[0-773]
HP64/知6/技4
・霊算術の盾/0/18/3
・損壊遡行術/54/0/12 回復
・ドライアード/0/36/6
・ウンディーネ/12/0/6 封印
・サラマンダーテイル/4/0/1
・ヴァルキリー/60/0/18 防御無視
01:初手は「サラマンダーテイル」。
02:敵が「HP≦(残りウェイト−1)÷6(切捨)×(12−防御力)」なら「ウンディーネ」。
03:敵が「HP≦(残りウェイト−1)×(4−防御力)」なら「サラマンダーテイル」。
04:敵が「知性=1」&「残りウェイト≧6」&「防御力≦2」なら「ウンディーネ」。
05:「経過カウント≧666」&「自HP<敵HP」なら「ヴァルキリー」。
11:同時選択で「敵の最新同時選択スキルの行動ウェイト=1」&「現在HP×技術が敵より大きい」なら「サラマンダーテイル」。
12:同時選択で「敵の最新同時選択スキルの行動ウェイト≦2」なら「霊算術の盾」。
13:同時選択なら「サラマンダーテイル」。
21:敵の構えが「残りウェイト≧19」&「敵HP≦60」なら「ヴァルキリー」。
22:敵の構えが「残りウェイト≧18」なら「ウンディーネ」。
23:敵の構えが「残りウェイト≧13」&「凍結でも回復でもない」&「-54<自HP−攻撃力≦10」なら「サラマンダーテイル」。
24:敵の構えが「残りウェイト=12」&「凍結でも回復でもない」&「-54<自HP−攻撃力≦10」なら「損壊遡行術」。
25:敵の構えが「残りウェイト≧6」&「防御力≦2」なら「ウンディーネ」。
26:敵の構えが「残りウェイト≦5」&「防御無視でも回復でもない」&「攻撃力≧10」なら「ドライアード」。
27:敵の構えが「防御力=0」なら「サラマンダーテイル」。
98:「自分のHP≦敵の攻撃力+(18−敵残りウェイト)×敵技術」なら「ウンディーネ」。
99:ヴァルキリー。
女。
インカネーション教師。
精霊研究者の少女。18歳。愛称メビ。
閃きに恵まれ、独自の連想で推論をショートカットする思考法を持つ。
精霊駆動技術を用いた「回復」の概念を二年前に実用化および理論化したのは彼女で、その目覚しい功績により若くして教師となった。
「ヘレンは瞬間に存在する」という信念のもと、それを具現するための端材を集めている。
具体的には、直感が何かあると告げる人物を訪問し、言葉を交わして着想のヒントを得る。
その何かある感じを彼女は「あたたかい」と表現している。
しかしながらそのあたたかさを、こともあろうに黒髪人種すら感じることもある。
黒髪は刺す。そして傷を掘りながら、苦痛に漏れる言葉を拾う。
思い切った刺激を与えていい人間がこの世に存在することは、研究者として幸いである。
スキル解説:
「霊算術の盾」 精神攻撃へのディフェンスとして思考表面に施した難読化。
「損壊遡行術」 精霊駆動技術を用いた負傷の巻き戻し。
「ドライアード」 瞬間に生きて死ぬ精霊駆動体。フラクタル状に広がる壁。
「ウンディーネ」 瞬間に生きて死ぬ精霊駆動体。体組織内に侵入して汚染する液体。
「サラマンダーテイル」 瞬間に生きて死ぬ精霊駆動体。質量を持った刺突。
「ヴァルキリー」 瞬間に生きて死ぬ精霊駆動体。戦乙女の槍の一撃。
ポーン
ツイッター pawwn
戦術助言 SNPcat
メビエリアラ・イーストゼットは考える。
荒廃する世界に刺すひとすじの光。黄金の翼をはばたかせて光臨し、隅々もらさず人を裁き、暴虐には鉄槌を、飢える者には七頭の家畜を、迷える者には導きを、清き者には祝福を与える、至高の女神。貧者の妄想を膨らませたようなそんなそんな神話は、言ってしまえばでたらめの創作だ。
哀れな信徒たちを騙している。そういうことになる。しかし、騙すことによって救えると信じている。
神話は比喩だ。現実ではない。しかし偽物でもない。真理を織り交ぜた比喩を、口当たりの良いようシロップをかけた物語。それが神話だ。だから女神の光臨を否定してもヘレン教の本質を否定したことにはならない。メビだってそんなものは信じていない。信じているのは、そしてみなに説こうとしているのは、概念だ。概念をそのまま説いても、耳を貸す人は少ない。だから物語を覚えてもらう。そうやって、織り込んだ真理が生活の中でゆっくり染みていくのを待つ。迂遠だが、昔ながらの確実な方法だった。そうやって、ヘレン教は世を少しずつ癒してきた。
そもそも生きている以上は論理的な帰結なのだ。究極を求めるというのは。
生が一度しかなく、転生を信じても記憶を持ち越せない以上、自分というのは最善を追求する装置以外の何者でもない。
そのことをメビエリアラははっきりと自覚する。
だから求める。精霊の究極を。それがメビエリアラの形だから。物心ついてからずっと、精霊が好きだった。その揺らぐ姿も、構造も。
精霊を練った先にあるリザルト。それが彼女のヘレンだ。ヘレンというのはつまるところ、究極とか生きがいとか意味とか言い換えるだけで理解できる。論理的に明快な話なのだ。
彼女は精霊を知りたい。そのためにはたくさん試したい。だから金と人がほしい。
ヘレンを実現するために生命を研究していたら、副産物として回復法ができた。彼女はそれを売った。
ヘレンを実現するために精神を研究していたら、副産物として洗脳法ができた。それはまだ試せていない。
試したい。
誰かに見られると困るので、教会の地下に実験室をこしらえた。
ただ、そこに入れる実験体はまだ用意できていない。人間で試すのは倫理にもとる。
しかしその問題への答えも出ている。
黒髪たちだ。
幸いなことに彼らは人間と酷似した性質を持っている。
しかし人間ではないので、壊しても罪にはならない。
物事を推し進める基本は数だ。味方となる人間を増やすことだ。
人の集まりが織り成す、好意と敵意のネットワークを制御する。口実はなんでもいい。実効力さえあれば。
多数に訴える場合は、明朗性が何よりも重要となる。敵と味方を分割する基準は、分かりやすくなければならない。
正しい倫理をもって複雑な善悪正邪を丁寧に見分けることなどは、一般民衆に期待してはいけない。それは残酷な要求だ。
セブンハウスは自分たちの都合からそのまま他勢力を仮想敵に設定した。分かりやすい。
ヘレン教創立者はもっと分かりやすい基準を選んだ。髪の色だ。烙印を押すよりも手っ取り早いシンボルだ。
その偏見はメビエリアラにも刷り込まれてしまった。自覚しても治らない。
不自由といえば不自由だが、まあそれはそれだけのことだ。
必要とあらば嫌悪感を完全に抑制して黒髪と握手することだって出来る。
逆に倫理を踏み越えるときの自分への口実にも設定できるし、悪いことばかりでもない。
『救済計画』も同様に、f予算獲得の協力者を適切に定めるために考案されたものだ。
ヘレン教で主導権を握りつつ、営利追求を公言してはばからないソウルスミスを除けば、表向き誰も反対できないのがこの概念の強みだ。
セブンハウスですら、この計画を表立って批判することは支持の損失を意味する。
≪受難の五日間≫。
ヘレン教の中でも高徳とされる五人が、さらなる修練に励むという名目で集まる会議だ。
盗聴可能性を清められた聖堂の卓につき、彼らは計画を検討する。
「事は順調に運んでいると思いますよ。救済の理念は浸透し、エフェクティヴの一部も抱き込みつつある。そして手に入れた予算を再配分する過程で、我々が利益を独占するのはそう難しいことではない」
