くもたせられるとは思えんからな」
「……なら、保証はいらない。できれば、でいいわ」
来る気があるなら、わたしのところへ来なさい。わたしは君のことを買っているから。
「……それだけでいいのか?」
「それ以上言ってもしょうがないでしょ。
わたしは回復術を使えないし、死にたい人間を生かすほどお人好しでもない。……惜しいとは、思うけどね」
リューシャはそう言って、肩をすくめた。
工房を出たリューシャをつけてくる影がある。
ダザ……ではない。彼なら多分、声をかけてくるだろう。
ため息をついてリューシャが振り返ると、そこにいたのはエフェクティヴの男の一人だった。
「……みんなは甘い顔をしていたが、組織の符丁を外部の人間が知っているなんてのは許されない」
言った男の手には精霊武器。質はそこまで高くない。
向けられた敵意に、リューシャはシャンタールに手を伸ばす。
「お前の選択肢はふたつだ。協力するか、死ぬか……どちらか選んでもらう」
「残念、どちらもお断りよ」
「では死ね!」
交渉の余地なし。
剣を抜いた男に応え、リューシャもまたシャンタールの鞘を払った。
蒼い刀身から放出される冷気に、周辺の水分が白煙と化す。
音高く鋼と氷が打ち合わされる。一合。二合。打ち合わすたびに鋼が欠ける。
精霊加工を施してなお、刀剣としての格が違う。そしてそれを振るう者の、職人としての誇りの高さが違う。
剣士に負けることはあろう。術者に負けることもあろう。路傍の子供に負けることさえあるかもしれない。
それでもリューシャは誇りにかけて、手段として武器を作る者には、けっして負けない。
やがて、ぎぃん、と男の剣が半ばから折れ飛んだ。
相手の武器を叩き折ってなお刃こぼれひとつない切ッ先が、男の首に突きつけられる。
「……そのへんにしといたらどうじゃ?」
だがそこで、掛けられた声にリューシャの手が止まった。
刃をそのままにそちらに目をやる。
白いローブの少年。……エフェクティヴではない。空気が違った。
「儂はウォレス・ザ・ウィルレスじゃ……と言っても、見たところおぬしは旅人じゃから知らんじゃろうな。
すまんが儂は今、少々エフェクティヴに用があってな。
おぬしがどうしてもそいつを殺したいというのでなければ、その男を譲り受けたいんじゃが」
もちろんそれなりの対価を払おう、とウォレスは言う。
リューシャはウォレスをちらりと一瞥すると、男に突きつけていた刃をくるりと返し、その峰で男を殴りつけて意識を奪った。
「おお、ありがたいのう」
「……お役に立てたならなにより」
リューシャは、ひょいと肩をすくめてシャンタールを納刀する。
「対価は……そうじゃな、金を求めているわけではなかろう?その刀について、というのはどうじゃ?」
「……面白いわね。あなたに何がわかるの?」
製作者のリューシャに、シャンタールの何を教えてくれるというのか。
興味をそそられて、ウォレスに向き直る。
「儂はこれでも三百年生きた魔法使いでな。妖刀や魔剣も見慣れておる。その刀のような、主を求める剣もな」
「……なるほど?」
「どうやら対価として足るようじゃな。では教えよう。……見たところ、そいつはもう主を決めておる」
誰だかまではわからんが、心当たりはあるかね?
そう笑ったウォレスに、リューシャは口をつぐんだ。
……誰のことだ、それは?
「心当たりは無いか……だが、この街は狭い。いずれその剣の主と出会うこともあるじゃろう」
そうウォレスは言った。
爆発事故についてもいくつか話を聞けたが、シャンタールについてはそれ以上なにもわからなかった。
それはいったい嘘か真か、はたまた単に担がれたのか。確証などなにひとつもない。
リューシャは日の落ちた街を歩きながら、この街で出会った人々のことを思い返していた。
彼ら、あるいは彼女たち。
互いの道は時に触れあい、時に交わり、そして離れる。
分かり合うことも、相容れないことも、道を外れることもあるだろう。
だがそれでも、彼ら彼女らは、みなそれぞれの生を歩んでいる。今も、各々が持つ細い道を懸命に。
その、果てしない熱量。
「……お前のお気に召すような相手が、いたかしらね」
シャンタールの柄に手を置く。刀は何も応えない。
リューシャはほのかに苦笑した。
自分の作品については誰よりも知っているつもりだったが、シャンタールには本当に手を焼かされる。
気に入らぬ主を殺すこと三人。
手に負えないとリューシャのもとに戻ってきたとき、蒼い刀身はただの氷のように濁っていた。
欠けた刃を調整し、研ぎ、魔力を焼きなおしている最中、何度ヴェーラに廃棄を薦められたかわからない。
それでもなおもう一度刀として仕上げたのは、シャンタールが……その蒼い氷が、それを求める声を聞いたからだ。
凍土の中から見出した氷塊。そこに秘められた、あるべきかたち。
シャンタールのそれには、シャンタールを振るうべき主が必要なのだ。
そしてリューシャには製作者として、己の手でシャンタールを“あるべきかたち”にしてやる責任がある。
生涯変わらぬ主としてシャンタールを振るう者を探す、責任が。