暁の教師ファローネが長くたくわえた髭を揺らした。
「順調な事態などあるものか。想定はいくらでもすべきだ。セブンハウスだって動いているし、何より厄介なのは内側の敵だ。現に我々の存在に勘付き、対抗しようとする勢力の存在が観察されているではないか」
錆の教師ジゼイアが落ち窪んだ目を光らせた。
「そんなことより配分率が不満ですな。人材面で最も貢献している私の取り分が、あなたがたと同等なのは公正ではない」
堆肥の司祭フトマスは、血の滴る肉を貪りながら主張した。
「バイオレットが動いているな。誇大妄想に憑かれた若造らしいが……実力は本物だ。インカネーションの中でも戦闘力は突出している。抱き込めるならそうしたい。反救済勢力の情報も聞き出したい。それができなければ、消すべきだ」
墓碑の司祭ヤズエイムが、会議の長として問題の焦点を示した。
「その見極めにはわたしが当たりましょう」
灰の教師メビエリアラが申し出た。実際ここにいる者のうち、市街で最も動きやすいのは彼女だった。
「メビ、殊勝なことだな。少ない取り分でよく動く」
「何をたくらんでいる?」
フトマスが鼻を鳴らし、ジゼイアが疑った。
「とんでもない」
メビは涼しげに微笑む。目の前の同胞を愛しく思いながら。
「棲み分けが出来ているだけです。お金は少しでいい。わたしが本当に欲しいのは黒髪の身柄です。『救済』実施の貧民管理に紛れて、200ほど都合していただければ、それで十分なのです」
ウォレス・ザ・ウィルレスを尋ねる道すがら、調子はずれの歌を聴いた。どぶさらいだった。
汚物にまみれてもご機嫌というのはどんなだろう。あったかくなってメビエリアラは近づいてみた。
「お嬢さん、俺に何か用かい?」
黒髪だった。周りには他に誰もいなかった。だから自然と体は動いた。
どぶに踏み込んでブーツが汚れる。別にいい。
指先に精霊を灯し、殺せる手刀を喉元に差し出す。相手に捕まれる。黒髪との接触はおぞましかった。それも別にいい。
「レディとこんな乱暴なふれあいはしたくなかったが・・・俺も痛いのはごめんだぜ。」
そんなことを言ってくるのが可笑しかった。
――ふふ。泥にまみれて平気なのに、血を流すのは避けたいの?
――知ってる? 黒髪は死んでもいいんだよ。死んでもいい気楽な人生ってどんな気分? 愉快極まって歌っちゃう?
捕まれた手を振りほどいて突きを繰り返す。
「く・・・こうなったら・・・アイスファルクス!」
業を煮やして相手が抜剣する。その剣で泥を飛ばされた。顔に飛んできた。
そのまま受けても良かったが、視界を防がれては殺せない。彼女は防いだ。それでも一瞬視界が遮られる。
すると相手は逃げていた。
追わなかった。長引くほど人に見られる危険は増す。
「……泥ほど汚くもないのに」
メビエリアラは、袖についた泥を手に取る。
握ってみた。隙間からにゅるりと漏れた。ぞくぞくと気持ち悪いのが面白い。
ぽたりぽたりと地面に落ちる。その形の無さは、精霊に似ていた。
ウォレス・ザ・ウィルレスを尋ねる道すがら、あたたかい人をもう一人見つけた。
広場のベンチでうなだれる女がいた。その姿を見て電撃が走った。なぜだろう? 理由があるはずだ。
「……ちぇー。正式認可の鍛冶屋は、どこの国でも頭が硬いんだから」
その独り言から、メビエリアラは多くを察することが出来た。
頭が硬いということは、頭突きで鍛造ができるということだ。彼女はそれが出来なくて困っている。つまり彼女も鍛冶屋なのだ。
「未精製とはいえ、低質の精霊はこんなひと山いくらで売ってるのに……」
女はあられを口に放り込む。メビは察する。もっと上質のあられを食べたいのだろう。
しかし上質の粗霊は勿体なくて普通は食用にはしない。貴族向けの高級品ならともかく、市井ではどこにも売っていない。
であれば自分で作るしかない。そのためには精製技術を職人に教わるしかない。
それで職人の門戸を叩いてみたものの、事情も分からず断られ続けたということなのだろう。
教えてあげよう。この人と話すのは楽しそうだ。
メビエリアラは声をかけた。
「リリオットの職人は、みな恐れているんですよ」
メビは女に、ソウルスミス影響下にある職人組合の硬直について説いた。
「お役に立てましたか?」
「ええ、とても。ありがとう」
礼を言いたいのはこちらの方だ。
話しているうちに、わかった。
彼女はヘレンを感じさせるのだ。まだ見ぬ、その究極の意味に。
リューシャ。
凍土に生まれた美しき刀匠。
メビが見出すヘレンはきっと、彼女に似たものになるだろう。
「善処はしますよ……ウォレス様」
立場も歳も下の少年相手に、メビエリアラは目を伏せて敬意を示した。
「ふん」
ウォレスの態度に、メビはやはり、と得心する。
ウォレス・ザ・ウィルレスの妄想じみた自意識の真偽を量ることに意味はない。真実は瞬間に宿る。ウォレスが仮にも信じるならそれは今この場の真実なのだから、メビもまたそれを信じる。それは妄信ではなく、見えるものを増やすことだ。客観は主観の排除ではない。主観の集積だ。
やはり墓碑の司祭ヤズエイムの指摘は正しい。重視すべきは、この少年には力があることだ。そして情報も持っている。それは≪受難の五日間≫がこの街に広げている策謀連鎖網にもエフェクトし得る情報だ。見過ごすことは出来ない。
しかしメビエリアラの見るところ、自分とこの少年の利害は対立していない。直交している。であれば交渉は可能だ。
メビは一歩を踏み出す。
「ご一緒してよろしいでしょうか?」
「近寄るな。ふん、平手で争えばお主は儂を殺せよう。しかしお主もタダでは済まさぬぞ。癒せぬ傷を与えてやろうか」
ウォレスの拒絶で一気に場が冷える。メビは苦笑した。
「こんな人目のある所で? わたしを通り魔か何かと勘違いしていませんか?」
「お主がそれより危険な者ではないとどうして言える。儂も沢山の人間を見てきたが分からぬな。お主、何から生まれ何に育てられた?」
「そんな……精霊のうろから人が生まれるでもなしに」
困ったものだ。確かにこの少年の慧眼は素晴らしい。彼女の性質に感づける者は滅多にいない。しかし彼女に敵意は無かった。
「底が知れなければ信用もできないとは、ずいぶん臆病ではありませんか」
「長寿の秘訣を何だと思っておる」
メビは嘆息する。そこまで警戒するなら仕方ない。彼女は右手を上げた。
ウォレスは動かなかった。反応する必要はなかった。メビの手からは、薄い煙状のものが放たれていく。それは精霊だ。しかし攻撃や煙幕効果に化ける気配はない。何も起こらず、ただ空中に溶けていく。
「お主……狂っているな」
「剣を怖がる相手には剣を仕舞う。当たり前の礼儀でしょう? わたしはあなたと話がしたいのです」
人に精霊を宿らせる方法は単純だ。食物などから直接摂取する。これによって蓄積された精霊は、文字通り自分の体のように駆動することが出来る。
メビエリアラはそれをすべて放出し霧散させたのだ。これで彼女は精霊を一切駆動できない。戦いもままならなくなる。
「ご一緒してよろしいでしょうか?」
好きにしろと言ったウォレスだが、それは獣を招くより勇気の要ることに思えた。
思えばいつも、優しい膜に包まれていた。
高速接近物体に反応するように設定したオートガードや敵意のスキャンは、いかなる時も彼女に安寧を許していた。
それが今や剥げ落ちて、今、彼女はいつでも死に得る。
怨恨を持った黒髪に背後から棒で頭を割られれば死ぬし、二階の窓から偶然落ちてくる鉢植えに頭を割られても死ぬ。