「と、言っても……凍剣と同化できるような性質の人は、いなかった気がするんだけど」
劣化しないこと。変質しないこと――凍剣として加工される氷の性質。
シャンタールはその主に、自らと同じ性質を求めている。己があるべきかたちに収まるために。
……だがこの世界では、信念さえもたやすく曲がる。
環境に、他人に、自分に、魔術に、剣に、痛みに、優しさに、恐れに、愛に、憎しみに、死に。
あらゆる事象にエフェクトされて、心の在りようは変節しうる。
刀一本のために心を割き続けることは、心の変化を拒否することだ。
「……難題ね」
リューシャはやれやれと天を仰ぐ。
星はやはり、リューシャになにも応えはしなかった。
宿に戻ったリューシャを訊ねたのは、えぬえむだった。
会えてよかった、とほっとした顔をしたえぬえむは、既に何度かリューシャの部屋を訊ねた後のようだ。
えぬえむにつれられて部屋を移動する。
「……あらまあ……」
案内された室内には、青白い顔で意識を失った少女が一人。
同じく意識と、さらに義足を失ったダザ。
大剣の鞘を前に、険しい顔の黒髪の男が一人。
みな、ほとんど満身創痍といっていい。
「さっきまでヘレン……ソフィアさんもいたんだけど、彼女は今いろいろあって……うーん、説明が難しいわね。
とにかく、今の彼女は微妙な状態なの。私は彼女を追いかけなきゃいけないんだけど、この三人も放っておけなくて。
それに、ダザの義足をなんとかするのに、技師も探さなきゃいけないし……」
「……それで、わたしにこの三人のお守りを?」
リューシャはえぬえむと室内の二人を見比べて、肩をすくめた。
「ソフィアの方はアテがあるの?」
「なんとかするしかないわね。成り行き上、しばらく面倒見るって契約しちゃったし」
「なら、そうね。……まあ、さしあたり朝までくらいなら構わないわよ」
請け負ったリューシャに礼を言い、えぬえむはリューシャに黒髪の男を、黒髪の男にリューシャを紹介する。
それだけ済ますと、えぬえむは慌ただしく宿を飛び出していった。
「……リューシャちゃん、君、凍剣造りの鍛冶屋なんだって?」
しばらくして、マックオートが口を開いた。
リューシャは扉に寄りかかったまま、目線だけで頷く。
「……頼みがある。俺に、剣をくれないか」
マックオートの視線は、リューシャの腰、シャンタールに注がれていた。
「こんなことを言うのは図々しいとわかってる。でも、俺には剣が必要なんだ」
「その大剣があるじゃない」
「これは……アイスファルクスは砕けてしまった」
大剣の鞘から、じゃらり、と砕け散った氷片がリューシャの前にさらされる。
リューシャはそれに歩み寄り、その一片を手に取った。刻まれた銘――グラキエス。
「アイスファルクスは俺の両親の形見だった。
……だけど、砕けてしまったこと自体はいいんだ。死んだ両親よりも、今は、大切な人を守りたい」
そう言って、マックオートは自分の見た夢について語る。
まっすぐに自分を見つめるマックオートに、リューシャが静かに口を開いた。
「……まず結論を言うわ。
グラキエスの剣とわたしの剣は、同じ凍剣でも根本的な性質が違いすぎる。シャンタールは、あなたでは扱えない。
この剣はもう三人殺してる。無理に抜けば、あなたも死ぬわ」
「そんな……」
リューシャの冷徹な断言に、マックオートが歯噛みする。
だがリューシャは、そこでふと柔らかな息をついた。
「それに。……両親の死を乗り越えたからといって、形見まで捨てる必要はない」
銘の残った氷片を、マックオートの前に投げ出す。
「あなたが望むなら、この剣を。アイスファルクスを、剣の形に打ちなおしてあげる」
光の剣を手にしたマックオートが、ぽろりとひとつ、涙をこぼす。
それをリューシャは、ごく冷ややかに見ていた。
人の手から成らぬ剣。
資格あるものに与えられるという剣の伝説は、枚挙にいとまがない。
彼の手にあるものも、そうなのかもしれない。
だが、リューシャはそういった剣を愛さない。
剣は主を選ぶ。主もまた剣を選ぶ。
リューシャは人のために剣を造る。運命は自らのために剣を与える。
氷塊の内に剣のかたちを決めるのは運命だが、それを愛してかたちを与えるのはリューシャの自由意志だ。
その在り方を誇る以上、リューシャは運命から与えられるものに己の道を選ばせたりはしない。
リューシャは別に、マックオートを否定しない。
だが、リューシャとマックオートの生き方が交わることはきっとない。
そしてそれ故に、シャンタールをマックオートが振るうことはけっしてないだろう。
「……剣の問題は解決したみたいね」
「リューシャちゃん……」
はっと気づいて涙を拭ったマックオートが、リューシャに向き直る。
「ああ、この通り。リューシャちゃんの気持ちは嬉しかったけど、これが俺に約束された剣なんだ」
「別にそれはどうでもいいわ」
微笑んだマックオートに、リューシャはすっぱりと言い切った。
仕事がないのなら、マックオート自身に特段の興味はない。炎の力を感じる彼の剣にも、同じく興味をそそられない。