生きていれば当然のリスク。そんなささやかな危険もメビエリアラにはうれしい。
酒場を出て歩く通りはいつにも増して新鮮に、輝きを増して見える。鋭敏になった感覚が、瑞々しい情報を運んでくる。
街の様子もよく視える。
久々に思える現実感を楽しみながら、彼女はセブンハウスへと足を運ぶ。
*
数時間後。
「死にに来たのですかな? 性根の腐った差別主義者の筆頭が」
ジフロマーシャ邸の客室で、メビエリアラは数人がかりで床に組み伏せられていた。
振り払えない。戦えない。精霊が駆動できない今、彼女は無力だ。
指に鋭い痛みが走る。爪先で踏まれ、床に捻じ込まれていた。
さらに金属の杖で何度も打たれ、背中や肩の骨が砕ける。
顔を上げると、そこには初老の紳士の済ました顔があった。その黒髪は老いで白がかりつつあるが、本能的な嫌悪感は拭えない。表には出さないが。
メビエリアラは笑う。脂汗を垂らしながら。どれだけ激痛に苛まれようとも、交渉の場で礼を失してはならない。
「死のうとしているのはあなたの方です、クックロビン卿。いや、滅ぼうとしていると言うべきですかね」
「まったく害虫そのものだ。妄言を吐く元気がまだあるとは」
ふっとメビエリアラを押さえつける力がなくなる。その代わり、新たな激痛が口の中に走った。
ジフロマーシャはステッキを半回転させると、取っ手でメビの口を吊り上げる。魚のように。メビの口蓋から血が滴り、杖が汚れる。
「ふん!」
腹を蹴られて後ろに吹っ飛ぶ。彼女は背中から壁に打ち付けられた。
「立ちなさい」
クックロビンに命じられた。全身が軋んでおり崩れてしまいたい誘惑にかられるが無視する。言われなくても立つつもりだった。
「その薄汚い口で私に何を吹き込もうとしているのか。あと数分の余命で喋れるものなら喋ってご覧なさい」
暴力は無視していい。クックロビンに聞く耳はあるのだから。
「精霊武器の貧民への配布。それは敵に利する愚かな行為です」
クックロビンがメビの腹を蹴る。メビは血を吐く。微笑みは絶やさない。
「貧民たちは蜂起するでしょう。あなたの思惑通りに。そして正騎士団は鎮圧の口実を得る。反動でリソースガードも出動する。ヘレン教は狂信者集団として粛清できる……」
「おやおやよくご存知で。あなたを生かして帰す理由がありませんな?」
クックロビンがメビの腹を蹴る。メビは血を吐く。微笑みは絶やさない。
「卿、あなたはまぼろしを見ている」
クックロビンがメビの腹を蹴る。メビは血を吐く。微笑みは絶やさない。
「貧民たちはふたつの世界に属している。どちらかに。または両方に。ひとつは彼らに救いの手を差し伸べる、我らへレン教。そしてもうひとつ、血肉のようにその思想に殉じているエフェクティヴ。その敵は言うまでもなく搾取者たる貴族。セブンハウス。あなたは最大の敵に凶器を送ろうとしている」
「ふざけたことを。何を学ぶでもなく積み重ねるでもなく、日々怠惰に、上から与えられた労働と支配を貪る者たちに何ができるというのですか? 彼らの感情は偽物です。泥水の酔いに任せて我々を罵るだけで満足してしまうのですから」
議論に乗ってきた。本音も出てきた。相手に圧倒的な優位を与えなければ、この状態は引き出せなかった。
「それはあなたの考えですか? エフェクティヴは取るに足らない無力な烏合の衆だと、以前から考えていましたか?」
「当然だ――」
彼の呼吸が少し速くなるのを、メビエリアラは見逃さなかった。彼が我知らず嘘を吐いたのを確信する。
「いいえ。あなたが憎んでいたのはヘレン教だけだったはず。何がきっかけでしょうね? 貧民を経由してエフェクティヴをも蔑むようになったのは」
クックロビンは押し黙る。最近足しげく彼の元に足を運んできた、一人の若者の顔を思い出していた。
ラクリシャ家の末弟に生まれた好青年。才気溢れる位相幾何学者にして精霊物理学者。
ムールド・クオル・カナル・ヒエト・ラクリシャ。
策謀連鎖網。
愛しき≪受難の五日間≫が遂行する計画は相互に保険として機能するいくつもの小策で構成されている。
ある策が失敗に終わっても、他に併走する無数の策がそれを埋め合わせる。
ただし油断は禁物だ。状況の不理解は予期せぬ事故を招く。
策謀連鎖網に限らずリリオットを駆け巡るエフェクトの流れを、メビたちは知る必要がある。
中でも特別に大きいのがクックロビン卿の動きだ。
ウォレスの言には半信半疑だったが、本人に会って確信した。それ以上のことも分かった。
クックロビン卿自身はエフェクトの中心ではない。元凶たる威厳が感じられない。
彼の行動には一貫性が無い。信念があるのにそれがぶれている。おそらく何かに曲げられている。何に?
それが一番知るべきものだ。彼は何に曲げられているのか。
セブンハウスやジフロマーシャの慣習? 政治的不都合? 人としての常識? トラウマ? どれも違う気がする。
彼が語る貧民像は借り物みたいだった。
そう、まるで、より信念が強くて思慮深い何者かに、吹き込まれたような――
「自ら考えることをせず、自分の有り様を自分で定めることをせず、与えられた労働と支配を貪る豚。それが貧民たちの正体だと、そのような考えをあなたに教えた人は、」
「うるさイイイ!!」
メビの左目が潰れた。
クックロビンの刃のように尖った靴の爪先が刺さったのだ。容赦は無かった。激情任せに押し込まれた。瞳孔をずたずたにされ、全く使い物にならなくなった。
(問題ない。生還さえすれば後でいくらでも癒せる)
メビの微笑は崩れない。自らの肉体を回復――損壊遡行術――の被験体にしていた彼女は、拷問には滅法強かった。痛みで思考や判断を損なうまでのラインが異常に高いのだ。
しかし、その彼女の笑みをも凍りつかせる事態が起こった。
「うるさいうるさいうるさい静かに静かにお静かに!」
クックロビンが叫ぶ。頭を振り回して金切り声をあげる。そして屈伸運動を始めた。
「ほらほら見て見て私の動き! 背丈が伸びたり縮んだり!」
――はあ?
唐突な奇行であった。さすがにメビエリアラも意図が読めない。何か複雑な精霊を駆動するための準備動作だろうか? しかし……
クックロビンは屈伸を加速する。激しい運動に息も上がっていく。
「わっしょいわっしょい収穫だ、わっしょいわっしょい豊作だ! わっしょいわっしょいお魚釣れた、わっしょいわっしょい大漁だああ!」
異様な光景だった。
その行為は、今までメビエリアラとしていた腹の探り合いとは全く結びつかないように見えた。クックロビンの部下たちも状況の解釈に困っている。凍りつく者もいれば、互いに顔を見合わせる者もいた。失笑している者も。確かに、クックロビンはふざけているようにも見える。
メビエリアラは冷ややかに観察していた。
わっしょいわっしょいと屈伸運動を繰り返すクックロビンを、メビエリアラは冷ややかに観察していた。
(意味があるはず。収穫、豊作、大漁……富の潤沢? 今、彼の脳内は何かで一杯になっている。理性的な行動ではない。強制的に切り替わった。何かの条件で)
クックロビンは背筋を伸ばして直立し、上半身を前方四十五度に傾け、顔だけは精一杯上を向いて両手をばたつかせた。
「ポーンがボーン! ボーンがホーン! アア一周回ってホーンがポーン!」
まずい。
メビエリアラは焦った。これでは対処のしようがない。
理解が追いつかない。理性なら手玉に取れるが狂気は無理だ。彼の内在律を掴めないことには手の出しようがない。新手の精神防御だろうか?
クックロビンは一人で踊っている。メビエリアラは何もできない。ろくに動けない。しかしこのまま彼を放置してはいけない。何かしなければならない……
「アアアアア! 何ということだ、このクックロビンに殺意を抱いた不届き者がいるぞ! どこにいる! 隠れてないでそこに居直れい!」
クックロビンは腰を落とし、油断なく辺りを見回した。杖に仕込まれた剣をすらりと抜く。その振る舞い自体は理性的で、堂に入ったものだ。しかし意味不明だ。今ここに、彼に殺意を抱く者など誰もいない。
しかも武器を構えてしまっている。危険な状況だ。
「だあれが殺すかクックロビン。だあれが狙うかクックロビン。そうか分かったぞ!」
メビも分かった。彼がどういう状態にあるのかを理解した。しかし遅かった。
「あなたたち! 彼を止めなさい!」
メビエリアラはクックロビンの部下たちに命じた。しかし彼らは従わない。当然だ。クックロビンは彼女を敵視していた。それでも彼らは止めるべきなのだが、理由を説くには時間がない。
クックロビンは剣を水平に構えた。ただし誰もいない方を向いて。存在しない敵と相対するかのように。
彼は威風堂々と語りだす。場違いに。
「そこまでだ。追い詰めたぞ。公僕たる私の命をつけ狙い、街の安寧秩序を乱す大逆者め! 磨き上げた私の奥義、罪深きその身に受けよ。避けようもなきは天意と知れ! 必殺!」
(だめだ) メビエリアラは彼の凶行を止められないのを悟った。
「≪駒鳥の聲≫!」
剣が閃く。同時にピインと、高い音が響く。その名の通り鳥の声のように。
(あらかじめ設定されていた……漏れそうになれば、秘密そのものを消すように)
どさりと、深い絨毯に落ちた物体があった。クックロビンの頭部だ。硬直した表情は真剣そのものだ。本体も傾ぎながら、首から血を吹いて応接間を汚す。
彼は自殺したのだ。
残された者たちは呆然とするしかなかった。
「何か」への手がかりは失われてしまった。
マックオートがシスター達に弁解する傍らで、メビはうわごとをつぶやいていた。
「わたしたちは……議論する。争う。殺しあう。どの教えこそが信仰に足るかをめぐって。
真に崇めるに足る、本物の絶対者が何であるかをめぐって。
ヘレンもまた、それに名乗りを上げた候補のひとつに過ぎない……」
「誰もが、心のどこかで望んでいる。その究極的な結論を。いかなる批判にも耐える、議論の最終回答を。
リザルトを」
「『愚者の振る舞いを鏡とせよ』と云う……では、己の愚行を恐れるのは何故か。その成長はどこに向かうのか」
「『小枝より森を悟れ』と云う……では、望みに沿ってかけられた優しい嘘を、自らの手で暴けと言うのか」
「わたしたちは言葉を発する。それは切実な、あまりに切実なひとつの欲求に基づいて。
『聞いて欲しい』『分かって欲しい』そんな思いが言葉を吐き出す」
「ヘレンは言葉を捨てた。世にあまねく生きるわたしたちをつなぐ唯一の絆を、彼女は拒絶した。
誰が真似できようか? 永遠の孤独に身を投げ出すことを。
あらゆる他人に蔑まれながら、憎まれながら、なお愛を以って自分を保つことを。
まことに残酷な話だ。真の生き方は示されてしまったのだ! もはや見て見ぬ振りはできない。
わたしたちには到達できない。恐れるしかない」
「恐れを知り、それを知恵と錯覚し、恐れを知らぬ者を哀れと蔑み、嘲笑う……
そのような愉悦を信仰に求めるのは、紛れもない堕落だ。
が、認めなければならない。
信仰とは、もっと尊いものだ……という思いが既に陥穽だ。そこに傲慢が含まれている。
避けては通れない。己の傲慢と卑劣を、見つめなければならない」
*
目を覚ましたら自分を心配そうに覗き込む黒髪の男がいたので首を絞めた。
「ふげ!? おいっ」
メビは体力を消耗していた上に何本か指が折れていたので、どうにも力が入らなかった。男の驚愕を観察しながらメビは気を失う前のいきさつを思い出す。事態を把握する。
(この人が助けてくれたのか)
「悪ぃ!」
腹を殴られる。手が離れてしまう。咳き込む。吐血する。
「何してるんですか!」
シスターが叫んだ。メビと男のどっちに言ったのだろう。どちらでもいい。
メビはむせて血を撒きながら、指の折れた右手でシスターを制止した。そして目の前の男――マックオートに言う。
「ありがとうございます。お陰で命拾いしました。黒髪を憎むヘレン教教徒と知った上での親切、心からお礼申し上げます」
まばたきして笑いかける。本心からの感謝だったが、マックオートからすれば皮肉と区別がつかない。
「あ、いや。幾らなんでも死にかけを放置は無いからね」
「不躾ながら、ご親切ついでにもうひとつお願いがあるのですが。わたくし、この通り指を痛めておりまして」
「……何?」
マックオートは嫌な予感を拭えない。これほど聞きたくないレディからの頼みも無かった。
「うっへえ……痛くないんですか?」
「ええ。痛いですよ。とっても」
メビの左目をマックオートの指が抉る。ぐちゃぐちゃになったそこから血の混じった液体が垂れる。
≪損壊の保持≫。
その傷が中途半端に自然治癒して『固着』すれば左目の失明は確定してしまう。あえて負傷状態を維持することで、回復によって完全遡行できる余地を残すという荒業だった。それが可能なのは、メビの個人的な実験で実証済みなのだが、未公表の理論なので他人からすれば常識外れの信じがたい行為だ。
マックオートは気分が悪くて仕方が無い。癒し手がこの教会に到着するまでの我慢だった。
「あッ……あ、あ、あッ、ふぐうッ!」
抑えられる声をわざと漏らして、メビはマックオートの反応を楽しむ。
ウォレスの前におびただしい数の死体が横たわった。
「笛の音の起こされて来てみれば……絶景ですね」
奥の扉から女が現れた。その顔には斜めがけに包帯が巻かれ、左目が隠されている。メビエリアラだった。多数の黒髪の死に、彼女は明らかに喜んでいる。
「メビか。お主、いままでどこで何をしておった。いや、それは後でいい。クックロビンの死をお主は、」
「き、貴族殺しのメビエリアラだと!?」