「で、あなた、そっちの女の子とダザ、どちらを看病したい?」
マックオートの身に起きた奇跡を完全に横においてリューシャが示したのは、そっけないほど現実的な二択だった。
「えっ?」
「大部屋は食堂の真上でしょ。病人を置いておくなら、もっと静かな部屋に移動させたほうがいいわ。
わたしの部屋と……もうひとつ部屋が空いてる。どちらも一人部屋だから、手を分けたいの」
先日オシロにとってやった部屋は、まだそのままだ。
リューシャは長期滞在の居住性を、オシロには奇襲の可能性を考えて、どちらもここよりはよほど静かな部屋を取ってある。
「……じゃあ、俺はソラちゃんを」
その答えに軽く頷くと、リューシャはマックオートに、二人を順に運ばせた。
リューシャの部屋にダザを、オシロが使っていた部屋にソラを移して寝かせる。
ソラのため、水盆に雪をどっさりと作り置きしてから、リューシャはマックオートと別れた。
灯りを絞ったベッドサイドでえぬえむに渡された仕様書を確認しながら、ダザの呼吸を数える。
夢でも見ているのか、ダザの呼吸は時折大きく乱れる。
だがそこに、昼までの濁った気配はもう感じられなかった。呪われていると称される前の、ただのダザだ。
そしてダザが、目を開いた。
どうやら目覚めたダザには、“呪われていた”間の記憶も残っているらしい。
ひとしきりそれぞれの情報を交換したところ、目下の問題はダザの義足だった。
今後どう動くにせよ、義足がなければどうにもならない。
「……精霊ギ肢装具士、リオネ?」
ふと、ダザが卓上を見つめて呟いた。
そこには、先ほどえぬえむが残していった一枚のチラシが残っている。
「……ああ、この人、この宿にいるらしいわね。今は不在みたいだけど」
「精霊、ギ肢……」
迷うように零れた言葉に、リューシャは首を傾げた。
今の彼には必要な情報だ。何を迷うことがあるのだろう。
「なんだか不安そうね。もう一度精霊技術に頼るのが怖いの?」
「……それも少しある。……ただ」
「ただ?」
「精霊義肢っていいやつになるとめちゃくちゃ高いんだよな……」
ダザの真剣な答えに、リューシャは思わず吹き出した。
口元をおさえて横を向き、くつくつと肩を揺らしてしばらく笑い続ける。
「……そんなふうに笑うこともあるのか」
そんなリューシャに、ダザは少し驚いた顔をする。
リューシャはそれに答えずしばらく笑い続け、ようやく落ち着いてからダザに向き直った。
「くっく、……いや、ごめんなさい。
そうね、わたしは基本的に冷たい女だけど、普通に笑うことくらいあるわ。
氷は水になれるし、水は氷に戻れる。それでなにかが変わるわけじゃないでしょ」
今は気を抜いてもよさそうだしね、とリューシャは微笑む。
ダザはなにやら曖昧な顔でリューシャを見返すと、小さく息をついた。
「……俺はお前を、もっと氷そのものみたいなやつだと思ってたよ」
「ふうん? ま、それも別に間違ってはいないわ。わたしはそれが必要なら、氷で構わないと思ってるもの」
リューシャはあっさりと笑みを引っ込める。
「まあ、とにかく。チラシを見る限り、義足の予算に関しても相談はできるんじゃない?」
「そ、そうだな」
あっという間にいつもの切って捨てるような語調に戻ったリューシャに、ダザがわずかに鼻白む。
リューシャはそれに構わず、この装具士にはできるだけ速く接触しましょう、とてきぱき話をたたんでしまった。
「で、あなたは寝なさい。義肢があればすぐ動けるくらいに回復してもらわないと困るわ」
「……リューシャは」
「怪我人からベッド取り上げようとは思わないわよ。別に気にする必要はないから」
わたし工房の床でも平気で眠れるし、ときっぱり告げて、リューシャは部屋の反対側のソファに移動する。
「あのな、男の立場ってもんが……」
「その足でここまで来られるなら場所を代わってあげるけど」
ぐっと詰まったダザにくすりと笑い、リューシャは部屋の灯を落とした。
おそらく明日以降、また走り回ることになるのだろう。
休息が必要なのは、リューシャも同じだった。
翌朝、リューシャはダザと共にリオネの部屋を訪れた。
リオネの部屋は、宿の一室でありながらも、馴染み深い作業場の気配がする。
その独特の気配に、自分の工房……ついでに、そこでふつふつと怒りを燃やして待っているヴェーラの顔が脳裏をよぎった。
「……そろそろ帰らないとまずい気がするのよねえ……」
精霊の技術は確かに面白い。オシロを見ても、リオネを見てもそうだ。
しかし一方で、リリオットで得たそれら知識の断片は、リューシャにとってそれほど必要とも思えなかった。
オシロのような技術者を見てしまった以上、それである程度興味は満足した、と言い換えてもいい。
ましてここ数日のリリオットは、不要な技術のために留まり続けるには不向きな状態だ。
ダザとリオネの会話を聞きながら、リューシャは別のことを考えている。
この街でやり残したこと。やりたいこと。
……何人かの顔がよぎって消えた。リューシャはそれに、淡々と優先順位をつける。
そしてダザに声をかけた。
「……ダザ。あなたの義足はなんとかなりそうだし、わたしは先に出るわ」
不意に言い出したリューシャに、ダザとリオネが振り返る。
「義肢に興味があるんじゃなかったのか?」
「興味はあるわよ。でも、今の状況でここに二人いてもしょうがないでしょ」
えぬえむとソフィアも戻ってないみたいだし、とリューシャは肩をすくめた。
「何かあれば後で伝えるわ。後の二人は……まあ、わたしは親しくないし、あなたに任せるから」
リューシャはそう言って二人のいる部屋をダザに教え、あっという間にリオネの部屋を出ていった。
質問を差し挟む間もなく去ったリューシャに、残された二人は顔を見合わせる。
「……変わった人ね。どういう知り合いなの?」
「……俺にもよくわからん」
もちろんそんな会話も、リューシャには届かない。
規則正しい足取りでそのまま宿を出ようとするリューシャを止めたのは、ダザやリオネではなく、フロントから掛けられた声だった。
「貴方に渡してくれって、さっき白髪頭の女の子が置いてったよ。見に来てほしいんだってさ」
手渡されたチラシ。劇のお誘い。
そこにはサルバーデルの名前もある。
「なら、置いていったのはカラスさん、ね。……出演するのかしら」
リューシャは厳しい目元をほんの少し緩ませて、ふふ、と笑った。
カラスが舞台の上を歩く姿は、是非見てみたいものだ。きっと微笑ましいに違いない。
丁寧にチラシを折りたたみ、ポケットにしまうと、フロントの女性に礼を言う。
「その子がもしもう一度来たら、是非お伺いしますと伝えておいて」
「あいよ。今日も出かけるのかい?……外は昨日からエフェクティヴがどうとかで騒がしいから、気をつけて」
「……そう。ありがとう」
リューシャは頷いて、今度こそ宿を後にした。
視界の奥にそびえる闇の壁を目指し、リューシャは逃げていく人を躱しながら北へと向かっていた。
逃げていく者が発するのは、エフェクティヴの蜂起だ、という声が大半。
それに混じって、闇が、という声を上げる者もいた。見ればわかる。中がどうなっているかは知らないが。
「……闇、ねえ」
常闇の精霊王。
ソフィアが残し、えぬえむが伝えた単語。
精霊王とは大きく出たものだ、と思ったが……リューシャは、喋る精霊を精製した、という少年を知っている。
そして彼の腕ならばできるだろうと、知っている。彼以外にはできないだろうとも。
「死にかけていると言っていたわりに、その死にかけにやらせることが壮大ね」
北へ向かうほどに、街の空気は荒れていく。
逃げていく男の一人が、リューシャを引き止めて警告をする。
「これ以上行くと危ないぞ。奴ら、街の人間だろうとよそ者だろうと、エフェクティヴ以外は全部敵だと思ってやがる」
「数は?」
「相手にする気じゃないだろうな。数十人じゃきかねえぞ」
なるほど、エフェクティヴは本気だ。今回でなんらかの決着をつける気だ。
リューシャは男と別れ、メインストリートを離れた。
幸い、回り道をしても闇まではそう遠くはない。
裏路地を駆使して人目を避ける。駆ける。
それでも道中二人ほどには見つかって、それぞれ地面に沈んでもらった。
「まったく、見境のない……」
溜息とともにシャンタールを納め、リューシャは一度立ち止まる。
眼前には、目指してきた闇の境界があった。
足元に転がった男の武器を投げ込んでみるが、特に障壁としては機能していないらしい。
次いで、意識を失った男を蹴り転がして半身を突っ込ませる。男は呻いたが、そんなことを気にするリューシャではない。
しばらく待ってから、男を引きずり出してみる。外傷なし。脈拍、呼吸、共に正常値。
よし、と軽く頷いて、リューシャはその闇を透かし見る。
「……えぬえむたち、中にいるのかしら」
聞いた話からして、少なくとも一度はこちらに向かったと思うが……二人が出ていったのは昨夜だ。
事態がどうなっているかを知るすべはない。だが、他にアテもない。
「……お前がわたしから離れるまで、もう少しだけ、付き合ってちょうだいね」
呟いてシャンタールに触れる。シャンタールが、かすかに嫌がるように震えた気がした。
リューシャは苦笑してとんとん、とその柄を叩き、息を詰めるようにして闇の中に足を踏み入れていった。
リューシャは北へ向かうほどに濃くなる闇の中を、吹雪の中を行くように感覚を研いでなお走る。
いつか訪れた工房の、老職人を思い出す。
このまま精霊を掘り続けると大いなる災いが人々を襲うのでは、という言葉。
「……予言の厄災と戦うなんて、遠慮したいわねえ」
坑道の入り口まで駆け抜けたところで、視界にえぬえむの後ろ姿を捉えた。
よくわからない人影も増えていたが、とりあえず名前だけを紹介してもらったところで、えぬえむは坑道を指し示す。
「続きは歩きながらしましょう、急がないといけないから」
「仕方ない、か……」
リューシャは顔をしかめたものの、とりあえず連れ立って歩き出した。
坑道の暗い道をえぬえむの精霊砲で照らしながら、事のあらましについて説明を受ける。
「……大変だったみたいね」
口数の少ないオシロやソフィアにちらりと目をやって、リューシャは呟いた。