公騎士たちの中で唯一生かされたハスが叫んだ。彼は巨大なスフィンクスに踏まれて這いつくばっている。
メビエリアラは礼拝堂の中を一望した。どうも彼女が構うべき人間が多いようだ。
震えるシスターたち。どうやら情報源として生かされたらしい公騎士の男、ハス。ウォレス・ザ・ウィルレス。
それから最も大事な者がいる。
「ファローネ様!」
彼女はふらつきながらも、興奮気味にスフィンクスに駆け寄る。その巨大な前足に愛しそうに触れた。人面の獅子は苦い顔をした。
「わしが分かるのか」
彼の今の容貌は本来からは懸け離れている。メビは笑った。
「ええ。ファローネ様の飼われている猫に、毛並みがそっくり。イメージにエフェクトを受けたのでしょう」
「目はどうした。怪我したのか」
「クックロビンから与えられた傷です。ご心配なく。基礎治療は済んでいるので、癒えるのは時間の問題です」
教会の一室を借りて、ファローネ、メビエリアラ、ウォレスが情報を交換する。
「クックロビンはその≪何者か≫の操作で自殺した、という訳じゃな」
「ええ」
ファローネが言う。
「その≪何者か≫を目下最優先で突き止めねばならぬな。正気を保ったままの洗脳。情報を漏らさぬように設定された自害。並大抵の技術ではない」
「その者の客観情報を集めることは、時間と状況が許しませんでした。しかしわたくしは主観を通じてその人間性をある程度は逆算できました」
メビエリアラは語る。
「その者は秘密裏に行動しています。組織を抱えている可能性はありますが、基本的には強力な一人です。クックロビンを魅了し、貴族をも手駒とするカリスマ性。精霊、人間精神、および、それらの関係にも深く通じる知識と洞察。目的のためならあらゆる存在や感情を犠牲にできる冷徹さ。常識にも孤独にも、そして己の欲望にも負けない、自己犠牲じみた、炭素結晶のように強固な信念。貴族にも貧民にも通じる、広い見識……おそらく彼、または彼女は、セブンハウスとエフェクティヴ、どちらにも通じている」
「セブンハウスとエフェクティヴ? メビよ、それは矛盾しているぞ。水と油、ヘレン教と黒髪だ」
ファローネが反論した。ウォレスは考え込んでいる。
メビははっきりと答えた。
「はい。矛盾しています。そしてその矛盾こそが、その者の本質の一端であると、メビは愚考いたします」
「そうか……お前がそう言うのであれば、そうであると考えるのが良いのであろう」
ファローネは頷いた。
そこには信頼関係があった。
「さて……ハス・ヴァーギールへの尋問はどうするかの?」
「メビ、任せていいか? ≪その何者か≫ほどとは行かずとも、お前にも似たようなことは出来るだろう」
「それが、大変申し訳ないのですが、わたくし今は都合が悪いのです」
メビエリアラはファローネに、現在精霊が使えなくなっている理由を説明した。
「ならば、昔ながらの洗脳術を使うしかないのう」
ウォレスがぽつりと言った。
「≪苦痛≫という名の教師をな」
ヘレンには七人の信徒がいた。ヘレンはかれらに教えを与えた。
一人は教えに満足し、明日も要らぬと自害した。
一人は教えを誇りとし、教えを知らぬ者を蔑んだ。
一人は教えを道具とし、富と法と文化に変えた。
一人は教えに酔いしれて、詩吟に変えて愉快に暮らした。
一人は教えを永らわすべく、教えを教えるよう人々に教えた。
一人は教えを進めるべく、思考の深みに潜っていった。
果たして、教えはかれらの蒙を啓いたのだろうか。蒙が蒙と分からぬほど複雑化しただけではないのか。
そして、最後の信徒は教えを受け入れなかった。
裏切り者のヘリオット。
かれが欲したのはヘレンそのものだった。
かれは信徒のふりをしていたのだ。
結局ヘリオットは失敗し、ヘレンを手に入れることはできなかった。
ヘレンはそれを見抜いていたからだ。
それでもかれを手元に置いていた、ヘレンの心情は伝えられていない。
メビエリアラは考える。
おそらくヘレンには、裏切りなど怖くはなかったのだろう。
言葉を捨てて孤独になれるのなら、失って恐れるものなど何もない。
しかしながら、ヘリオットの恋慕を知りながら看過し続けていたのなら、裏切ったのは彼女の方ではないのか……
いや、それではただの痴情劇だ。
ヘリオットが、教えを理解できず我執に耽溺した愚か者であったというだけの話か?
しかしその愚かさが、聖書では妙に入り組んで描かれる。その意味は?
「人が真実を理解するとき、その真実に囚われる」――謙虚者のパラドックス。
自分が黒髪嫌いの愚かさを胸中に飼うのは、無意識にそれに対策しているからなのかも知れない。
自分を助けた黒髪の男。マックオート。
彼は傲慢だ。そして自己中心的だ。ソラを自己演出に利用した。
彼自身がそう言っていた。よく理解しているものだ。
しかしながらその熱量は感動的で、メビエリアラにも稀有な感慨を与えた。
良心。
それは素晴らしく心地よい、ある種の繭だ。みなが篭絡されるのも頷ける。自分を暖かく包んでくれる。守ってくれる。
危険と、新しさの、両方から。
この繭を内側から破るためにはナイフが必要になる。安寧の白を引き裂く、真っ黒なナイフが。
幸いメビは黒髪嫌いだ。
彼女が黒髪を汚物として裁くとき、その手と心が既に黒く汚れている。これが必要だ。
マックオートの熱弁が教会の者たちの心を打ち、黒髪への許容心が芽生えた絶好のタイミングで、黒髪を断罪して見せたかった。
そのエフェクトが何をもたらすのか、とても楽しみにしていたのだが……
マックオートは不穏なものを嗅ぎ取ったらしく、話の途中で逃げ出してしまった。
霊感の強い人だ。
素晴らしいと思ったものをいつでも捨てられることが、とても重要だ。
究極的には、ヘレン以外は、何もかもが手段だ。
≪受難の五日間≫たちを真剣に愛せば、愛をもって応えられるだろう。それは使える。
黒髪嫌悪も手段だ。良心の束縛を逃れて選択肢を広げるための。
そうして得られる回復術や洗脳術も手段。ひとの体と、心を理解するための。
本当に大事なのは、たったひとつ――ヘレンだ。
ヘレンと会いたい。
ヘレンになりたい。
ヘレンを作りたい。
ああ。
ヘレン、どこにおわしますか?