神霊。常闇の精霊王。ヘレン。この街で見聞きした単語がつながっていく。
「で?この一行はその常闇の精霊王を斬りに行くところってわけ?」
「……そういうことになるわね」
ふうん、とリューシャは頷いた。
「つい連れてきちゃったけど、リューシャはどうする?」
「遠慮したいわねえ……わたしは剣士じゃないし。戦闘のための戦闘はしたくないし、役にも立てないわよ」
「……マジで?」
「そのかわりと言ったらなんだけど、えぬえむ、この刀を使う気はないかしら」
リューシャはシャンタールを鞘ごと抜いて、えぬえむの前に差し出した。
「……その剣、なんかとんでもない話してなかったっけ?」
「抜いた人間をみんな殺して返ってきたって話?……でも、わたしの知ってる限りだと、主はあなただと思うんだけど」
「抜いた人間をみんなって……リューシャは?」
純粋な問いかけに、リューシャはぱちりと瞬いた。
「……わたしは製作者だもの。例外でしょ?」
「そうかしら。製作者が死んだとか発狂したとか、そういう魔剣の話ってよく聞くけど」
首を傾げたえぬえむに、次の言葉を迷った。
他の剣なら迷わなかっただろう。だが、シャンタールだけは別だ。
自分の作った剣なのに、ずっとわからなかった。シャンタールの真意も、シャンタールの望みも。
「まあ、時間はまだあるし、もう少し考えたら?」
えぬえむの言葉に、リューシャは口をつぐんだ。
その空白に、足音がする。
「……あら、さっきの人ね」
振り返った面々の前にいたのは、見知らぬ黒髪の少女を連れたリオネだった。次いで、光の剣を掲げたマックオートが現れる。
それぞれの名前が知れたところで、リューシャはふう、と息をついた。
「……盛り上がってるところ悪いけど、わたしは抜けるわ。人数もこれだけいれば十分でしょ」
「……さっきも思ったけど、あなた、本当に空気読まない人ね」
「空気で命を賭けるほど自分の実力を過信しちゃいないわよ。わたしは技術者だし、必要もない危険に突っ込む趣味もない」
リオネの言葉にも、涼しい顔で肩をすくめる。
「わたしは街に戻るわ。暴動も酷いみたいだし、人間相手ならわたしでも多少戦力になるでしょ」
お互い気をつけて、とリューシャは踵を返し、そのまま数歩進んでから、……ああそうだ、と足を止めた。
「……オシロくんに、ひとつだけ。伝言は聞いた?」
「えっ……あ、はい……」
「事態が落ち着いたらでいいから考えてみて。わたし、君みたいな技術者って好きよ。……それは変わらないから」
平時と変わらない笑顔でウインクを残し、リューシャは一人、一行と離れて去っていった。
暗闇の中を駆け戻りながら、リューシャは記憶の深みをも過去へと駆け抜けている。
シャンタールが常よりも重いような気がする。その存在を主張している。
記憶はやがて、シャンタールとなるべき氷塊を見つけた日へと辿り着く。
リューシャはその日、雪崩に巻き込まれ、目的地から軽く数百メートルは押し流されて現在地を見失っていた。
とはいえそんなことは、年に数度はあることだ。
リューシャは必要なら自分で雪崩を誘発することさえ辞さない。
当然怪我や骨折も絶えないが、今回は幸い、動きに支障が出るような怪我はなかったようだ。
だとすれば、適当にビバークできる場所を探して数時間も待てばいい。
しばらくすればヴェーラが雪崩の規模と方向を割って、文句を言いながら掘り出してくれるだろう。
見渡す限り広がる雪原の、目の痛むような白。果てしなく頭上を覆う空の、冷たく硬い青。
横に断ち割ったような二色のコントラスト。
そんな故郷の景色が、リューシャは好きだった。
吸い込まれるような青い空を、独り占めしているような気分が好きだった。
雪崩によって綺麗に均された雪の上に、ブーツの足跡をつけていくのが好きだった。
だがその均一な雪の中に、不意に、蒼い氷塊が顔をのぞかせていた。
雪よりも輝く、空よりも薄い蒼。
リューシャがそれを見つけたのか、それがリューシャを待っていたのか。
なんにせよ、リューシャはその中に、剣のかたちを見た。
リューシャは救助に来たヴェーラを閉口させながらも、結局、その氷塊を工房へと持ち帰った。
刃のかたちを与え、柄を与え、鞘を拵える。
蒼い妖刀が生まれ、シャンタールと名付けられた。
最初の主が死んだ時、誰も気にしなかった。武器を持ち戦う以上、死は常にそばにある。男は、殺した相手の剣を奪って主となった。
二人目の主が死んだ時、縁起の悪い剣だな、と話の種になった。だが、廃棄するには惜しいと、腕のいい女剣士が引き取った。
三人目の主が死んだ時、手に負えない、と恐れられた。シャンタールは、リューシャの手元へと戻ってきた。
リューシャはそれからずっと、シャンタールを振るってきた。
自分の見出した刀を、刀として使ってやりたかった。
自分がシャンタールを見出したように、シャンタールが、望む主を見出すまで。
それが、製作者として、リューシャがシャンタールに注ぐ愛情のかたちだった。
ソフィアの声が耳に蘇る。
製作者として。使い手として。
……いや。
ただ、リューシャという人間と、シャンタールという刀として。
「……お前、わたしがいいの?」
リューシャは剣士ではない。
だが、それでもリューシャを選んで、シャンタールは来たのだろうか。
坑道を抜ける。
未だ闇に閉ざされた街並みで、リューシャは静かに、シャンタールを抜き放った。
シャンタールは、リューシャの手によく馴染んだ。
凍土に冷やされ、斬りつけるように吹く風の気配が、闇に沈む薄蒼い刃からかすかに立ち昇る。
深く濃密な闇の中、吹雪に閉ざされた故郷の夜を思う。
まるで今、そこに立っているかのように自然に、心が冴えた。
「お前は、あの場所が好きなのね。生まれ故郷が、愛しいのね」
わたしも同じよ。
リューシャはかすかに微笑んで、故郷を一身に閉じ込めたような、その刀身にくちづけた。
たしかに、この街で過ごした日々は楽しかった。
見慣れない技術、それを扱う職人、商人、たくさんの旅人たち。
だがそれも、みな結局は旅路の話。
どんな出会いも戦いも、故郷のあたたかな暖炉の前で、あるいは工房の片隅で、幼馴染に語るべき一幕にすぎない。
それが、リューシャの選んだ生き方だ。
たとえ神様に選ばれたと言われても、そんなものはいらない。
リューシャが神から得るのは、見出されるのを待つ剣のかたちだけでいい。
残りのすべては、自分で選ぶ。
「行きましょう」
誰にともなく――いや。シャンタールに告げる。
「帰る前に、カラスさんたちの劇を観に行かなきゃいけないものね。こんなどうでもいいことで、予定を変えられたら困るわ」
地を蹴った足は、軽かった。
走るほどに、夜が明けるように闇が薄らいでいく。闇の外に広がるのは、神の手にさえ御しきれぬ混沌。
リューシャは、その混沌のひとしずくで構わない。
「……あら、人知れずの逢瀬の邪魔をしたかしら」
闇の外で、争い合う男女に介入した。
争いの原因にさほどの興味はない。事態が収拾すればそれでいいからだ。
だから、男同士にも女同士にも平気で踏み込んだ。
刃を振り上げるエフェクティヴ、狂乱するヘレン教徒、復讐の好機に目を輝かせる黒髪、リューシャの前に一切の区別はない。
事態の収拾に走り回る公騎士たちの鎧は、あの日、『泥水』で死んだ四人と同じものだ。それもまったく気にならなかった。
叩き伏せた暴徒も、逃げた暴徒も、手に負えない暴徒も、みな彼らに任せる。
できないことはやらない主義だ。
天秤の片方に必要と意思を、もう片方に自他の性能と、そこから導かれる勝率を。天秤は揺らぐが、心は揺れない。
一人ならば不意打ちした。複数ならば分断した。勝てなければ逃げた。
引き際を誤るような無様はしない。卑怯と呼ばれることなど厭わないから。
自分が変わらず自分であるなら、正しくなくていいと知っているから。
ずっと変わらずそうしてきた。ずっと変わらずそうしていく。
リューシャが、そしてシャンタールが生まれた故郷の、いつまでも融けぬ雪と氷の世界。
それこそが、リューシャの心の在り様だから。
闇が晴れる。
夕陽の輝きによって、リリオットにつかの間、光が満ちた。
そしてその光が地平へ消えてゆこうとする頃、リューシャは相掛け岩と精霊の広場にいた。
鉱山の中で何があったのか、誰が勝って誰が負けたのか、リューシャは何も知らない。
ただ、終わったのだろう、と漠然と思うだけだ。
事実こうして、劇場は整えられている。開演は待ち望まれている。
リューシャにとってはそれで十分だ。
「──本日当舞台へ御出で下さった事は、真の幸福、感激至極で御座います」
多くの観客を前にしながら、サルバーデルの語り口は、友人を前に紅茶を楽しむ時と変わらなかった。
口上が終わり、幕が上がる。
そして物語は綴られる。跳ねる。飛ぶ。断章は連続する。
理解を求めながら理解を拒むように、アーネチカが舞い、踊った。
舞台の上には、知った顔がたくさんあった。そして多くの、知らない顔があった。
その舞台は、リューシャにとってのリリオットに似ていた。
――だから、その舞台の終わりに混沌が訪れても、動揺することはなかった。
リューシャにとってのリリオットとは、めまぐるしく移り変わる混沌の幕間を、ひたすらに駆け抜ける場所だったからだ。
そして今なお、リリオットは「そう」である、というだけ。
「それにしても、本当に落ち着かない街ねえ」
立ち上がる人々。震える青年までもが剣を取る。
住人も、旅人も、みなサルバーデルの舞台に上がろうとしている。
熱狂する広場。狂乱するリリオット。
この事態がどう終わるにせよ、リリオットは変わってしまうのだろう。
聞き続けてきたリリオットの軋みは、崩れ落ちていこうとしている。
起きた雪崩は止められない。巻き戻すこともできない。行き着くところまで行くしかない。
さて、とリューシャはシャンタールに触れる。
選び取りたいものがあるのなら、そう望む者が選び取ればいい。
それがサルバーデルだろうと、どんな臆病者だろうと、どんな結果をもたらそうと。
「……ヴェーラっていつもこういう気分でいるのかしら。これはお小言が長くなるわけだわ」