「うわあいい胸! おんいしそう〜っ」
「どなたです?」
礼拝堂を訪れた女に、メビエリアラは尋ねた。
「私? うん、夢路。表の顔は占い師。裏ではエフェクティヴのために心理暗殺士をやってる。灰の教師メビエリアラ・イーストゼット様のお命、頂戴しに来ました! って、すぐ正直になっちゃのが夢のメンドくさいとこなんだよねえ……ま、その記憶を持ち帰らせる気はないんだケド」
「なるほど。ここは夢でしたか。どうりで」
夢路の眉間に穴が空いた。即死だ。
「まだ摂取が十分でないのに精霊が使えるわけですね」
サラマンダーテイル。メビエリアラの指先から放たれたのは、瞬間に生きて死ぬ精霊駆動体だった。質量を持った刺突。夢の中では融通が利くようだ。
夢路の体は灰になってぼろぼろと崩れてしまう。しかしメビの背後から声がかけられる。
「メビ……メビエリアラ……争ってはいけません」
振り向くとステンドグラスが喋っていた。ヘレンを象っていたはずのそれが夢路になってしまっている。モザイク模様の夢路がふざける。
「あなたは間違っています……っていうかイカレてます分かってください……改心してエフェクティヴの理想に従うのです」
「稚拙ですね」
夢路が攻撃を始めるまでに余裕があると見て、メビエリアラはウンディーネを放つ。瞬間に生きて死ぬ精霊駆動体。指先から勢いよく放水する。割れたステンドグラスはしかし、ヘレンのものに戻っていた。
「えーっ、うそ、ヘレン教の教師様がヘレン様を冒涜!? なんてバチ当たり! はわわわ!」
その後も教会を訪れた迷える老人や、ウォレス・ザ・ウィルレスなどに、明らかに騙す気のないクオリティで変身する夢路にウンディーネを放つが、メビは夢路を捉えることが出来なかった。
「あーあーあーあーメビさん暴れちゃってしょうがないですねえ。い〜の? 教会をこんなに水浸しにしちゃって」
メビが放ったはずの水は膝の高さまで溜まっていた。どんどん水位が上がる。
(まずい)
メビエリアラは窮状を悟った。ここでの敗北はおそらく現実にもエフェクトする。
「さーて。単刀直入に聞きましょうか? Q.あなたの一番大切なものは? まあだいたい答えは分かってんだけど……」
「無意味な質問ですね。答えは、ヘレンです。究極です。大切なものは究極そのもの、同語反復です」
正直に答えてしまう。夢では質問に対して偽ることも黙ることもできないようだ。では、逆に質問し返してはどうか。
「では夢路さんの一番」
「わーわーわーわー聞こえない聞こえなーい!!」
夢路は耳を塞いで質問を拒む。そして一方的に言いたいことを言ってくる。
「は? 究極? それって具体的には何も決まってないのと同じじゃないの? 意味ふめーなんですけど」
「その通り。まだないものこそが、未来におわす、」
メビエリアラはその意に反して、心のうちをどんどん吐かされていく。
*
「メビ様! メビ様!」
「!」
シスターに起こされて、メビはベッドで目を覚ました。
深夜。窓から月明かりが差す。
「どうしました? すごいうなされてて……」
「心賊に襲われました。起こしてくれてありがとうございます」
メビは礼を言う。このシスターのお陰で間一髪助かった。
しかしまだ危機は去っていない。心理暗殺士なる者に狙われてしまった。しかもどうやら夢の中では勝てないようだ。そして眠ったらまた夢を狙われる。
つまり、もう寝てはいけないということになる。寝たら殺されるか、精神を破壊されてしまうだろう。
(これから一切眠れない――あの暗殺士を止めるまでは)
メビは薄く笑う。
覚悟した。
シスターに指示を出す。彼女もインカネーションの一人だった。
「貧民街およびラボタ地区を中心に、インカネーション第一および第二部隊全員、それから捜索範囲の信徒も投じて夢路なる占い師を捜索。殺してはなりません。捕獲します」
距離を無視して人の心を覗ける能力者。
是非とも欲しい、とメビエリアラは思った。
f予算そのものはメビエリアラの的ではない。ウォレスから得た情報はファローネたちに投げた。
今や状況は流転している。
日々加速していく現実を追うのに、もはや組織の伝達網では間に合わない。
精神感応網に触れられる能力者――夢路に会えたのは渡りに船だった。
メビエリアラは負傷した夢路を捕らえて拘束し、鎮静剤を打った。
メビエリアラもまた別の薬を自分に注入した。血中の成分を分解再構築して精霊化させる薬だ。メビエリアラの精霊力が瞬時にして癒える。ただしその副作用で子供時代の記憶がいくらか溶けた。まあ大した落し物ではない。急ぐべき時というのはある。
「お姫様、明日はこれを着てお出かけしましょう」
夢路の内心をノックして鍵を開ける。夢路は答えた。
「ママ……」
「夢路、ママを助けて。夢路の糸で、みんなの夢を見せて……」
睡眠時間帯を狙って精神感応網の夢想域を駆け抜ける。夢路を案内人に立ててメビエリアラは目的のものを探した。≪それ≫がどこにいる誰なのかは知らない。存在する、という情報を掴んでいる訳でもない。すべてはメビの想像だ。しかし、セブンハウスやエフェクティヴが≪それ≫を「研究して」「作って」いない訳がない。
メビエリアラはウンディーネを撒き散らして、寝ているリリオットの住人をランダムに発狂させた。その時、その動きを感知する「視線」があるはずだ――
「いたよ、ママ!」
「すごーい夢路! さすがはお姫様! どっちかな?」
夢路が一方向を指し示す。メビエリアラはそちらに向かって走り出す。迷わずに。
「待って、ママー!」
夢路が転ぶ。泣く。メビエリアラは待たなかった。捨てた。顔面に笑みを張り付かせて目標へと飛ぶ。
「感知……接近。インカネーション教師。≪受難の五日間≫末席。灰のメビエリアラ」
「はじめまして、観測者さん」
精神感応網上の夢想域上の仮想空間内でカガリヤ・イライアと出会った。そのまま交戦。千日手で勝利。頭を抱えて心を繋ぎ、マウントする。
視界が広がった。街の情報が流れ込んでくる。
(ヘレンは実在した――エルフだった)
(その力が、波及が、ソフィアなる女性に宿っている。なるほどしかし、わたしが求めているのは実在などではない)
(ヘレンの名を関する事象は複数ありましたか。名は、ふさわしいものに名づけられるべきもの――)
(もっと大きな概念を探しましょう――精霊王? 核? 理解を絶する力――人は、かつてそこに至ったことがあった)
(ムールド・クオル・カナル・ヒエト・ラクリシャ。ムールド・アウルリオス・フォン・ラクリシャ。彼は――)
ついでにこれまで会った暖かい者も覗く。
(ウォレス・ザ・ウィルレス――意気地を得た。足踏みはやめたのね)
(マックオート・グラキエス――迷いを抜けて光を得た)
(シャスタ――立ち止まりながらも決意を決めましたか)
(リューシャ――最初から力強かった。鍛えられた鋼のよう。氷のうちに秘める炎)
(ヴィジャ――あれこそヘレンか。練り上げられていた。完成されていた)
(ライ・ハートフィールド――分岐点に立った。言葉に、詩にヘレンを見ている)
「ヘレン。白痴の戦乙女。剣を振るい、強大な敵を破った英雄。多くの者がその神話を求めた。それは夢のような物語だった」
俯瞰に没入していたメビエリアラに、背後から声がかかる。
振り向くと、男がいた。その顔は見えない。時計だった。仮面を被っている。
「どなたですか?」
「メビエリアラ・イーストゼット。貴方も役者に相応しい」
こちらの質問に答えない。駆け引きか? 違う。演出だ。この男は詩を使う。会話を成立させるには、波長を踊らせる必要があるようだ。
「既に誰もが、この世を演じる役者なのでは?」
「私はこの世という劇に、もう一枚ヴェールを被せたい。『物語を綴るもの』、そして『強大なもの』。……ヘレンが其処にある時、何時だって其処には物語と強大な力がありました」
メビエリアラは口に手を当てる。
「あなたが綴るというのですか? ヘレンとなって?」
「貴女にも綴ってもらいます。もしも──、意図的にヘレンを呼び起こせるのだとしたら。そして、その為に貴方の力が必要だとしたら」
男が一歩近づいてくる。メビはカガリヤを通して確認する。その名はサルバーデル。
「手を貸して頂けますね?」
「条件次第ですね。あなたの綴る物語が十分に、新しいなら、間違っているように見えるなら、悪いなら、美醜いずれかに振り切れているなら――」
サルバーデルはフフフと笑った。
「任せて下さい」
メビエリアラが説教を終えると弟子達はいつも、感激の声を上げる。
「素晴らしいです! 一生ついていきます、メビエリアラ様!」
「わたしもヘレンのように、強く美しく生きたい……!」
節穴そのものの目を輝かせる弟子達。メビエリアラは内心で嘆息する。
あなたがたは、わたしの話でいったい何を聞いていたのか?
今感じているその喜びこそが目を曇らせる霧そのものだと、なぜ気づかないのか?
自分は変わった、目が覚めた、と口々に言いながらも昨日と変わらぬ今日を生きる。あなたがたは何なのか?