巻き込まれるとはこういうことか。確かにこれは面倒だ、よく見放されない。
軽くため息をつき、リューシャは周囲を見渡す。
立ち上がることが正しいか。正しいのだろう。だが、そんな正しさは必要ない。知っていてなお用はない。
義憤に燃えるのが正しいか。正しいのだろう。だが、リューシャは炎に属さない。シャンタールがその証だ。
今、リリオットは役者を求めている。
英雄の役を、戦士の役を、立ち上がる群衆の役を、あるいは逃げ惑う群衆の役を。
戦うことでも、逃げることでも、選べる者は選べばいい。
だが、そうしたどれをも選べないなら。
リリオットという舞台に乗る気がないのなら、リューシャは幕間から、その手を引いてやろう。
「少しばかり、身につまされるところもあったことだしね……」
人々の狂乱に取り残されて立ち尽くす誰かに、リューシャは手を差し伸べる。
望むものがあるならば舞台へ。望まぬ者は幕間へ。
時間を、果てしないほどに長く感じた。
夜が更ける。光る街の上空で、闇は深い。戦いは続く。どこかで、あるいはそこここで。
立ち上がる英雄たちの手をすり抜けて、たくさんの人間が死んでいた。
偶像のパレードや財宝の獣に、あるいは錯乱した同じ街の住人によっても。
リューシャは、その只中にいた。
崩れ落ち金貨の山となった獣を一瞥し、荒くなった息を整える。
シャンタールには刃毀れひとつないが、リューシャのほうはそうはいかない。
今朝、宿を出てから、もうずっと駆け回りっぱなしだ。心は揺れなくとも、身体はどうしたって疲弊する。
「あ、あの……」
「ああ、……無事でよかったわね」
背後にへたり込んだ子連れの家族に、広場に端を発し、リリオットに広がった事態を簡潔に説明してやる。
やはりサルバーデルを名指ししたヴィジョンは見ていたらしく、話が通じないということはない。
巻き込まれることを厭うなら、故郷だって家族だって、捨てることはできる。
捨てたくないのなら、そのために動くことだ。
「逃げてもいい。戦ってもいい。ここはあなたがたの街だ」
説明を終えて次の地区へ走りだそうとするリューシャを、小さな少女の手が止めた。幼い手がスカートの裾をつかんでいる。
「……おねえちゃんは?おねえちゃんはその、えいゆう、なの?」
リューシャは、その子に向き直る。
そして、笑った。
「いいえ、違うわ。そういうことは、もっと頑張っている人に言ってあげるといい」
じゃあね、とその手を引き剥がすと、リューシャは路地を抜けていく。
振り返らなかった。
走り、斬って、逃げて、時に手を差し伸べて、捨てて。
光る路地裏で、煉瓦造りの壁に背を預けて息をつく。
肩で息をするリューシャの頬に、光の一部が触れた。
「……ダザ?」
彼とともに戦う者を求める声が、聞こえた気がした。英雄を求める声が、ほんの小さくだが確かに。
顔を上げる。もちろん、そこには誰もいない。
「英雄、ね」
応えれば、そうして立つこともできるのかもしれない。魔力はそのための道を開いている。
先ほどの少女の声が、耳に残っている。
おねえちゃんは、英雄なの?
それでもリューシャは胸を張って、何度でも、いいえ、と答えるだろう。
刀匠が、英雄と肩を並べて戦ってどうするのだ、と笑うだろう。
「……裏方が、わたしの仕事場よ」
したいことと、できることを、できるだけ。
仮に歴史に残すとしたら、自分の名より、自分の造った剣の名を。
それでいい。それが望みだ。
リューシャは休憩を終える。
もう休まなかった。
いつのまにか、雨が降り出していた。
その雫に融けるように、事態は少しずつ収束に向かっていた。
人は死に、傷ついて、たくさんのものが戻らない。
拾える命だけを拾ってきた。拾えないものは拾えないと割り切った。
失われたものを悲しいと思うことはある。惜しいと思うことも。
だが、それでも選んで進むことしかできない。それが人間の限界だ。すべてを選ぶことはできない。
リューシャは英雄ですらないのだから。
「つっ……かれたー……」
宝石の鷹を地に叩き落として、リューシャはついに腰を落とした。
シャンタールを胸に、天を仰ぐ。
「あー、人生で一番動きまわった。巻き込まれるって最低ね……ヴェーラのこと尊敬しちゃうわ」
深く息をついたリューシャは、隣に佇んだ少年にちらりと視線を投げた。
「君、よくついてきたわね……」
理解しているのかいないのか、こくりと首を傾げた少年のローブから、リューシャよりもわずかに淡い金髪が覗く。
手を伸ばして頭を撫でてやると、嬉しそうに微笑んだ。
顔は同じだが、表情の作り方は……どうだろう。刀を打ち始めるより前のことは、よく覚えていない。
「……子供ができたみたいな気分なんだけど」
苦笑すると、不思議そうな顔をする。
「迷子、ってわけじゃないわよね。……どうしようかしら」
リューシャは空を仰いだ。
曇天。雨粒はただひたすらに降り落ちて、ひたすらにリリオットを濡らしていく。
「……雨より、雪が見たいわ……」
どうせもうここに、リューシャにできることはない。したいことも、ほとんど終えた。
「君、雪、見たことある?