世俗は常識に囚われている。しかし常識を脱したヘレン教徒もまた、新たな枠に囚われてしまう。
そんなことだからメビが河原で拾った石ころを高値で買わされる羽目になる。何が聖石か。
もういい。
メビエリアラは教会を去った。夢でサルバーデルと交わした約束に従い、時計館”最果て”に赴く。
そこで彼女を出迎えたのはウォレスだった。
「教会を切ったか。相変わらず生き急いでるな、メビエリアラ」
「いいえ、わたしの求める未来――≪未だ在らざるもの≫のために教会はまだまだ必要です。しかしウォレス様も変わられましたね。死の経験はいかがでしたか? それはあなたの身も心もを作り変えましたか? 新たな段階に引き上げましたか?」
「さよう。今のわしはもはやウィルレスたり得ない。死んでしまったからな。しかし死を恐れることもなくなった。消えることも変わることもだ。わしはわしを変え続ける。魔力で死を弄ぶ。この身も今や、どこまで人と言えるのか……」
「よくぞここまで練り上げました。お見事です。そのウォレス様に是非とも一つ、頂きたいものがあります」
メビエリアラは彼女の「希望」を告げる。
ウォレスは笑った。それは非常に稀有な現象であった。
「クックッ……何を言い出すかと思えば、お主はつくづく狂っているものだ! このわしに、あろうことかウォレスに、そのような世迷い事を抜かす者が、まさかこの世にいようとはな! 本当に、メビ、全くお主はどういう育ち方をしたのか……」
過去を問われてメビエリアラ・イーストゼットの脳裏をかすめるのは、幼き日の記憶だった。
燃える屋敷。自暴自棄に笑う姉。彼女は今頃どうしているのか。生き延びたのだったか、死んでいるのだったか、彼女には愛されていたか、そうではなかったか。いや、あれは姉ではなく母であったか。薬にかき混ぜられ過ぎた記憶は既に情報を損失し、どのような手段でも遡行できない。それなりに特殊な過去だったはずだが、それはもう無い。
どうでもいいことだ。心の空洞を吹き抜ける風の音も、メビエリアラには心地よい。
「良かろう。わしはもはやウィルレスではない、遺言なしでもない、願いなしでもない、意気地なしでもないのだからな。お主の『希望』、叶えてしんぜよう。ただし――」
ウォレスは言った。
「わしは『死』を使うぞ」
「望むところです」
メビエリアラは笑う。いつだって。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
そこは祈りの集う場所。救いを求める怨嗟の声を、美しく飾って崇める館。
そして、アーネチカが歩んできた無数の故郷のひとつでもある。彼女は歩く。どこからも来る。どこへでも行く。
礼拝堂の床には死体が溢れかえっていた。それは神を信じ切れなかった半端者たちの夢の跡だった。
アーネチカはそれも踏み越える。どこでも歩ける。
教壇に一人の女がいた。光に満ちるステンドグラスを背に、超然とアーネチカを見下ろしている。
アーネチカは女に問う。
「ああ教師様、わたしは果たしてここに来ました。ここでなら、神さまに会えると思ったからです。ねえ、神さまはどこにおわしますの? わたしはお礼を言いたいの」
教師は断言した。
「そんなものはいません」
「そんな! 教師様ともあろうお方が神を否定するのですか? そのくせ神について説き、神の名の下に民の心を平伏せさせる。何という茶番なのでしょう!」
「疑うことで神を殺し続けているのはあなたがたです。望む答えを得て喜ぶ人たちに、真実が姿を見せることはないでしょう」
否定されても意に介さず、アーネチカは反問する。
「では教師様、あなたにだけ見えるというのですか? そして見えない私たちを見下ろして嘲笑っているのですか?」
「見せることは出来ます……これです」
教師は手のひらを差し出した。石が乗っていた。そこら辺に転がっているような、何でもない石だ。
「聖石。またの名を――『虚妄石』。何の価値もないこの石を宝と信じ、何万人もが争って死んだ。そんな物語の宿った石。本当に信じきれば、いつしか光輝くでしょう」
「茶番ね!」
アーネチカが腕を一閃する。不可視の刃が空間を薙いだ。
教師の体がどさりと崩れ、元からあった死体の群れに加わる。
その手から虚妄石がこぼれる。
それを拾ったアーネチカを、暴力的な力が襲った。
アーネチカは訳も分からず礼拝堂を端まで吹き飛ばされ、背中から壁に叩き付けられる。血を吐く。
「!?」
教師の肉体は贄に過ぎなかった。その背中を突き破って腕が出る。体が割れて、巨大な竜が現れる。
竜はこの世に現出してすぐに暴虐の限りを尽くした。咆哮は礼拝堂の壁と天井を吹き飛ばした。
山が飛び、海が割れた。大地も裂けた。
暴れる世界の中で、アーネチカの肉体ももみくちゃにされる。
すぐ悟る。これは勝てない。規格外れの卑劣な強さだった。
為すすべなく死んでしまう。
「茶番には付き合わない」
彼女は虚妄石を両手で包み込み、そのまま本のように閉じてしまう。
ふっと舞台は暗転し、幕が下りる。
〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜
大きな虎が銅の皮膚をこすれさせながら、観客を蹴散らしてライを追った。ライは逃げようとした。しかし虎は素早かった。回りこまれてしまった。
その背に座っていたヘレン教の女教師が、優雅に降りる。語りかけてきた。
「今、あなたは逃げようとしましたね。勇敢にも。自分を守るために。大切な人を守るために。正しい選択でした」
ライはとりあえずほっとした。相対することになりそうなのが禍々しい魔法使いでも機械のような虎でもなく、自分とそう歳が離れていない女だったからだ。
「行動には、目的があります。自覚せずとも必ず。内在する欲求がそれを成すこともあるし、自ら定めることもできます。ライ・ハートフィールド、あなたは何のために生きていますか? 自分の命を、何になら捧げる気になりますか?」
美しい女の笑顔。しかし見ていて寒気がする。ライは不吉なものを覚えた。魔法使いや虎よりも脅威は少なそうに見えるが、自分の手に負えないものであることに変わりは無いのではないのか。危機的状況にあるというのに彼の頭には(まずいことになった。こいつはあの【受難の五日間<<ペインウィーク>>】の末席、【灰<<フレイムエンド>>】のメビエリアラ……)などと余計な文句も浮かんでいた。
ライはメビエリアラに剣を向けて言い返した。逃げても無駄だし、弟の目もある。それに哲学問答なら得意だった。
「失せろ。人の命を何かのコストだと思っているような邪悪な存在に、俺は負けない」
決まった、と思った。メビエリアラもほう、と感嘆を見せた。
「あなたを選んだ甲斐がありました。あなたはとっても……」
時間伯爵と言いウォレスと言い公騎士と言い、自分の演技に対して好意的だ。世界は案外優しいものなのかも知れない。
それにしても、とライは考える。この女はなぜ自分などに絡んで来るのだろう。
その疑問を読んだかのように、メビエリアラは言葉を続けてきた。
「私はもう人生の目的を果たしています。完全に。もはや後は消化試合。余った命を、私は何に使おうかと考えました。答えは出ました。これまで出会った中で、私の命から最も大きなエフェクトを受けそうな人物は誰か」
メビエリアラは近づいてくる。ライは剣を持つ手が震えるのを感じた。怖いと言うより、剣を持つ手がそろそろ疲れてきている。
「あなたに一つ、プレゼントを差し上げましょう。『勇気』です」
(勇気? 何のことだ?)(ウォレスの七片は『希望』……『希望のランプのオリジナル』)(メビエリアラのは、劇中では確か『虚妄石』だったはず)(勇気……【勇気<<シャイニングハート>>】ということなのか?)(違うのでは?)