一面の雪景色なんて、すごく綺麗よ。……遠い地平線で、斬ったみたいに白と青が分かれてて……」
ふと微笑む。
ああ、帰るべきときがやってきたのだ。
旅が終わる。
「……君にも見せてあげたいわ……」
眼を閉じると、瞼の裏に浮かぶ景色。
リューシャを呼ぶ声が聞こえる。
ああ、そうだね。
怒ってるだろうけど、あんまり怒らないでよ。
もうすぐ帰るよ、ヴェーラ。
ただいま、と扉を開けたリューシャに、ヴェーラは振り返りもせずにおかえり、と返した。
カリカリとペンを走らすヴェーラの後ろを通り、旅装を解いて、紅茶を入れる。
「あ、そうだヴェーラ。悪いけど、優先で仕上げたい依頼があるんだ。明日から仕事にかかるから、準備お願い」
「はいはい……」
ヴェーラの声は、ため息混じりだった。だがそれも、いつものことだ。
積み上がった書類の隣にティーカップを置いてやると、ヴェーラはペンを投げ出して息をつく。
「留守中、変わりは?」
「依頼には延納のお願いをしてあるわ。あんた、しばらく遊んでる暇ないわよ。ていうか遊んだら今度こそ死なすわよ」
カップの縁越しに、ヴェーラがぎろりとリューシャを睨んだ。リューシャはその視線を軽くいなして、はいはい、と微笑む。
何よ、とくちびるを尖らせるヴェーラ。眉間にはうっすらとしわが寄っている。
たぶん、本当はそれほど怒っていない。
彼女が本気で怒ると、大抵はしばらく口をきいてくれなくなる。どちらかといえば、心配していてくれたのだろう。
だが、ヴェーラはそういうことをしれっと言葉にできるほど割り切った性格をしていない。
だからいつもわたしに振り回されちゃうのよ、と、リューシャは内心で少し笑った。
リリオットで起きたあれこれは、周辺諸国でもそれなりにニュースになった。
ヴェーラは外の時事にも敏いから、リューシャが実際に帰ってくるまで、ずいぶん気を揉んだに違いない。
「心配かけてごめんね、ヴェーラ」
むっとした顔のヴェーラが口を開きかけたのを遮るように、その時、がしゃあん、とけたたましい音がした。
工房の方からだ。ヴェーラがぱっとそちらを振り返る。
「技術窃盗にしては派手ね。舐めてるのかしら」
ヴェーラは席を立ち、ソルヴェイグと銘打たれた剣を手に取る。
工房に向かうその後ろ姿を追いながら、リューシャはやや視線を泳がせていた。
先行したヴェーラが立ち尽くしているのに追いついて、言葉を選ぶ。
「……リューシャ?」
「はい、ヴェーラ」
「この子は、どうしたの?」
説明は、……やや難しい。
「まあ……連れてきちゃったっていうか……ほら、他人とは思えなくて。雪も見せてあげたかったし……」
「いつの間に産んだの!?」
「いや、ちょっと、普通に考えてよ。産んでないわよ。……産んでないってば」
散らかった工具の山を見下ろす少年を前に、二人の声が響く。
振り返った少年は、リューシャによく似ていた。
「とにかく、しばらくヴェーラが色々教えてあげて。
この子物覚えが早いから、いろいろやりたがるんじゃないかしら。何かやりたがったら、経費で落としていいわよ」
「ちょっと、これ以上私の仕事を増やす気!?」
リューシャは途中で説明を投げ、叫んだヴェーラに向かって少年の背を押した。
ヴェーラを見上げる瞳はあまりにもリューシャに似ていて、しかも幼い。
無言の視線に反論を封じられ、ヴェーラが言葉に詰まった。
「大丈夫よ、臨時ボーナス出すから。なんだったらお給金も上げてあげる。どさくさに紛れてそれなりに臨時収入あったし」
大丈夫じゃない、と悲鳴を上げるヴェーラと、それを笑うリューシャ。
少年は二人を見ながら、心なしか楽しそうだった。
ここからまた、新しい日常が始まる。
いつか、そのうち、新しい旅が始まるまで。
END
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