「俺は負けない! うおおおおおお!」
そう叫んで飛び出したのはライではなかった。ペテロだった。メビエリアラに向かって駆けていく。彼は【致命的な小枝<<ミストルティン>>】。
「あっ、馬鹿――」
ライの反応は間に合わなかった。メビエリアラはタイミングを合わせて踏み込み、近づく子供を思い切り蹴った。つま先がペテロのわき腹に刺さる。ペテロはゲッと息を漏らす。そのまま真横に吹き飛び、石畳の上をごろごろ転がる。
ライの頭の中を渦巻いていた言葉が消え失せた。
何がどうなったのだろう。
ライは弟を傷つけられて、その安否を確かめるよりも前に逆上してしまい、メビエリアラに斬りかかった。
そして気がつくと、メビエリアラとの戦いは終わっていた。
メビエリアラを見る。狂女は仰向けに倒れていた。
勝てたのが不思議だ。ライの剣に彼女は精霊で応戦したが、不思議と彼の攻撃ばかりが当たった。ライも無傷では済まなかったが。
逆に、メビの攻撃はライの剣でほとんど弾き返した。剣はまるで、精霊の動きを予測しているかのように動いた。いや、逆なのかも知れない。
(死んだのか……)
メビエリアラは穿たれた胸と背中から血を流していた。死んでいた。微動だにしないが、目は開いていた。大きく。空を見て驚いているかのように。そしてまだ笑っていた。
刺したのはライだった。剣を伝ってきたヘレン教教師の血は、彼の手を汚した。
(殺したのか)(俺は変わったのか)(一線を越えちまったのか)(ぺテロになんて)(ヒーローソードから、ブラッ……うっ)
頭が痛い。吐き気もする。気持ち悪い。手も洗いたい……
(ペテロ)(ペテロは……さらわれてしまった。鷹に乗ったウォレスに)(弟の命が惜しければ虚妄石を持って来いとか言ってたな……)
その石は彼のすぐそばに転がっていた。刺される間際、メビがわざと落としていた。
(馬鹿にしやがって)(こんなことまでして人を茶番に付き合せようってのか)(さながら俺は悲劇に魅入ら)(うっ……)
複数の感情が混濁する。怒りとも絶望とも苦痛ともつかぬそれは、ライの心を激震で満たした。叫ぶ。
「うああああああああああ!」
ライが叫んだ後に少ししてから、インカネーションの数人が来た。彼らはライや虚妄石には目もくれず、メビエリアラの遺体を回収してしまった。彼女自身の指示だった。
その時点ではまだメビの腹はふくらみ始めたばかりで、異変に気づいた者はいなかった。
『死』を境に、メビエリアラの腹は見る見るうちに膨らんだ。
膣口を広げて出てきたのは、泥だった。
それらの変化のすべてはごく短時間で起き、すべて記録された。
死んだ女教師は聖骸として保管された。記録上は処女のままであったとされた。
一方それが産み落とした泥は監視の下に置かれた。
それは増えた。
水汲み桶からはみ出たので洗濯桶に移し変えたが、その容量もほどなくして不足した。
どうも増え方自体が増えているようで、放置すればリリオットはおろか世界中をこの泥が覆ってしまう危険も考えられた。
よく分からないが安全には代えられない。それは燃やされた。しかし失敗した。
一部は燃えたが、すぐに泥全体が耐性をつけた。
大鍋に入れて加熱したり電撃を加えたりと色々試されたが、何をしてもそれはすぐに無効化された。
泥を分割しても同じことで、耐性学習らしき効果は他の塊に伝播した。
どうやっても滅ぼせないようだった。
しばらくすると泥は増えなくなった。
その代わりに形を変えたり外的刺激に反応したりと、生命らしき振る舞いをするようになった。
危険がとりあえずなくなり、なおかつ観察者の好奇心を刺激したことで、それの管理はふたたび監視へと移行した。
泥が人間に危害を加えることは無かった。
後知恵では都合のいいように何とでも言えるものだ。
泥の振る舞いは記録を元に、後になってから以下のように解釈された。
・泥は生物のようなもので、ゲドルト・ハラルシュティンが言うところの≪進化≫のようなものを行っていた
・ただしその速度は既に知られている生物の比にならない
・最初はその体積を増やようとした
・しかしそれは失敗した。その方向には障壁があると見て、泥は存在維持のための戦略を変えた
・環境を意識していた。すなわち、自分が遭遇している何者か(人間)と協調するために気を引いたり、意志の疎通を図ろうとした
・やがて泥は、効率よく意志疎通をはかるため、形を変えての身振りなど、人の振る舞いを模倣することを発見した
・母体に関する記憶を、いくらか保持していた
紆余曲折を経て、泥は人の姿になった。
道行くリューシャの前に、金髪の少年が現れた。緑のローブを引きずっていた。
誰かに似ていると思ったが、すぐには思い当たらなかった。
金髪と言えばソラ、メビエリアラやそれを殺した少年と言った面々が思い浮かぶが、どれも異なる。
ヴェーラが比較的近い気もするが、やはり違う。彼女ほどではないにしろ、よく見たような顔なのだが。
少年は言葉を話さなかった。
話せなかったのかも知れない。何かを訴えようとしていた。身振りだけで、懸命に。
リューシャは言葉を持たぬものと接する術も心得ている。
その少年が伝えようとするものを辛抱強く読み取ろうとした。
じっと見つめてリューシャは直感する。
「お礼を言いたいの? わたしに?」
何の感謝だろうと考える。はたと、彼が誰に似ているかを悟った。
その言い分は、姿をくれてありがとうございます、と言ったところだろうか。
精霊が飽和して現実を塗り替え続けたリリオットだ。
何かのエフェクトでこのようなものが生まれることもあるのだろう。
その剣を見て氷を知った。
とはいえ「氷」などといったシンボルに概念を結びつけることはしないが。
彼の脳を中心とする肉体組成のうねりは、言語思考とは異なるプロセスでイメージを展開した。
氷も結晶構造を持つので鉱物である。
構造の密度と堅牢性によっては融点が鉄ほどに高まり、そのような氷は加工や鍛造にも耐える。
目の前の女性が馳せる想いが、何なのかは分かる。
熱の少ない思考を持つ彼女とは言え、肉体が耐える冷たさには限界がある。
彼女の服はその脆さを保護するように出来ている。
強い太陽光に耐えそうな肌でもない。
やはり彼女は、とても冷たいところで発生したものであるらしい。
そのような場所では特に水分の震動が失速し、固まって動かなくなる。
おそらく地表は氷かそれに類似するもので覆われているだろう。
視界は画一的になり、単純になり、偶然による印象の統合が形成されやすくなるはずだ。
彼女はそれをずっと見てきた。当たり前のように。
しかしものごとの特徴は、別物との比較で明らかになる。
ものごとの輪郭は、そこから外に出て初めて見えるようになる。
いま彼女はここにいて、もといたところを別の視点から見直しているのだ。
そして間接的に自分自身を再認識している。
自分を多く知るほどに、その欲求や、能力の限界や、それらから導かれる戦略が明確になっていく。
それは彼にはまだない感覚だ。
自分の能力の限界をほとんど知らないからだ。
しかし、目の前の相手を通して類推することはできる。
彼女に迷いはなく、自分がこれから素朴な喜びに至れると、極めて楽観的に期待しているようだ。
未来への楽観は、この世の在りようへの信頼に近い。
そこには自分自身をも含むのが、神頼みとは一味違うところだ。
彼にかすかに残っている母体の余韻も、それを推奨していた。
少年は言葉を持たない。
しかし彼がリューシャに感じた勝手な共感を、氷のような心の内に見い出せる落ち着いた揺らめきを、言葉という枠に押し込めてみたなら、たとえばそれを「暖かさ」とする主観もあるだろう。
[0-773]
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